安らぎを侵食する違和感

 奉神殿へ戻ると瓊瓊杵は大人しく客室へ戻り、後のことは担当の同僚に引き継ぐ。

 そして仕事中の幹奈を探し出し、帰還の報告をした。


「お疲れ様です、冷良。何か問題はありましたか?」

「あの神様、女性吸引の呪いでもかかってるんじゃないでしょうか」

「……おおよそは察しました」

「あと、いちいち口説かれるので寒気をこらえるのが大変でした」

「理解はしますが口にはださないように」

 幹奈は全ての事情を理解しているので、つい個人的な愚痴まで吐き出してしまった。


 瓊瓊杵に翻弄される冷良の姿でも想像したか、憐れむような表情を浮かべる幹奈だが、不意に真剣な視線で冷良の目を射抜く。


「本当に、気を付けなさい。あなたは少々事情が特殊ですが、それでも巫女が神々を悪(あ)し様に貶すなど言語道断。私たちの首は勿論、主である姫様の品位すら疑われることになりかねないのですよ」


 巫女になって既に約二ヵ月。流石の冷良も、そろそろ巫女の立場はわきまえるようになってきた。故に幹奈の注意も理解は出来る。

 ただし、理解した上で納得出来るかはまた別の話。


「咲耶様の家族に酷いことした奴でもですか?」

「奴呼ばわりもいけません」

「むぅ……」


 冷良は半妖だが、花の都に住む民の一人として、祭神である咲耶姫には相応の敬意を持っている。

 だが、巫女として身近な存在になってからは、同時に親愛を抱く対象の一人となっている。枠としては幹奈と同じ、大切な年上の友達という表現が一番近いだろうか。

 だからこそ、瓊瓊杵を擁護ようごするような幹奈の態度につい反抗心を抱いてしまう。


「幹奈様は瓊瓊杵様の味方をするんですか? 咲耶様の家族が酷い仕打ちを受けたのに」

「そんなことは言っていません。好悪ではなく、礼儀の問題です。そもそも私には瓊瓊杵様を責める資格など――」


 意地を張る冷良につられて幹奈も段々と語気を強めていったが、いきなり時が止まったかのように硬直してしまった。

 けれどそれも一瞬のこと。


「とにかく、私たちの軽率な言動が姫様をおとしめる可能性もあることだけは覚えておきなさい」

「は、はい」


 奇妙な間が熱くなっていた冷良の頭を冷やし、つい素直に返事をしてしまう。幹奈は満足したように頷いた。


「よろしい。さて、説教はここまで、今は仕事が山積みですからね。まずは姫様の座敷の片づけを手伝ってください」

「別にいいですけど、わざわざ僕を待ってたんですか?」

「……姫様が今の状態では、他の巫女だと荷が重いのです」

「あー……」


 いくら一般人よりは身近とはいえ、不機嫌な女神の傍で冷静に仕事が出来る者など巫女でもそうそういまい。その点、冷良は咲耶姫のお気に入りで巫女の中でも特に彼女と近しく、修羅場を潜り抜けた経験を持つので度胸もある。


「そういうことなら」

「では、行きましょうか」


 踵を返した幹奈の背中に冷良も続く。

 そうして会話が終了したところで、冷良は今しがた幹奈が硬直した時のことを思い出す。

 ほんの一瞬、意識が少しでも別のことに逸れていたなら見逃していたであろう、文字通り瞬きの間の出来事。

 けれど、何故か脳裏に焼き付いてしまった。

 焦りや恐怖、あるいは他の感情も混ざり、ほの暗く陰った幹奈の表情を。

 咲耶姫に頬を叩かれたことが尾を引いている? いや、違う気がする。幹奈は役目ならばと、自身に降りかかる理不尽を割り切れる女性だ。

 見てはいけないものを見てしまったような気がする。言い知れない不安が、冷良の胸中で芽を生やした。

 





「姫様、そろそろ座敷の片付けをしたく」

「……勝手にせよ」


 ぶっきらぼう極まりない物言いだが、少なくとも拒否はされなかったので、幹奈と冷良は遠慮なく座敷の中へ。

 座敷の惨状は昼間と同じだ。割れた陶器類やぐしゃぐしゃになった巻物類、その他様々な物が散乱している。違いといえば、座敷の真ん中にいた咲耶姫が窓際に移動しているくらいか。その顔は外を向いており、入室してきた冷良たちに声はかけないし目もくれない。

 それでも幹奈は構わずに作業を始める。


「冷良は陶器の欠片を集めて廊下に移してください。いいですか、どんな小さな破片も残さないように」

「分かりました」


 たとえどんなに小さかろうと、咲耶姫が怪我を負う可能性は万が一にもあってはいけない。当然のこととして冷良は頷いた。

 幹奈はまず巻物類の確認から始めた。巻物の隅から隅まで入念に見定め、まだ鑑賞にたえるか否かを判別して仕分けしていく。

 冷良は箒(ほうき)でも持って来ようかと考えたが、破片を全く残さないというのは意外と難しい。

 なので、別の方法で処理することにした。

 陶器の欠片に手を翳し、周辺一帯を丸ごと凍らせる。そして出来上がった氷をどかせば、残るのは艶が綺麗な畳だけだ。念のため目に沿って手でこすってみるが、引っ掛かりは全く感じない。

 これで良しと判断した冷良は破片入り氷を廊下に出し、同じ要領で作業を進める。


「…………」


 誰も、何も喋らない。噛みしめるための静寂ではなく、空気が張り詰めているが故の沈黙。確かにこれは他の同僚だと緊張でかえって被害を増やしそうだ。

 冷良と幹奈と咲耶姫。

 この三人が揃っていてここまで居心地の悪い日がかつてあっただろうか?

 咲耶姫が奔放な行動を起こして、冷良が男について語り、幹奈がそれぞれをたしなめるか注意する。いつもそんなやり取りだった。

 変わってしまった元凶は瓊瓊杵、彼の神が花の都から去れば全てが元通りになるのだろうか?

 まあ大丈夫だろうと楽観しようとする反面、咲耶姫が瓊瓊杵へ向けた激情と、さきほど幹奈が浮かべた暗い表情が脳裏をよぎる。

 咲耶姫の過去と、幹奈が抱えている何か。それらを垣間見た今、他ならぬ冷良自身が以前のように振舞える自信を持てないでいる。

 息が苦しくなるような沈黙の中、良くも悪くも黙々と進む作業は順調で、そう時間をかけることなく座敷は綺麗になった。


「それでは姫様、欠けた装飾品は早急に新しい物を手配しますので、本日は失礼いたします」

「分かった」


 報告に対する咲耶姫の返事はやはりぶっきらぼう。それでも幹奈は構わずに踵を返し、冷良も後を追おうとして――


「ま……待て!」

「「はい?」」


 どこか必死さを滲ませる声。どちらが呼び止められたか分からなかったので、冷良も幹奈も同時に振り返る。

 声を掛ける前にどんな感情のせめぎ合いがあったのか、先程まで窓枠に頬杖をついていた咲耶姫はこちら側に身を乗り出し、まるで去りゆく相手に追いすがるような姿勢になっていた。

 神の威厳的にこれは不味いと思ったのか、慌てて姿勢を正す咲耶姫。そして咳払い一つで全てをなかったことにして続ける。


「呼んだのは幹奈の方だったが、まあよい、二人とも近う寄って座れ」


 冷良は勿論のこと、幹奈の頭にも大量の疑問符が浮かんでいるだろうが、主の指示だ、ひとまず言う通り近くに寄って座る。

 が、そこから進まない。先程とは違う意味で居心地の悪い沈黙が降りる。

 一応、無意味に引き留めてられている訳でないことくらい分かる。何せ先程から咲耶姫は百面相を繰り広げながら何度も口を開こうとしているのだ。

 とはいえいつまでもこうしている訳にはいかない。夏祭りを控え、扱いの難しい賓客がいる今、幹奈は普段以上に忙しい身だ。

 咲耶姫もそれを理解しているからこそ、やがて腹をくくっておもむろに口を開く。


「あー……その、何だ。昼間に瓊瓊杵が妾の前に顔を出した時のことだ。あ奴が憎いのは今も変わらぬが、妾も流石に熱くなり過ぎた。おかげで幹奈が割を食う形となってしまった……済まないことをしたと思っている、許せ」


 神の行いはすべからく正しい。神が謝意を示すのは、己の行いを良くないと思い『自戒』した時のみ。許しとはうものではなく要求するもの。当然拒否権はない。単なる人間への気遣い、儀式のようなものだ。

 つまり、例え上から目線のような物言いであっても、今のは女神である咲耶姫が示せる最大限の謝意だ。

 冷良の意識を意外感と喜びが満たす。長引いてこじれるかと思ったが、こんなに早く咲耶姫の方から歩み寄るとは。

 瓊瓊杵が滞在している限り油断は出来ないが、これなら気まずかった雰囲気も多少はましになるのではないか。


「――姫様がお気に病む必要はございません。私は巫女頭としての職務をまっとうしただけでございますれば」


 生真面目な幹奈らしい、模範的な回答だ。

 咲耶姫は自身の非を認め、女神としてけじめをつけた。

 これで咲耶姫と幹奈の関係は元通り、瓊瓊杵さえ花の都を離れれば以前と変わらない時間が戻ってくる。

 ――本当に?

 安堵しかけた冷良の背中に冷や水を流すように、疑問が頭を過ぎる。

 そして代わりに胸を満たし始めるのは、違和感と焦燥だ。

 一体何故だろう? 抱きかけた安堵を否定する要素は特に見当たらないというのに。

 咲耶姫の表情を伺ってみれば冷良と似たような心境のようで、話が終わったのにいつまでも退出の許しを出そうとしない。


「……姫様?」

「あ、あの……だな……」


 咲耶姫は必死に言葉を探している。

 だが、彼女は既に女神として伝えるべきことは伝えた。

 逆に言えば、もう女神として伝えられることは残っていない。


「……いや、構わん。言ってよいぞ」

「……? 承知しました」


 幹奈は幹奈で咲耶姫の態度を不審には思ったようだが、特に突っ込むようなことはしなかった。命令があるならこの場でしている筈、そう考えているのだろう。

 幹奈が立ち上がって座敷を後にしようとする。


「あ、あー! そういえば僕、咲耶様に用事があるんでした!」

「……姫様?」

「嘘ではないぞ、そなたは気にしすぎだ」

「性分で御座いますれば。それでは、失礼いたします」


 襖が閉められ、幹奈の足音が遠ざかっていく。その音が聞こえなくなると、咲耶姫が脱力した。緊張が解けて弛緩したというより、最低限の威厳すら保てないくらい落ち込んでいるように見える。


「……冷良よ、妾はまた何か間違いを犯したのか?」

「いえ……少なくとも、僕が見てた限りでは」


 後に言い訳がましく付け加えてしまったのは、冷良自身も確信が持てないでいるからだ。

 だからこそ、続けて投げかけられた問いにも頷くことが出来ない。


「では、瓊瓊杵がここを去りさえすれば、何もかもが元通りになるのか?」

「…………」


 確信が持てなくても、否という明確な根拠もないので頷いても嘘にはならない。

 けれど、今咲耶姫が欲しているのはそんな気休めではないだろう。


「教えてくれ、妾はどうすれば良かった?」

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