花は惑い、霧の中へ
女神の切なる問いかけに、冷良は何も答えることが出来ない。
どうすれば良かった? それは冷良自身が欲している答えだから。
神と人間だからか、女同士の関係だからか、あるいは咲耶姫と幹奈だからか。それすらも検討がつかない。少しでも咲耶姫を元気付けようと残った癖に、何という体たらくか。
咲耶姫の気が少しでも晴れるなら、八つ当たりでもしてくれれば良かった。彼女はそれが許される立場である筈なのに、答えを出せる筈のない問いを投げかけるだけが精一杯。
本当に気が滅入っているのだろう、冷良が見ている前で、咲耶姫は膝を抱えてしまった。
普段の堂々とした態度を思えば、その姿はあまりに小さく痛々しい。
「……やはり妾では、姉様のようにはなれぬ」
「え?」
咲耶姫としては単なる独り言のつもりだったのだろう。だが、虚空へ向いていた視線は、律儀に反応してしまった冷良を捉える。
「そうさな……冷良、そなたの目で妾はどんな女神に見える?」
含みのある笑み。あまりいい予感はしない。
とはいえ、答えないわけにはいかない。
「えーっと、少し
「そうか、ではその目は節穴だな」
せめて
流石にむっとする冷良だが、咲耶姫はすぐに笑みを引っ込め、抱えた膝に顔を埋めてしまう。
「……妾はただ、姉様の真似をしているだけだ」
冷良の胸で芽吹いた小さな反発心は、一瞬で霧散してしまった。
先程咲耶姫が馬鹿にしたのは冷良ではない。
相手は冷良が優しいと称した咲耶姫自身。
「一つ昔話をしよう。まだ妾が世界の美しさも醜さも知らず、父上が用意した箱庭の中で無邪気にはしゃいでいた頃の話だ」
「大山津見様が用意した箱庭……瓊瓊杵様と婚儀を挙げる前ってことですか? じゃあお姉さんも……」
「ああ……いたとも」
ほんの少しだけ、咲耶姫の声が弾んだ。今は失ってしまった、在りし日に思いを馳せるように。
「とある嵐の日、妾たちの暮らしていた山に雷が落ちた。幸い当時妾たちがいた場所からは離れていた故に大事はなかったが、翌日気になって現場を見に行ってみたところ……柿の木が一本ずたずたになっていたよ」
「柿の木……ですか?」
「うむ。大きさだけでも山の中で随一だった上に、秋になると非常に美味な柿を実らせてな。妾と姉様にとって思い入れの深い存在だったのだが……妾たちが駆けつけた時には、既に妾の権能をもってしてもどうしようもない状態だった」
冷良は咲耶姫の権能、正確には彼女に与えられた加護のことを思い出す。
木花咲耶姫という御名が示す通り、彼女は咲き誇る草花の象徴であり、その権能は生命力を増幅させること。
冷良が受けた加護とは咲耶姫が持つ権能の一端に過ぎない。それでも当時はその恩恵に凄まじいものを感じずにはいられなかった。
そんな権能でもどうしようもないと他ならぬ咲耶姫が断言するのだ、その柿の木は殆ど死んでいると言っても差し支えのないほどの惨状だったのだろう。
「とても残念だった。あの木には妾と姉様の思い出が沢山詰まっていた。世界の一部が欠けた感覚というものを、あの時始めて思い知ったよ」
「…………」
幸い、冷良はその感覚をまだ味わったことがない。両親とは離れ離れだが、それでもこの世界のどこかで生きている。
こういう時、冷良は何も言わないようにしている。
単語に当てはめるなら『喪失感』が一番近いのだろうか? 想像することは出来ても、体験がなければ本当の意味で知ることは絶対に出来ない。実感を伴わず発せられる言葉ほど空虚なものはないから。
「だが、妾はそれだけだった」
「……反応としては普通だと思いますけど」
「姉様は違った!」
冷良は思わず肩を跳ねさせる。
今の咲耶姫は、自分を
「姉様は……泣いていたのだ――死に体の木を撫でながら、可哀そうに、もっと生きたかったろうにと。そしてせめての手向けとして、姉様の権能で一つの柿を実らせ、木に死の安らぎを与えた」
「散瑠姫様の権能?」
「ああ。姉様の名は木花散瑠姫。枯れる草花を思わせる名と実際の現象から、生命力を奪う類の権能だと誤解されがちだが、本質はそうではない。生命力を分離して次代に繋げることが姉様の権能だ」
植物は花が散らなければ次代の種を残せない。そういうことだろうか。
「残された柿の実を拾い上げて散瑠姉様は言ったよ、せめて次に繋げてあげようと。この木は喜んでくれるかなと。泣きながら、妾には眩し過ぎる笑顔で……」
膝を抱える腕の力が強くなる。無意識に小さく身体を畳んだ心が抱くのは憧憬(どうけい)か、劣等感か、それとも――
「……分かったであろう? 妾の性根は――浅ましい。根底にあるのは自分のことばかり、与えられるのは加護や生命力、どれも木花咲耶姫という女神の権能あってのもの。『妾』が与えられるものなど何もない。妾が見せる優しさなど、薄っぺらいものだ」
「そんなことないですよ! あなたを慕う人は大勢いるじゃないですか! 巫女に都の人たち、幹奈様や僕だって!」
「だが、少し感情が揺らいだだけですぐ仮面は剥がれた。幹奈はきっと、妾を見限ったのだ。だからあんなに余所余所しい態度になった」
「違う! そんなこと……っ」
巫女となってもう三ヶ月、あるいはまだ三ヶ月か。どちらにせよ、咲耶姫と幹奈を傍で見てきた冷良は、二人の絆がそう簡単に切れるものではないと断言出来る。
先程幹奈に瓊瓊杵のことをどう思っているか聞いた時のことを思い出す。あの時に一瞬だけ見えた暗い表情。きっと彼女の方も何か抱えているものがあるのだ。
だが、所詮は状況証拠と個人的な所見。前者に至っては、第三者である冷良がみだりに言いふらしていいことではない。
故に、先へ続く台詞が出てこない。咲耶姫の心に届くだけの説得力があるかどうかなど言わずもがな。
八方塞がりとなった冷良が押し黙るしかなくなると、咲耶姫はふっと自嘲するような溜息を吐いた。
「今は一人にして欲しい」
「咲耶様……」
「頼む、そなたにまでこれ以上八つ当たりはしたくない」
それは女神としての意地からか、それとも残された絆が失われるのを恐れてのことか。
どの道これ以上ここにいても咲耶姫を更に傷つけるだけ。潮時と判断した冷良は立ち上がって座敷を出ていこうとするが、どうしても後ろ髪を引かれ、襖を閉める前に未練ったらしく言葉を紡ぐ。
「咲耶様がどんなに自分の優しさを否定しても、それで救われた人がいるのは確かだと思うんです。僕も、幹奈様も――梢さんも」
今や花の都で知らぬ者はいない、女神に仇なした大罪人、月代梢。彼女は己の罪業を正しく理解してもなお走り続け、道の半ば、あるいはその果てで力尽きた――幹奈という、大切な愛娘を残して。
けれど、梢の死に顔に残される娘への
それはきっと、咲耶姫がいたからだ。梢は主の優しさを信じることが出来たからこそ、最期に抱く筈だった憂いを捨て去ることが出来た。今まさに死にゆく者にとって、それが救いでなくて何だという?
誰がどう評しても意味はない。例え本人が否定しようとも。
咲耶姫の在り方が一人の人間を救ったのは、覆しようのない事実だ。同じ場に立ち会った冷良はそれを絶対に忘れない。
「それじゃあ、失礼します」
咲耶姫の反応を確かめることはしなかった。今語ったことはただの自己満足、少しでも彼女の心に届いたことを願うだけ。
そうして冷良は、今度こそ座敷を後にした。
◆
思い出す、幹奈の頬を叩いてしまった時のことを。
思い出す、冷良なりの励ましを全て否定したことを。
思い出す――安らかな表情で逝った、梢のことを。
『咲耶様がどんなに自分の優しさを否定しても、それで救われた人がいるのは確かだと思うんです』
冷良の言ったことが事実だとしたら、自分を卑下することは梢を裏切ることに他ならない。
それは駄目だ、やってはいけない、やりたくない。
けれど、自分を認めることもまた、今の咲耶姫にはどうしても出来ないことだった。
梢の信頼には応えたい。幹奈との関係を修復したい、冷良にこれ以上心配をかけたくない、自己否定だってやりたくてやっている訳ではない。
全ての発端はあの憎き瓊瓊杵。
とはいえ、奴はあくまできっかけに過ぎない。全ての責任を押し付けるのが筋違いだということくらいは理解している。
やるべきことは果たした、けれど望む結末にはならなかった。
だったら、どうすればいい?
何も思い浮かばない、糸口さえ見えてこない。人々に信仰される女神でありながら何という様だ。
胸が締め付けられるような感覚。不安と……自らの無力に対する嘆きか。
黙って座している場合ではないと、冷静な思考が自分を
一人になると思考ばかりが勝手に先走り、負の連鎖に引きずりこまれてしまう。冷良にはもう少し傍にいてもらうべきだったか。
やがて際限なく沈み続ける思考に耐え切れず、咲耶姫は懐からある物を取り出した。
――種だ。より正確に言えば、柿の種。
冷良に聞かせた思い出話にて、死にかけの木に姉が実らせた柿の種だ。
当然ではあるが、種を取り出すなら果肉を取り出さなければならない。
故に、木の形見とも言える柿を、姉妹は分け合ってしっかりと味わった。
――……嫁いだ先で、この子を芽吹かせてあげてね。
散瑠姫の権能は種を残すことまで。芽吹かせるなら自然に任せてもいいが、咲耶姫の権能を使った方が手っ取り早い。
故に、種は咲耶姫が所持していた。約束は――未だ果たされていない。
「姉様……」
見る者を元気付ける、温かくて優しい笑顔を思い浮かべる。
所詮は遠い記憶の彼方。
それでも、今の咲耶姫がすがれるものは、他にはないのだ。
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