月代梢

 人間と妖の共存。

 神々が作り出した美しい世界は、梢にとって地獄に他ならなかった。

 屋敷の門から一歩踏み出せば、そこにいるのは大切な人を奪った仇の群れ。すなわち、胸の内で燃え盛る復讐心との戦いだ。少しでも気を抜けば身体が勝手に罪なき妖を滅し、乱心した罪人として裁かれてしまう。

 実際、自分の心がどうしようもないほどに壊れていることを梢は自覚していた。今の世界を実現した神々の判断が決して間違っていないことも理解していた。

 だが、思考は認めても感情は許容しない。決して鎮火しない怒りに突き動かされるまま、獲物を見定めて両手を血に染める。

 そう、獲物だ。

 退魔士の役目は人間に仇成す妖の退治。

 けれど梢が行ってきたことは、狩りに他ならない。可能な限り柄の悪い妖を選んだが、そこに裁きの意識は欠片もない。

 それに、妖の柄の悪さは単なる文化の違いによることも多い。話し合って理解し合い、人間と友誼を結ぶ、あるいは婚姻まで進んだ実例は枚挙にいとまがない。今では半妖の子供を見かけることも決して珍しいことではなくなっている。

 結局のところ、人も妖も心は同じ。

 であれば、妖殺しが人殺しに等しい罪であることを何故否定出来ようか。例え否定する者がいても、他ならぬ自分自身が認めている。勝手に殺しておいて罪すら受け止めぬようであれば、それはもはや外道ですらなく、人ではない化物だ。

 梢はずっと苦しんだが、逃げなかった、迷わなかった、後悔もしなかった。例え時を遡っても、同じ道を選んでいたと断言出来る。

 けれど、それは決して、罪悪感と無縁であったことを意味するわけではない。


「幹奈」

「ひぐっ…うぅ……」


 幹奈は梢の呼びかけに応えられないほどに、泣いていた。母の手を強く握り、どこにでもいる少女のように、大粒の涙を流し続ける。

 幹奈。目に入れても痛くない愛娘、好きになった人の忘れ形見。


「あなたのことは……もっと早い内から突き放しておくべきだったわね……」


 散々非道を成しておいて、自分の心だけは可愛いかった。夫に続いて娘まで傍からいなくなり、独りになる覚悟が出来なかった。

 あと一日だけ。それを何度も何度も繰り返し、とうとうこんなとこまで付き合わせ、挙句の果てにその手を汚させてしまった。

 幹奈はいやいやをする子供のように首を振る。


「わたっ…………私はっ……何をされても……お母さまの傍にいました……っ」


 知っていた。何度か突き放そうとはしたが、それも形ばかり。生半可なやり方では幹奈は傍を離れようとはしない。

 何故なら、幹奈も梢と同じように、たった一人残った家族と離れ、独りになることを恐れていたから。例えその家族がどんどん人の道から外れ、堕ちて行ったとしても。

 全てを知った上で、形ばかりの拒絶を繰り返した。

 要は愛娘の心を利用し、甘えていたのだ。

 人の道を踏み外し、母親としても碌なことをしなかった。全くもって救いようがない、畜生以下の屑だ。

 このままでは、幹奈がこんな屑のことを引きずり、まだまだ長い残りの人生を棒に振ってしまう。

 駄目だ。それだけは絶対に防がなければ。

 梢は言うことを聞かない全身を必死に動かし、出来うる限りの笑顔を浮かべ、弱々しく幹奈の額を小突いた。


「嘘をついちゃあだーめ。あなた、ずっと苦しんでいたじゃない。私と違って妖への憎しみには呑まれていなかったし……私と同じで、姫様のこと……大好きだものね……?」


 幹奈を咲耶姫に仕える巫女として送り出したのは、諜報として便利という打算が三割、物理的に互いの距離を離そうという努力が四割、懐が深く優しい女神との触れ合いが何かを変えてくれることへの期待が三割といったところだった。

 そして期待通り、幹奈の心は咲耶姫へと傾き始めた。親の傍ではなく、奉神殿に自分の居場所を持つようになった。その上でいつまでも母を見限らず、迷いながらもこんな計画に加担させてしまったのは大きな誤算だったが。

 とにかく、もう幹奈に自分は必要ない。血に塗れた外道の道ではなく、陽の当たる場所へと送り返さなければ。


「姫様も、あなたが傷つけた可愛い侍さんも許してくれた。こんな屑のことなんて全部忘れて、あるべき日々に戻りなさい」

「屑なんかじゃありません! お母さまはお母さまです! 私の大切な……だから、これからもずっと一緒に……っ」


 その願いが叶わないことを理解しているからだろう、必死に梢の手を握りしめる幹奈の両目からは、大粒の涙が絶え間なく落ちてくる。ここまで人目をはばからずに泣きじゃくるのは、それこそ父親の葬儀以来だ。

 嗚呼ああ、凄く困った。良くない流れなのに、自分にそんな資格がないことも理解しているのに、娘から求められることが嬉しくてたまらない。

 同時に、この後のことを考えて焦燥が湧き上がってくる。


「ねえ幹奈……いい子だから……聞き分けて?」


 いやいやと、子供のように首を振って拒否する幹奈。今まで突き放せず、我慢を強いてしまった反動と思えば、これも自業自得か。

 けれど不味い、そろそろ本当に不味い。激しい睡魔が忍び寄り、全身から力が抜けていく。もう紡げる言葉も少ない。


「お願い……本当に、これが最後なの……」

「嫌です! 最後になる言葉なんて、私は絶対に聞きませんから!」


 駄々をこねる子供のように、幹奈は両耳を手で塞いで現実から目を逸らそうとしてしまう。

 ……終わった。別れは最悪の形となり、幹奈の心は永遠に消えない傷を負ってしまう。

 そうやって梢の意識が絶望に包まれる直前だった。

 耳を塞ごうとする幹奈の腕を冷良が横から掴んだのだ。


「冷良……」

「あ、あの! その! 部外者の僕が口を挟むべきじゃないっていうか、何様って感じるかもしれませんけど……っ」


 咄嗟とっさのことだったのだろう、当の本人が焦って台詞はつっかえ気味だ。

 けれど、つい先程まで敵だった母娘を相手に、必死に言葉を探す冷良の瞳はどこまでも真摯しんしで思いやりに溢れていて。


「今ここで目を背けたら、きっと一生後悔することになると思うんです!」

「――っ」


 だからこそ、一切目を逸らさず、願うように告げられた言葉は幹奈の心にまで届き、その肩を怯えるようにすくめさせた。

 避けられぬ別れなら、せめて悔いのないように。

 幹奈は震えながら唇を強く噛みしめ、やがて躊躇いながら梢の口元に顔を近付け、耳をそばだてた。

 有難い、もはや小さく呟く程度の声しか出せそうにないから。

 さあ、何を伝える?

 今まで振り回してしまったことを謝りたい、先達として様々な教えを残してあげたい、鍛錬も稽古も頑張って巫女頭になったことを存分に褒めてあげたい、もっと他にも沢山。心は様々な想いに満ち、伝えたいことは山のように浮かんでくる。

 だというのに、紡げる言の葉はもう一言程度。

 何を伝えるのが一番いい? 何を、何を何を何を何を何を何を何を何を何を何を――

 時間がない。だからこそ刹那の間に梢の思考は限界を越えて加速する。

 そしてふと、こちらを優しい表情で見守る咲耶姫の姿を見て思い出す。

 今となっては遠い彼方と思える昔、自分が巫女頭として咲耶姫に仕えていた頃。

 普段の咲耶姫は喧しくて我儘――快活で明るい女神だが、時折口数が少なくなる日があった。

 神ならぬ身で女神がどんなことに思いを馳せているのか分かる筈もないが、少ないやり取りでも不思議とその想いはよく伝わってきたものだ。

 想いを伝えるのに必要なのは長ったらしい言葉でも練りに練った言い回しでもない。

 そう考えると、梢の結論は自ずと一つの答えに辿り着いた。


「……………………愛……………………して……………………る……………………」


 紡いだのはたった一言。あまりに短く、捻りもなく、ともすれば陳腐かもしれない言葉。

 ただし梢はそこに、溢れる様々な想いの全てを込めた。今まで注いであげられなかった愛情も、この場で言葉に出来なかった感情も、全て。

 ちゃんとやれたか自信はなかった。たった一言の台詞を発するだけでも想像以上に難しく、声は掠れて途切れ途切れになってしまった。

 けれど、娘は母の想いに応えるように、泣き過ぎてぐちゃぐちゃになった表情を無理やり笑顔にして、紡ぐ。


「私も、ずっと……愛しています……お母さま……」


 娘から想いを伝えられた瞬間、梢は身体に残っていたなけなしの活力が一気に失われていくのを感じた。

 伝えるべきことは伝えた、自分がいなくなったとしても、幹奈の傍には慈愛の女神と、優しく強い意志を持った半妖の子がいてくれる。だから大丈夫。

 つまり、もうなくなったのだ、この命を現世に繋ぎとめておく理由が。

 眠気への抵抗を止めてゆっくりと目を閉じる。意識が闇の中へ落ちていくのもあっという間だ。


「さらばだ、復讐に身をやつしたかつての我が従者よ。禁忌は犯したが、そなたを駆り立てた復讐心の元は夫への愛。それほどまでに誰かを愛せたそなたのことを、妾は決して忘れぬ」


 かつての従者が復讐鬼に成り果てても、その在り方までは否定しなかった。

 そんな、厳しくも優しいかつての主の声に見送られて、梢の意識は闇に溶けて消えた。







 まるでただ眠っているだけのように見えた。長年復讐の炎で身を焼き続けた人間とは思えない程に、梢の顔は安らぎに満ちていたから。

 けれど、その瞼が再び開く時は永遠にやって来ない。

 母を見送る為に無理矢理作った幹奈の笑みが、絶え間なく零れ落ちる雫に呼応するように崩れていく。


「う……ぁあ……あああああああああああ――」


 幹奈は――泣いた。

 誰にはばかることもなく、幼子のように、大声で、止めどなく涙を流して。

 いつまでも、いつまでも、泣き続けた。

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