狂った女神

「ああ、散瑠姫ちるひめ様っていう名前だったんですね。もやもやしてたのがすっきり……え? 散瑠姫様?」


 口に出した単語と印象深い記憶の合致に、冷良は思わず瓊瓊杵を二度見した。

 散瑠姫――正式な神名を、木花散瑠姫このはなちるひめ。冷良や幹奈たちが仕える木花咲耶姫このはなさくやひめの姉神であり、瓊瓊杵たち心無い神たちから晒し者にされ、傷心で失踪していた筈の御方である。

 あまりに唐突な遭遇に、目の前の現実をどう受け止めたらいいのか分からない冷良。

 と――


「……ようやく、戻って来てくれた」


 いつの間にかすぐ目の前まで移動していた散瑠姫の細指が、割れ物を触るような手つきで冷良の頬を撫でた。


「……凄く、長く感じた」

「そ、それは申し訳ありませんで」


 喜色満面の恍惚こうこつとした笑みを浮かべる散瑠姫の瞳は冷良ただ一人を捉えており、すぐ隣に佇む瓊瓊杵の姿すら眼中に入っていないようだ。

 散瑠姫の気質は既に咲耶姫から聞いている。抱いた印象は『物静かで優しい女神』だ。実際に相対している今もその印象が裏切られるようなことはない。

 ただ、何故だか気後れを感じずにはいられない。

 散瑠姫が女神だから? 理由の一端ではあるかもしれないが、妹神である咲耶姫と相対する時とは何かが決定的に違う。

 冷良が心に引っ掛かる違和感の正体を掴めないまま、散瑠姫は更に身を寄せてくる。


「……現世での、仕事は済んだ? もう、ずっと一緒に、いてくれる?」

「や、あの時の仕事はもう済んでますけど、今は別の仕事中と言いますか、絶賛さらわれ中と言いますか……」

「……まだ、駄目なの?」


 散瑠姫の表情から喜色が消え、不機嫌を表すように目が細められる。

 軽々しく返答してはいけない、そう思わせる不吉な気配があって――


「あまり困らせてやるな、その者は俺に無理矢理連れて来られたに過ぎん」


 瓊瓊杵が助け舟を入れた瞬間、ばね仕掛けのような勢いで散瑠姫の首が回る。


「……瓊瓊……杵……?」

「そうだ、そなたの婚約者だった瓊瓊杵だ」


 神話の時代から確執の続く二人が今、長い時を経て相まみえた。

 訳の分からないままここへ連れて来られ、不穏な気配を感じ取ってしまった冷良だが、それでもなお、まさに歴史的とも呼ぶべきこの瞬間への興味が勝ってしまう。

 少なくとも、この二柱の再開が穏やかで始まることはあるまいが、精神的に参っている咲耶姫を元気付けるまたとない機会でもある。心情的には不安七割に期待三割といったところ。

 果たして鬼が出るか蛇が出るか。

 固唾かたずを飲んで見守る冷良の前で――瓊瓊杵の姿が消えた。


「え……?」


 一瞬遅れて認識したのは、いきなり地面から生えてきた木だ。それが槍のように瓊瓊杵の腹を貫き、そのまま吹き飛ばしたのだ。


「……瓊瓊杵……瓊瓊杵……瓊瓊杵瓊瓊杵瓊瓊杵ぃ……!」


 地獄の怨嗟えんさもかくやとばかりの叫びと共に、更に生えてくる大量の木々が瓊瓊杵へと殺到する。


「……死ね、死ね死ね死ねぇ!」


 生物のように群がり、絡みながら隙間を埋め尽くす様はまるで木で出来た団子を作ろうとしているかのよう。本物の生物が巻き込まれたなら、あっという間に挽肉ひきにくになってしまうことだろう。


「……邪魔者は消えたから、沢山お喋り、しよう?」


 今しがた繰り広げられた惨劇が幻だったのではと錯覚するほどの、無邪気で穏やかな笑顔だった。

 事ここに至ってようやく、冷良の全身が総毛立つ。


「い、今のは……?」

「……大丈夫、私の権能、だから」


 何がどうして大丈夫なのか。怖がらせまいという気づかいが、直前までの落差と合わさってより不安をあおる。

 理解が出来ない、いくら憎しみが募っていたとしても、何故他者を手にかけた直後にこんな態度でいられるのか。

 散瑠姫が友達を誘うような気さくさで冷良の手を取る。

 と――


「流石に驚いたぞ、大人しげだったそなたがあそこまで過激な手でくるとは思わなかった」


 割って入ってきた声に振り返ってみれば、内側から木の団子を剣で斬り、方々ほうぼうていで抜け出してくる瓊瓊杵の姿があった。


「やれやれ、本当に肝が冷えた。これが無ければ冗談抜きで隠れる羽目になっていたやもしれん」


 瓊瓊杵が懐から出したのは、薄っすらと光を放つ神々しい勾玉だ。


「厄除けとしては最上級の代物だ。まあ、そなたからしてみれば、俺こそが厄そのものなのだろうがな」

「瓊瓊杵ぃ……!」


 歯を剥き目を血走らせる散瑠姫の姿は、女神というよりもはや悪鬼だ。彼女が腕をかざすと、したり顔だった瓊瓊杵が膝を付き、勾玉の放つ光がいっそう強くなる。よく見れば、瓊瓊杵の足に細い根が巻き付いていた。


「ああ、生命力を吸収するまでがそなたの権能だった、な!」


 素早く根を斬って難を逃れる瓊瓊杵だが、続けざまに現れる木が息つかせる暇もなく襲い掛かる。

 瓊瓊杵はあちこちへ避けつつ剣で打ち払いと立ち回るが、どうやら荒事に秀でている訳ではなさそうで、対処で一杯一杯のようだ。


「…消えろ……早く、いなくなれ……!」

「おい、少し待――よく見ろ、冷良が怯えているぞ!?」

「お、怯えてませんし!」


 嵐の中一人で取り残されたような心細さはあるが、これ見よがしに引き合いに出されると反射的に見栄を張ってしまった。

 とはいえ、散瑠姫にとっては無視できない事案だったようで、しまったという顔で冷良の方へ振り返る。

 すると、冷良の足元から這うように木が生えてきた。


「うわっ!?」

「……あなたは、見ちゃ駄目」


 木はそのまま顔に巻き付き、視界を塞がれてしまった。一応、惨劇を見せない気遣いは出来るようだが、流石にこのまま成り行き任せというわけにはいかない。


「ちょっ、ちょちょちょっと待った! 待ってください! 気持ちはよーく分かるんですけど落ち着いてください! 瓊瓊杵様が殺されると大変なことになるんです!」


 瓊瓊杵は『悪意』の封印を担う神の一柱だ、彼が隠れてしまえば封印にどんな悪影響が出るか想像もつかない。

 ついでに言えば、瓊瓊杵は曲がりなりにも咲耶姫の客である。客を死なせてしまえば彼女の責任問題にもなりかねない。


「それに、咲耶様もお姉さんが誰かを殺めたらきっと悲しみますよ!」


 例えどんな理由があろうとも、身内に道を踏み外して欲しくないと願うのは人も神も変わるまい。


「…………」


 散瑠姫は何も応えない。

 ただ、他の音も聞こえない。風を薙ぐ音も衝突する音も、木が折れる音も。時間が止まってしまったような静寂である。

 不意に、顔に巻き付いていた木の拘束が緩んだ。真っ暗だった瞼の裏が薄っすらと色味を帯びる。

 聞き入れてくれたのだろうか?

 冷良は恐る恐る目を開き――

 ――間近に迫っていた散瑠姫の顔を前に、喉からか細い吐息を漏らすことになった。

 息がかかるどころか、互いの鼻先が触れ合ってしまいそうな超至近距離。視界の殆どを埋め尽くす肌色の衝撃が一瞬とはいえ天地の感覚すら吹き飛ばす。

 何より肝を冷やしたのは、その表情に宿っていたのが初対面時の優しさでも、瓊瓊杵に向けていた凄まじい殺意でもない、能面のような『無』だったことである。そのくせ目は限界まで見開かれており、凄みがとてつもない。


「……咲耶って、木花咲耶姫?」

「は、はい、そうです。あなたの妹さんのことです」

「……どうして、今、あいつを引き合いに、出すの? 美しくて可憐な、咲耶姫なら、こんな野蛮な真似はしないって、言いたいの?」

「いえいえいえ! 引き合いに出したつもりなんて全く! ただ、僕は咲耶様の巫女で、咲耶様がどんな方なのか知ってるんです。だから、散瑠姫様に瓊瓊杵様を殺めて欲しくないなと」


 散瑠姫の目が瞬く。


「……あいつの……巫女……?」

「あ、本当ですよ? 何なら瓊瓊杵に確認してみてください」


 真偽を疑われたのかと思ったが、散瑠姫は瓊瓊杵に確認を取ることもなく、俯いてぶつぶつと何かを呟いたかと思えば頭に両手を伸ばす。


「……うぅ……うぅうう……うぅうぅうぅうぅうぅうぅうぅ~~~~~~!」


 唸り声を上げながら両手で頭を掻きむしる姿は、とても神――いや、知性ある存在とは思えなかった。

 散瑠姫のあまりに酷い有様に、流石の瓊瓊杵もいぶかしみ始める。


「散瑠姫……散瑠姫! 何だ、冷良が咲耶姫の巫女だからどうした!? おい、聞こえているか!? そなたを虚仮こけにした瓊瓊杵がここにいるぞ!」


 問答無用で殺しにかかるほどの恨みを持つ瓊瓊杵が挑発しても、散瑠姫は一顧いっこだにしない。

 誰もが言葉を発しないまま、ただ頭を掻きむしる音だけが響く。あまりに異様なのに自分たちは黙って立ち尽くすだけ。音が鼓膜を震わせる度に精神が削り取られていくような感覚に襲われる。

 そのままどれくらい時間が経っただろうか、長かったような気もするし短かったような気もする。

 不意に、散瑠姫が頭を掻きむしるのを止めて顔を上げた。

 そこに浮かぶのは瓊瓊杵を認識する前と同じ、冷良が嘘偽りなく綺麗と評した無邪気で優しい笑顔。


「……別に、悩まなくても、よかった。あなたが、あいつの巫女を辞めて、私の巫女になれば、問題無し♪」


 閃いたとばかりに手を打つ。自分の言動に疑問を持っている様子はない、冗談でも何でもなく、心の底からいい考えだと思っているらしい。付け加えるなら、冷良が申し出を断ることを欠片も想像していないようだ。

 唇が渇き、不快な汗が首筋を流れ落ちる。

 今から口にする返事はまず間違いなく散瑠姫の意に沿わない。その結果どうなるかもある程度想像はついてしまう。

 しかしそればかりは、決して唯唯諾諾いいだくだくと従う訳にはいかない。


「ごめんなさい、僕は咲耶様の巫女を辞めるつもりはありません」

「…………」


 ゆっくりと、散瑠姫は合わせていた手を下ろして拳を握る。


「……どうして、あいつに付くの? 私のこと、綺麗って、言ってくれたのに……」

「同僚の巫女達や上司、咲耶様には良くしてもらってます。なのに何も返せないまま勝手にくら替えなんて――」

「――……やっぱり、綺麗なんて、嘘。おべっかなんかで舞い上がった私を、心の中で、ずっと馬鹿にしてた……っ!」

「――っ、おべっかだなんて僕は微塵も――」

「――……でも、いいや。お気に入りなら、っちゃえば、あいつも、悔しがるだろうし」

「――っ」


 冷良が散瑠姫の意図に気付いた時には遅かった。咄嗟にその場から飛び退こうとするが、身体が地面から離れず、そのまま背中から倒れ込んでしまう。即座に上半身を起こして確認すると、いつの間にか両足が木で拘束されていた。

 更に続けて左手首にも木が巻き付いて引っ張られる。

 冷良は反射的に残った右手を胸元に引き戻し、氷の小太刀を生成、やはり忍び寄っていた木と他の四肢を拘束する木を切り裂いてその場から飛び退いた。

 が、着地した際に四肢が思ったように動かず、身体を支えきれずに膝を付いてしまう。


「これは……」


 冷良が脳裏に思い浮かべたのは、さきほど木の団子から抜け出した瓊瓊杵が膝を付いている姿だ。奴はあの時、生命力を吸収するまでが散瑠姫の権能だと言っていたか。地面から生えてくる木は触れるだけでも脅威だと思った方が良さそうだ。

 幸い脱力感はあるものの身動きが全く出来ないほどではない、気合を入れて立ち上がり散瑠姫の姿を視界に収める。


「……大丈夫、殺しまでは、しないから。安心して、諦めて?」


 当然ながら、はいそうしますと諦めるなんて言語道断である。

 とはいえ困った。

 散瑠姫は明確な害意を見せているが、そもそも彼女は咲耶姫の姉神である。しかも明らかに様子がおかしい。敵対して倒せばいいという単純な問題ではないのだ。

 そうして次々と襲い来る木を切り払いながら悩んでいると、傍らに瓊瓊杵が降り立った。


「冷良よ、無理やり連れて来ておいて何だが、この場は一旦引くぞ。今の散瑠姫にまともな理屈は通じん」

「そんな感じですね」


 瓊瓊杵の提案に冷良も否やはなく、即座にきびすを返す。


「……行かせない」


 当然、散瑠姫が黙って逃がしてくれる筈はなく、地面から大量に生えた木がありとあらゆる方向から襲い掛かって来る。冷良と瓊瓊杵はそれぞれの刃を振るいながら、人食いの森と化した神域を必死にひた走る。


「開け!」


 瓊瓊杵が印を切り、前方に現れた障子が開く。その向こうは瓊瓊杵の神域へ連れ去られる前にいた花の都の路地だ。


「ぬぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

「うりゃぁああああああああああああああああああ!」


 最後のひと踏ん張りとばかりに加速する冷良と瓊瓊杵。

 そのまま現世の路地へ転がり込み、即座に瓊瓊杵が剣を手放して両手を打ち合わせると障子が閉じようとするが、すぐ後ろまで迫っていた大量の木がなだれ込むように飛び出してきた。


「ぐ……ぬ……っ!」

 瓊瓊杵は構わず無理やりにでも障子を閉じようとしているようだが、栓となっている木々も触手のように蠢(うごめ)いて抵抗している。

 やがて障子の方が圧に耐え切れなくなり、木枠にひびが入って壊れ始めると、苦悶の表情だった瓊瓊杵が苦し紛れの笑みを浮かべた。 


「ふっ、そう欲しがるな! すぐにまた二人揃って出向く故な!」


 その宣言が効いたのかは定かではないが、蠢く木々の動きが若干鈍った……ような気がする。


「冷良!」

「了・解!」


 呼び掛けの意味を組んだ冷良は立ち上がり、両手の小太刀で木々の先端を次々と寸断していく。畳み掛けるように瓊瓊杵も障子を閉じる力を強くしていく。


「ふん!」


 最後に瓊瓊杵が気合の声を放ち、木々をへし折る音と共に障子を閉じて現世と幽世の繋がりを断ち切った。

 十つほど数え、特に追加の異変が発生しないことを確認した冷良と瓊瓊杵は、二人揃ってその場にへたり込んだ。

 ようやく緊張の糸が切れた冷良は身体が望むまま大量の空気を摂取し、頭の中も空っぽにして束の間の休息を享受したいところだったが、瓊瓊杵が険しい表情でおもむろに口を開く。


「……由々しい事態になった」

「そうですね、大好きなお姉さんがあんなに荒(すさ)んで……咲耶様に何て言ったらいいか……」

「いや、事態はそう単純ではない」

「へ?」

「散瑠姫が黒いもやのようなものを纏っていただろう? あれは具象化するほどに濃密な『悪意』そのものだ。性格が荒んだなどと生易しいものではない、『悪意』に侵され、散瑠姫という女神の存在そのものが歪んでいると見て間違いあるまい」


 立ち上がった瓊瓊杵は懐から小さな勾玉を取り出して空中に放り投げた。すると小さな爆発と共に三つ足の鴉が現れ、瓊瓊杵の肩に止まった。

 瓊瓊杵は更に短冊と筆を取り出し、短い文をしたためて鴉の身体に紐で結びつける。


「早急に頼むぞ」


 鴉は頷き、現世の青い空へと飛び去って行った。


「戻るぞ、咲耶姫にも話をつけておかねばなるまい」

「は、はい!」


 瓊瓊杵は瓊瓊杵で細かい説明をしている余裕もないほど焦っているのだろう。端的な事実だけを聞かされた冷良はいまいち事件の全貌を掴み切れない。

 ただ、自分が思っている以上に大変な事態なのは間違いあるまい。

 不透明な先行きに不吉な予感を抱きながらも、大人しくついていくしかない冷良だった。






 幽世を渡り歩いている間に結構な時間が経っていたらしい、冷良と瓊瓊杵が奉神殿に戻った頃にはすっかり夕暮れ時となっていた。

 正門はいつものように門番の当番となる巫女二人が護っているのだが、何やらその表情が暗い。しかも帰還した冷良たちに気付くと、二人とも半泣きになりながら駆け寄って来た。


「あっ、冷良さん、瓊瓊杵様!」

「か、幹奈様が! 幹奈様が~っ!」


 ――不吉な予感が、冷良の脳裏を駆け抜けた。

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