幽世はかく在りき

 そのまま良くも悪くも大きな出来事は起きず、一週間が過ぎた。

 あれから幹奈と咲耶姫は何事もなかったようにやり取りを交わしているものの、互いの距離感は遠く、以前の居心地の良さを知る冷良からすれば空虚極まりない。

 そして、雰囲気とは伝染するものである。幹奈は勿論冷良も普段通りの態度を心掛けているのだが、何かを感じ取ったのか、同僚の巫女たちもどこか浮かない顔をしており、奉神殿全体が暗雲に包み込まれているような有様だった。


「さあ冷良よ、今日も都に繰り出すぞ!」


 そんな薄暗い空気などどこ吹く風、元凶たるこんちきしょうな神様は今日も都を散策するつもりのようだ。どうにも気に入られてしまったらしく、毎回の供には冷良が指名される。

 幹奈と同僚も既に織り込み済みのようで、外出許可と仕事の引継ぎはあっという間に終わり、支度もさっさと済ませて流れるように都へ。瓊瓊杵は笠を深く被って顔を隠しているので、初日のような騒ぎにはならない。

 都は来たる夏祭りに向け、降り注ぐ日差しにも負けないほどの熱気を高めていた。屋台や出し物、飾り付けの準備が進み、いい意味で雑多な光景が広がっている。近隣の村や余所の都から人が集まっているようで、目に映る人波は明らかに普段よりも多い。

 それでも、冷良は周囲のように浮足立つ気分にはなれなかった。

 幹奈と咲耶姫は、この祭りを楽しめるだろうか? 祭りは皆で楽しんでこそ、身近な二人が気落ちしたままではあまりに味気ない。

 正直なところ、瓊瓊杵の道楽になんて付き合っていられないというのが本音である。

 そもそも、何故瓊瓊杵は毎日毎日飽きもせず都を散策するのか。夏祭りが近いことは奴も知っている筈、楽しむのなら祭り当日が一番だと思うのだが。

 今だって最近何か変わったことはあったかなど、あまりにありきたりな世間話に花を咲かせているだけ。相手が女性だと別の意味で花が咲いているのはさておき。

 真面目に付き合うだけ無駄だと、基本的に無心無言で付き人の役目を果たしていた冷良だったが、今日は苛立ちに耐え切れず、つい口を挟んでしまった。


「何か花の都で気になっていることでもあるんですか?」

「んん? 何故そう思う?」

「いえ、しきりに住民の近況を尋ねていらっしゃるので」


 冷良としては我慢の限界が来て思わず漏れてしまった一言に過ぎない。

 だが、何の気なく返した答えに瓊瓊杵は腕を組み、難しい顔で瞑目めいもくしてしまった。


「……適度に気の抜けている者を供に選んでいたが、長く連れ回し過ぎたか」


 ――ばれてた。

 背筋を冷や汗が垂れ落ちるが、よく考えてみればそういう態度を取っていたからこそ、瓊瓊杵は冷良を毎回供としていたのだという。

 冷良がほっと安堵の息を吐いてあっという間に緊張を緩めている間に、瓊瓊杵の方も考えをまとめたらしい。


「まあ、この程度なら咲耶姫に伝わっても支障あるまい。実を言うとな、ここ四十年程度で幽世に迷い込んだ者がいないか探していたのだ」

「へえ、奇遇ですね、僕もついこの間迷い込みましたよ、幽世」


 あの後は慌ただしく、翌日には瓊瓊杵が来襲しててんやわんやだったので、誰に話すこともないまま完全に忘れていた。

 まさかすぐ間近に探し人がいるとは思わなかったのか、瓊瓊杵は間の抜けた顔でまばたききを繰り返した。何だか鼻を明かしてやったみたいで少し気分がいい。


「……さ、探しておいて何だが本当にいるとは思わなかった。どんな領域だった?」

「どんなと言われましても……滅茶苦茶?」


 他に表現のしようがなかった。神ならざる身では幽世での体験を正確に理解することすらおぼつかないのだ。

 その上で印象深いことがあったとすれば……。


「あと、どこかの神域に入っちゃったみたいで、知らない女神様に加護を貰っちゃったんですよ」


 そこでふと、疑問を抱いた。冷良は咲耶姫を主とする巫女であるが、他の神から加護を貰うのは立場的に大丈夫なのだろうか? よく考えたら、神事しんじ関係者の間で加護がどんな扱いなのかさえよく知らない。考えれば考えるほど不安になってきた。

 と、次の瞬間、瓊瓊杵が今までの優男やさおとこ然とした雰囲気から一転、険しい表情で冷良の両肩をわし掴みにした。


まことか!」

「わぁああやっぱり不味いんですね! 僕どうなりますか追放ですか神罰ですか!?」

「名は!? そなたに加護を授けた女神の名は!?」

「分かりません!」

「加護を貰っておいてか!? ええい、なら特徴だけでも構わん!」

「ええとぉ特徴特徴……か、髪は黒くて長かったです!」

「大半の女神はそうだ!」

「落ち着いた服装でした!」

「当てにならん!」

「凄く綺麗でした!」

 途端、瓊瓊杵の表情が絶望に染まり――

けど、凄く綺麗な女神様だったんです!」

「――っ」


 瓊瓊杵は愕然と息を詰まらせると、顔を手で覆って力なくよろめいた。


「まさか……来たのか? 本当に、この時が……」

「あの、どうかしましたか?」


 まるで世界の終わりでも目の当たりにしているかのような様子に、流石の冷良もただならぬ気配を感じて声をかける。

 だが瓊瓊杵は応えず、代わりに冷良の手首を掴んだ。


「うわっ!?」


 そのまま有無を言わせないまま路地へと連れ込まれる。そのいつになく強引な手付きは、ただでさえ慌てていた冷良を混乱の坩堝るつぼへ叩き込むには十分過ぎた。


「何ですか!? 今度は何が駄目だったんですか!?」


 やはり瓊瓊杵は何も反応してくれない。無視をされているというより、問答している余裕もないといった雰囲気だ。

 瓊瓊杵が印を切るように指を振ると、何もない空中にふすまが現れた。襖は誰の手も借りず勝手に開き、その向こうには都の路地ではない景色が広がっている。

 最近似たような光景を見たことがある。さてどこだったか。

 などと記憶を漁ろうとしたのも束の間、襟首(えりくび)を掴まれたと思えば草履ぞうりの裏から地面の感覚が消える。


「あれ?」


 本当にあっという間だった。

 冷良が我に返った時、周囲の景色は都の路地裏ではなく、二階建ての家屋が余裕で入りそうな洞窟の中に変わっていた。入口のすぐ近くなので岩肌や外に広がる深い森、すぐ傍で存在感を放つ鳥居が良く見える。

 急展開からの超展開により意識の処理能力が音を上げた。言葉もないとはまさにこの事、冷良に出来るのは洞窟の外を指差しながら金魚の如く口をぱくぱくさせることだけ。


「俺の神域だ。悪いが付き合ってもらうぞ」


こちらの意思を問わないその傲慢さは、目の前にいる男が神の一柱であることを否応なく実感させられると同時に、今まで瓊瓊杵に抱いていた印象を霧のように消した。

 他神に仕える巫女の誘拐、少なくとも軽い事態ではあるまい。今の瓊瓊杵には何をしてもおかしくない怖ろしさがある。


「……僕に何をさせるつもりですか」


 事ここに至って身の危険を意識しない訳にはいかない。神域――幽世へ連れ去られるとはそういうことだ。


「そう怯える必要はない、そなたには道標になって欲しいだけだ」


 既に落ち着いたのか、瓊瓊杵は普段の調子を取り戻しているが、今となってはその優男然とした態度も額面通りに受け取ることは出来ない。


「道標と言われても、幽世で僕に出来ることなんてありませんよ」

「大丈夫だ、そなたは俺の前に立って歩いてくれるだけでいい」

「それだけですか?」

「ああ、それだけだとも」

「…………」


 元より選択肢はない。何せ先程通った襖が既に消えており、来た道を戻ることも出来ないのだ。


「……分かりました、どこへ向かえばいいんでしょう?」

「思うがまま進めばいい。幽世において方向など無意味だ」


 ますますここへ連れて来られた意味が分からなくなるが、渋々瓊瓊杵の言うとおりにする。意図が読めない者を背後に連れるというのは、思っていたよりも神経に触るものだ。

 ひとまず洞窟の奥へ進むのは気が引けたので、外に出て木々の隙間を縫って歩くことにする。

 瓊瓊杵の神域は今まで見てきた幽世の中では常識的で解放感があり、生き物の気配がしないこと以外は現世とそこまで変わらない。神という文字を冠するからには、領域にも格式というものがあるのかもしれない。


「そろそろ俺の神域を抜けるぞ」


 瓊瓊杵の言葉が合図となったかのように、行く手に霧が立ち込める。あれが神域の境界ということだろう。

 ちなみに、普通の幽世だと分かりやすい境界がある方が珍しい。大抵は水面、洞窟、扉、果ては絡まった枝葉など、とにかく何らかの形で区切られていれば境界足り得るので、とにかく毎回唐突感が激しい。

 なので、最初だけでも心構えが出来るのは有難い。

 という感想は、足が虚空を踏み抜いた瞬間に吹き飛んだ。


「へぶっ!?」


 視界が真っ白に染まり、思っていたよりも軽い衝撃に肩透かしを食らったのも束の間、肌に馴染む極寒の冷気を浴びながら急な斜面を一直線。


「あぁああああああああ!」


 ――ああ、ここ雪山だ、人間だったら危なかった、雪女の半妖でよかったぁ。

 脳裏を呑気な感想が掠めるのは、崖から放り出され、近付いて来る川の水面を前に成す術もないからか。なまじ目が良いおかげで、状況を認識して大人しく諦めるまでの時間を確保してしまった。

 着水。

 幸い川は深めだった。水温は凍えるほどに低いが、雪女からすれば心地の良い風呂のようなもの……と呼ぶには流れが早いが、とにかく命に別状はない。本当に雪女で助かった。

 全身ずぶ濡れになりながらどうにか川岸に上ると、瓊瓊杵が雪の急斜面を器用に滑り降りてくるところだった。


「おーい、大丈夫か?」

「……帰りたいです」

「それは出来ない相談だ」


 鬼め。いや、神だが。


「……とはいえ、その恰好のまま歩けというのも酷な話か」

「はい?」

 瓊瓊杵の視線が胸の辺りを捉えているので追ってみれば、たっぷりと水を吸った巫女服が身体に張り付き、特に白地の部分は透けて地肌が見えているではないか。


「――っ」


 冷良は反射的に胸を庇い――愕然とした。

 何故自分は胸を隠した? 自分は男、相手も男、見られて恥ずかしがる理由などないではないか。それこそ巫女になる前は銭湯で見られ放題でも気にしなかったではないか。まさか女装を続けている内に心まで女に染まりつつあるとでもいうのか? 断じてあってはならない!

 そうだ、肌が透けるからどうした、むしろ堂々と胸板を張って対抗するくらいの気概でなくてどうする。

 と――


「これを羽織るといい」


 気・づ・か・わ・れ・た!


「手間賃代わりだ、貸与ではなく下賜かしとしてやろう。火鼠ひねずみの皮衣だ、れっきとした神の宝物だぞ?」


 殴りたい、その気づかい溢れる男を気取った笑み。この男に文字通り命運を握られていなければ、貰った衣など引き裂いて叩き返していたのに。

 罵声と殴り掛かりたい衝動を泣く泣く抑え込み、大人しく衣を纏って歩みを再開する。ただし、その足取りは決して早くなかった。はやる危機感を相殺するほどに、男の尊厳に負った傷が深かった故に。

 雪山を後にし、幽世の摩訶不思議な道のりは続く。

 あいも変わらず各領域は大抵現実味に乏しく、繋がり方に規則性もない。既にどのような道を辿って来たかも朧気おぼろげだ。恐らく、今から最初の領域に戻るのは不可能だろう。

 冷良は男の尊厳が負った傷を深く考えないよう、半ば思考も放棄して適当に歩いているのだが、初めに告げた通り瓊瓊杵は口も挟まず大人しく付いてくる。こうなると逆に終わりが見えなくて辛くなってくる。

 そんな冷良の内心を察した訳ではなかろうが、通り抜けた領域が十を越えた辺り、襖で仕切られた小部屋が延々と続く屋内(のような領域)を歩いていると、ようやく瓊瓊杵は口を開いた。


「空間が連続していない幽世において地図は意味を成さん。しかも各領域は常に流動しているので、繋がり方すらも一定ではない。道筋など考えるだけ無意味だ」

「ほうほう?」


 冷良は無数の泡を思い浮かべた。神秘の理屈は分からなくても、過去の体験と照らし合わせると瓊瓊杵の説明は腑に落ちる。


「では目的の領域を定めて辿り着くことは不可能か? といえばそうでもない」

「何か方法があるんですか?」

「単純だ、『しるべ』を用意しておけばいい」

「標?」

「人間はよく利用するだろう? 方位と地図だ」

「あ、あー……」


 いわゆる道標のようなものだろう、旅人には必須の道具だ。


「けど、今地図は意味を成さないって言ってませんでしたっけ?」


「今の例えは現世における話だ。現世と幽世では支配することわりが違う」

「理……ふべっ!?」


 そろそろ一介の半妖では理解するのが難しくなり思考に集中したところで、いつの間にか立ち塞がっていた壁に気付かずぶつかった。結構な音が鳴り、流石の瓊瓊杵も心配する様子を見せた。


「だ、大丈夫か?」

「らいじょーぶれふ……」


 泣きそうだが我慢。だって男の子だもの。


「無理をして理解しようとする必要はないぞ? 幽世版方位磁石のようなものだと思っておけばいい」


 また気をつかわれた。惨めだ、今どちらが恰好良く見えるかといえば絶対に瓊瓊杵だ、情けなくてまた涙腺が緩みそうだ。

 冷良が痛みを我慢して素知らぬ顔で歩みを再開すると、瓊瓊杵は憎たらしくも見なかったことにするように、先程までの話題を続けた。


「幽世における標、それは『えにし』だ」

「縁、ですか」

「血縁、集団、共通の知己ちき、果ては袖が触れ合う程度まで、何らかの繋がり。それが、幽世においては重要な道標となる。中でも加護は縁としては非常に強い部類だ。加護を得た者を連れて歩けば――」


 そこでいつの間にか何かしらの境界を通ったのか、周囲の景色が変化する。既にこの程度では動じなくなっていた冷良の意識を引いたのは、変化した後の景色だ。

 似たような景色は今まで多々あれど、全く同じ場所を通りがかったことは一度もなかった幽世において、初めて覚えのある場所。


「――ほぼ必ず加護を与えた神の元に辿り着けるほどにな」


 あらゆる植物が枯れ果てた森の中に佇む、大きなうろの空いた枯れ巨木。間違いなく、一週間ほど前に迷い込み、名も知らぬ女神から加護を貰った神域だ。

 その名も知らぬ女神はといえば、以前のようにどこかに隠れている、ということはなく、巨木に空いたうろの中で小さく身を縮めるように座り込んでいた。

 茫洋ぼうようとしていた女神の瞳が、神域に踏み入った冷良たちの姿を捉える。


「……あ」


 そして瓊瓊杵は、その名を呼んだ。


「久しいな、散瑠姫」

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