幽世の邂逅
言葉で表現すると大仰になるが、実際のところ現世と幽世の境は非常に曖昧で脆いものだ。時間や場所、周囲の環境などの条件が整えば割と簡単に繋がってしまう。特に
さて、民間にも浸透している幽世の概念だが、具体的な特性は――何が起こってもおかしくない場所であり、現世に戻れるかは運次第。ちなみに今しがた通ってきた細道は、振り返ってみると跡形もなく消えていた。
「こんの……っ」
冷良はとにかくがむしゃらに走る。
現世に戻れないなんて冗談じゃない。何が起こるか分からない? 上等だ、既に一度死線を潜り抜けたのだ、生半可な脅威が寄ってくるなら逆に撃退してくれる。
幽世と現世は根底にある
例えば、『無限に続く』条件を満たさない限りは、移動していればいつか必ず別の場所に辿り着く、とか。
実際、冷良が霧で満たされた空間にいた時間はごく僅かだった。
深い樹海、険しい雪山、周囲を岩肌に囲まれた洞窟、大きな湖の真っただ中(溺れかけた)、火山の中腹(普通に熱で死にかけた)、天地が滅茶苦茶に入り混じった無人の集落らしき場所、等々。現世であれば絶対に有り得ない組み合わせの風景が、脈絡もなく繋がっている。
「また……」
そして今は、再び木々の生い茂る樹海にいる。景色は一度目に踏み入った時と似ているが、果たして同じ場所なのやら。
流石の冷良もうんざりして、休憩がてら適当な木の根に腰を下ろした。
「困った……」
このままずっと戻れなかったらどうしよう、といった不安が湧いてこないのは、神経が図太いのか、命のやり取りを経験して肝が据わったからなのか。
そんな益体もないことを考えていた冷良は、ふと妙な気配に気付いた。
ともすれば気の所為だと流してしまいそうなほどに僅かな、けれど意識してしまうと無視せずにはいられない、何かに導かれるような感覚。
正体は分からないが、他に進む当てもない冷良はその気配を追ってみることにした。
強く意識しないとすぐに見失ってしまうので、先程とは違いゆらゆらと揺れるような足取りで樹海を進む。
やがて辿り着いたのは、生命力溢れる樹海の中で異彩を放つ一本の枯木だった。
枯れているとはいえその幹は非常に太く、大きく空いたうろは小柄な人間なら余裕で入れそうなほどに広い。
「今度はどこに繋がってるのやら……」
何が起こっても不思議ではないとされる幽世でも、長時間走っていれば法則の一つくらいは見えてくる。
今目の前にあるうろのような『入口』、洞窟の『出口』、湖の『水面』、建物の『扉』。要は何かを区切る『境界』が、幽世における領域と領域の境目となっているのだ。
既に驚き疲れている冷良は、このうろへ入り込んだ先がどんな光景でも驚かない自信がある。故に気負いも
果たしてその先に待っていたのは、予想通りよく分からない場所だった。
単語で現すなら、今までいた場所と同じく『樹海』だろう。ただし、見える範囲の木は全て枯れきっており、葉の一枚もない寒々しい枝がよく見える。先程までいた側を『活き活きとした樹海』と称するなら、こちらは『死んでしまった樹海』といったところか。
居心地もあまり良くない。風景が退廃的だからか、自分でも不思議なくらいに意識が暗い方向へ傾いていく。あまり長居しない方が良さそうだ。
まだ続いている気配を追い、冷良は心持ち早い足取りで歩みを再開する。
やがて自然と立ち止まった冷良の目に飛び込んできたのは、幹の直径が十尺(約三メートル)に迫ろうかという巨大な大樹だ。ただし、例によって枯れており、根元には大人が収まってあまりある大きさのうろが空いている。
辿って来た気配はここで途絶えている。確かに作為的で何かしらの意味はありそうだが、これで終わりだと問題の解決には――
「――……出ていけ」
「うへぁっ!?」
静寂に耳が慣れ始め、うろに足を踏み入れてからの、すぐ後ろから突然飛んできた声。
それはもう驚いた。警戒するよりも先に珍妙な叫び声を上げるくらい驚いた。
恐る恐る後ろへ振り向いてみると、上等な着物を身に着けた女性が、うろの外から半身だけを覗かせてこちらを睨み付けていた。
……物音一つ聞こえなかった。一体全体どんな隠密技術を使ったというのか。
「……出ていけ」
再び同じ台詞を投げかけられて、吹き飛んでいた思考がようやく落ち着きを取り戻す。
「あ、あの、僕は怪しい者じゃなくて……いや、十分過ぎるくらい怪しいのは分かってるんですけれども!」
「……知らない。お前が誰かなんてどうでもいい。ここは私の領域、私が一人でいられる場所。勝手に入ってくるな。というより、どうやって入った」
「どうやってと言われても、よく分からない気配を追ってみたらここに辿り着いたとしか……」
「……何かの縁を、辿って来た? けど、私はお前なんて、知らない」
「縁? っていうのはよく分かりませんけど、僕も多分あなたと会ったことは――っていうか、顔を見ないことには判断が……」
「……駄目」
半分隠れた女性の顔を確認しようと冷良が一歩近寄ると、確固たる拒絶の声で止められた。
「……私は
「醜女って……」
女性の顔は半分以上隠れているが、それでも
けれど、冷良が抱いたのは疑問よりも
容貌の真偽はともかくとして、女性が自分を醜女と評し、冷良が笑うか嫌悪すると断言した台詞には、深い確信と実感がこもっていた。
つまり、過去にあったのだ。彼女が顔のことで笑われ、嫌悪されたことが。
どんな出来事があったのかは分からない。相手も女だったなら、様々な思惑が絡んでいることだってありえる。
それでも、他人を好き勝手に傷つけていい理由にはならない。彼女を笑い、嫌悪した素性も知らない誰かへの怒りが沸々と湧き上がってくる。
冷良は感情に任せるまま、無言でずんずんと足を進める。その有無を言わせない雰囲気に、女性は拒絶するよりも先に慌てた。
「……や、止め……」
「止めま――せん!」
女性は慌てるあまり逃げることも顔を隠すこともせず、結果的に冷良は彼女の素顔と真正面から対面することになった。
まず、女性の醜女という自己評価に関する疑問は氷解した。
「ああ、そういうことですか」
「――っ、やっぱりお前も……っ!」
納得した冷良の呟きを侮蔑と受け取ったか、歯を噛みしめた女性の激情が膨れ上がる。
それが臨界に達する前に――
「くだらない連中ですね」
「……え?」
「こんな理由であなたを侮辱した連中がくだらないって言ったんです。僕もまあ……一瞬びっくりしたのは確かですけど、全然醜女だなんて思いませんよ。それに、女には化粧っていう最強の武器がありますからね」
最近は化粧をさぼり気味で性別も隠している男の冷良、事情を知る者が聞けば鼻で笑われそうな説得力だが、言葉そのものに偽りは一切ない。本心から、目の前にいる女性を醜女ではないと断言する。
一歩近付いて呆然としている女性の顔を間近からのぞき込み、その肌を撫で、髪を触る。
「うん、肌はすべすべですし、髪も痛んでない。しっかり整えれば、むしろ凄く綺麗になるんじゃないですか?」
「……私が? 綺麗?」
「はい」
冷良は首肯する。女性は頭の処理が追い付いていないのか、目を瞬かせて静止してしまった。
そうしてどちらも喋らないまま数えること五つ、怒りで後押しされていた勢いが落ち着き、冷静な思考を取り戻した冷良はふと我に返る。
出会ったばかりで見知らぬ女性の肌や髪を無遠慮に触っているこの状況、男として非常に
少なくとも花の都で同じ状況が発生したなら、男側は良くて変態扱い、悪ければ平手の一発も加わることになるだろう。
冷良は不自然に思われないよう女性からそっと距離を取り、心の中で冷や汗を流しながら話を締める。
「気にしないでとも自信を持ってとも、僕から軽々しくは言えません。ただ、あなたを綺麗だと思った半妖が一人はいたってことを忘れないでください」
「……うん」
まだ半信半疑といった様子だったが、口元には微かな笑みを浮かべ、女性は頷いてくれた。
「ちなみにですが、ここから出ていく方法は……出来れば現世に戻れたらいいなーと……」
義憤による後押しがあった先程とは一変し、もみ手でもしそうなくらい下手に出る冷良。そもそも迷い果てて辿り着いた末に、出ていけと言われていたのを今更思い出したのだ。
「……いい」
「はい?」
「……ずっとここにいても、いい」
「……そりゃあどうも」
少しやり過ぎた気がしなくもないが、一応気を許してもいい相手だと見なしてくれたならそれで良し。
「…………」
「…………」
いや、ここで話が終わるのは困る。
「あのー、現世への戻り方は……」
「……戻らなくても、いい。あなたは、ずっとここにいる」
「いやいや、そういう訳にもいきませんよ」
「……やっぱり、私が、醜女だから?」
細められる女性の目。何故か本能が身の危険を訴えてくる。
「い、いや! 僕現世での仕事がまだ終わってなくて、早く帰らないと怒られるんですよ!」
「……そう」
一瞬で元の穏やかな雰囲気に戻る女性。彼女が手を振ると、虚空に
「……ここを通れば、現世」
「……え、こんな簡単に?」
「……私は、この領域の、支配者だから」
支配者だと現世への行き来も自由なのか。あるいはこの女性が特別なのか、場所が幽世なだけに予想もつかない。
「……仕事が終わったら、また来て」
「来るのはやぶさかでもないんですけど……どうやって来れば?」
「……これ、あげる」
と、女性が目の前に手をかざすと淡く茶色い光が集まり、ゆっくりと冷良の方へ移動したと思ったら、そのまま身体の中に吸い込まれてしまった。
「わわ……っ!?」
自分の身体に異物が入り込む現象に慌てる冷良だが、待てど暮らせど異変が起こる様子はない。
どういうこと? と視線で女性に問いかける。
「……私の、加護をあげた。加護はとても強い
「へーえ、加護ですか……加護!? ってことはもしかして――」
「……早く、仕事を終わらせて、戻って来て」
冷良が問いかける前に女性は勝手に話を終わらせ、虚空に浮かんだ障子がこちらへ迫りながら開いていく。
『向こう側』からは光が溢れ、その眩しさに思わず目をつぶり、両腕で庇う。
そのまま数えること五つほど、不意に人里特有の
ゆっくりと目を開いた冷良の目に映ったのは、行き交う人々が少なくなり、紅色に染まった花の都の大通りだった。
振り返ってみれば、通り抜けた筈の障子は既に消えている。よくよく確かめてみれば、ここは近道を目論んで入り込んだ細道の入口だ。
もう一度前を向けば、時間の経過以外は細道に入り込む前と全く変わらない、何の変哲もない日常の風景が広がっている。半妖の巫女一人が現世から姿を消していたことなど
ともすれば、立ったまま夢でも見ていたのではと疑ってしまいそうだ。
だが、身体のあちこちに刻まれた小さな擦り傷や巫女服の汚れなどは、先程までの短い冒険が事実であると肯定している。
当然、その果てに出会った女性のことも。
「女神様……だよね?」
自身の権能を加護として他者に分け与える存在など、神以外に思いつかない。
果たして彼女は一体何者なのか。せめて名前くらい聞いておくべきだったか……が、それはそれで初対面の異性を口説こうとしているみたいで、男として正しい振る舞いではない気がする。
しばらくむむむと唸りながら考え込んでいた冷良だが、綺麗な紅色に染まった空を見て自分がどれだけ奉神殿を留守にしていたか思い出す。
「やっば!」
疑問は焦りであっという間にかき消される。冷良が急いで駆け出した時には、幽世の小さな冒険も記憶の海へ埋没していくのだった。
◆
少女が現世に戻った後。
一人残された女性は住処である枯木のうろに腰を下ろした。
「……仕事が終われば、また来てくれる」
誰に語り掛けるでもなく、自分に言い聞かせるように呟く。
「……傍に、いてくれる」
自分の顔を見ても笑わなかった少女の姿を思い出すように。
「……ずっと、傍にいてくれる」
少女が明言していなかったことを、確定事項として扱い。
「……楽しみ」
抑揚に欠ける声色に、確かな喜びを滲ませて。
「……ふふ、ふふふふふふふふふふふふふふふふ」
どこまでも無邪気に弾む笑い声が、葉のない閑散とした樹海へと広がっていく。
狂ったように、いつまでも、いつまでも。
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