何が為に振るう刃

「冷良、あなたは雪女の伝承を知っていますか?」


 冷たさと速さと精度を増していく氷雪への対応に眉を顰め始めた幹奈が、動きだけは緩めないまま語り掛けてくる。


「曰く、秘境に迷い込んだ男を自らの美貌と氷雪で惑わし、やがて氷に閉じ込めて永遠に我が物とする。地域によって多少の差異はありますが、概ねこのようなものです」

「…………」

「当然、雪女という妖の中にも様々な性格の者がいるのは知っています。伝承はあくまで伝承でしかない」

「…………」


 冷良は黙して答えない。目的以外の全ては些細な事だと言わんばかりに。


「冷良、私はこの伝承を今、とても実感しています。今のあなたの目は、私を獲物と見なす者のそれです。男女が逆で、実力も見合っていませんが」


 踏み込んで横薙ぎに振り払われた刃を氷の壁で防ぐ。壁は一瞬で両断されたが、その直前に映り込んだ冷良の表情は、確かに普段鏡や水面などに映った自分を見る時と全く違う。


「半妖でも本能に根差した悪性は消えていない。やはりお母さまの仰っていることは正しい。私のやるべきことは間違っていない、全ての妖を――斬る」


 相変わらず的確で隙のない斬撃が迫り来る。冷良は例によって習った小太刀で防ぎつつ、徐々に冴えを増していく氷雪で反撃を仕掛けていく。


「それは……本心ですか?」


 ふと、冷良は言葉を漏らしていた。幹奈と違って、自分には戦いの最中に喋っていられるほどの余裕はないというのに。


「雪女の本能云々は否定しませんよ。何だかさっきから不思議な感じですから。けど、それでも僕は僕のままだ」


 成程、やけに妖力の操作が冴えていると思っていたが、戦いの興奮で雪女の本能が表に出て来たということか。思考が過激寄りになっているのも否定は出来ない。

 それでも、冷良は一瞬たりとて理性を手放したりなどしていない。いくら本能が意識を振り回そうとしても、心に強く打ち立てた意志は決して揺るがない。


「むしろ、幹奈様の方こそどうなんですか?」

「私? 一体何の話です?」

「戦い始めてからずっと――あなたは苦しそうです」


 その時幹奈の顔に浮かんだ表情は、一体どう表現したものか。驚き、恐れ、怒り、はたまた別の感情か。どれでもあるようで、どれでもないように思える。


「さっきのやり取りを見る限り、黒幕は梢さんの方ですよね。もしかして幹奈様、梢さんに無理やり――」

「黙れ!」


 初めて聞く幹奈の怒声と共に、冷良の脇腹を衝撃が襲った。幹奈が斬撃を放つように見せかけて、回し蹴りを放ってきたのだ。


「かふ――」


 肺から空気が押し出され、男としては小柄な体躯は地面を離れて吹き飛び、木の幹に叩きつけられる。

 失態だ、先程不意の術式を食らったばかりなのに、またしても他の攻撃に対する警戒を怠ってしまった。

 冷良はすぐさま起き上がろうとして、脇腹の鈍い痛みに邪魔をされる。先程深く斬られた部位というのもあるが、痛みの質が違う。もしかしたら、今の衝撃で肋骨でも折れてしまったのかもしれない。

 だが、冷良が晒した二度目にして最大の隙に対し、幹奈が追撃してくることはなかった。


「あなたに私の――私たち家族の何が分かる!」


 奉神殿で斬られて以降、幹奈が初めて見せる激しい感情の発露。詳しいことは分からないが、冷良の言葉のどれかが彼女の逆鱗に触れたのだ。


「私は私の意思でお母さまの計画に賛同している! 勝手な妄言を吐くのは止めなさい!」

「……だったら……」


 冷良は痛みで挫けそうになる足腰を渾身の意志で叱咤しったしながら、地面に両手をついて立ち上がろうとする。


「だったら何で……僕に小太刀を教えてくれたんですか。幹奈様に得なんてないでしょう」


 得どころか、むしろ自分の首を絞めている。何せその所為で、幹奈は速やかに冷良を始末出来なくなっているのだから。

 幹奈はややばつが悪そうに答える。


「あれは……ただの気まぐれです。武人としては、才ある者の成長を見るのは一種の楽しみですから。たかが一ヶ月程度の指導で私の脅威となりうる筈もありませんしね」


 やや厳しいような気はするが、理屈としては破綻していない。

 ならばと、冷良は次の質問へ移る。


「じゃあ……僕が生きてるのは……?」

「……?」


 幹奈は訳が分からないとばかりに眉を顰める。

 その事実に、冷良はやるせない想いを抱かずにはいられない。


「本当に……分からないんですか……?」

「な、何を……」

「一度だけ……本気の居合抜きを見せてくれたことがありましたよね……凄くて、格好良くて……いつかこんな風になりたいって憧れました……同時にこうも思ったんです、こうなる為の道のりは……どれだけ長く続いてるんだろうって」


 相当長い年月をかけたのだろう。しかも、冷良より少し上程度の年齢であそこまでの腕前となれば、鍛錬は血が滲むように過酷なものだった筈だ。


「幹奈様は僕に才能があるって言ってくれましたね……けど、指導してもらったのは一か月、たった一か月ですよ……そんなんで、僕が本気のあなたとまともに戦える筈がないじゃないですか」

「――っ」


 ようやく思い至ったらしい現状の矛盾に、幹奈が息を呑む。

 冷良の方は、どうにか地面から手を離して立ち上がれたところだ。とはいえ足元はおぼつかなく、傍にある木の幹に手をつかなければ身体も支えられない。

 それでも口だけは強気で、饒舌じょうぜつに動く。


「更に付け加えましょうか……げほっ……奉神殿で斬られた時なんて……戦いどころか僕は……背を向けて隙だらけでした……幹奈様なら、やろうと思えば絶対に殺せた筈です。なのに……僕は生き延びた」

「そ、それは……」

「あなたは……無意識とはいえ……僕を殺したくないって思ってくれてる。そんな人が、咲耶様を贄にする計画に賛同する筈がない」

「違う! 従わされているわけでもない、私は心からお母さまの味方です!」

「まだ……言いますか……」


 冷良は木の幹から手を離し、両手の小太刀をしっかりと握って幹奈の方へと歩いて行く。


「もう……止めなさい。そのような有様では、もうまともに剣戟けんせんを交わすことなど無理でしょう。あなたは負けたのです」


 負けを宣告されても、冷良は止まらない。一歩踏み出す度に脇腹を激痛が襲おうとも、おぼつかない足取りで何度転びそうになろうとも、前に進み続ける。


「止まりなさい冷良……止まりなさい! ……止まって……」


 最後の方はまるで懇願でもしているかのようだった。これではどちらが追い詰められているのか分からない。


「僕……何だかんだで巫女としての生活が気に入ってたんですよ……いや、女装が癖になった訳じゃないし、皆を騙すのは気が引けたままなんですけど……」

「一体何を……」


 問われはしたが、冷良は答えることが出来ない。

 何せ痛みと疲れが邪魔をして、思考すら既にあやふやになっているのだ。今の冷良は論理性も無視し、ただ心の赴くまま言葉を紡いでいるだけ。


「特に僕と幹奈様、咲耶様が三人でいる時は……何だろ、小雪さんと二人でいる時みたいな……落ち着いてて、あったかくて、ずっとこの時間が続いて欲しいって思えるくらい好きで……だから、取り戻したいんです」

「……夢物語です。仮にあなたが姫様を助け出したとしても、隣に私はいません。私たちは既にたもとを分けたのですから」

「だったら……っ!」


 そこから先は想いが溢れすぎて言葉にならなかった。

 丁寧に小太刀の扱いを教えてくれたあの時間が、秘密を共有した故に重ねた数々の時間が、咲耶姫を交えた楽しくて温かい時間が、全て嘘であり、もう戻らない夢物語だと言うのなら。


 ――どうしてあなたは、そんな泣きそうな顔をしているんだ!


 今すぐにでもその表情を変えてあげたい。彼女の手を取って、咲耶姫もしっかり助けて、またあの温かい日常を過ごしたい。


「あ――」


 地面を這っていた木の根に足を取られ、勢い良く転倒してしまう。衝撃が、傷ついた骨と臓腑に大きく響いた。

 冷良は再び立ち上がろうとしたが、無理だった。手も足も全く動かない。

 動くのは首から上だけ。その目は涙で溢れそうになり、歯はへし折れてしまえとばかりに強く噛みしめる。

 意志ならある。何があっても心を折るまいと、覚悟も決めてきた。

 だというのに、身体の方が先に限界を迎えてしまった。

 情けなくて悔しくて、仕方がない。もしも手が動くのなら、胸を掻き毟って皮膚を引き裂いてしまいたいほどに。

 ゆっくりと、足音が近付いてくる。哀れで惨めな敗者に引導を渡す、死の足音だ。血を吸った刃が薄い月光に照らされ、美しくも妖しい凶悪な光を放つ。

 少し視線を上にずらせば、相も変わらず泣きそうな幹奈の表情がよく見える。


「……あなたはよく戦いました」

「か……んな……様……」

「今度こそ、終わりにします。さようなら、冷良」

「だ……めです……」


 冷良の静止は、決して命乞いなどではない。死にたくないのではなく、幹奈に自分を殺させてはならない。もしそれをやってしまえば、彼女が本当の意味で壊れ、戻れなくなるような気がするから。

 だというのに、この身体は抗うことが出来ない。

 冷良は今ほど、自分の無力を呪ったことはなかった。

 意気込んで敵地のど真ん中に乗り込んでおいて、肝心の咲耶姫を助け出すことは出来ず、親しかった相手には心の傷を負わせようとし、自身は犬死に。これではまるで喜劇ではないか。


(そんなの嫌だ!)


 見苦しい駄々っ子だと笑いたければ笑え。運命だと納得して諦めるのが大人だというのなら、そんなものくそくらえだ。

 けれど、今の冷良に抗うだけの力が残っていないのも確かで。

 だから、冷良は生まれて初めて、心の奥底から願った。


 ――力が欲しい!


 今この瞬間だけでもいい。代償が必要なら命以外はくれてやる。世界最強だなんて大層な称号が欲しい訳でもない。

 この世界には神々がいて、彼らがその気になれば奇跡なんて簡単に起こるのだ。

 なら、身近にいる人たちの笑顔を守りたいというささやかな願いくらい、叶ってもいいではないか!


『はは、童を守ってくれるか、それは頼もしいな』


 ふと、頭の中に懐かしく感じる声が響いた。


『だがな、その為にそなたが無茶をして、挙句死んでしまっては元も子もないぞ?』

『む、大丈夫だもん! 将来の僕は父様みたいに、誰にも負けないくらい強い男になってるからね!』


 応じる声は、どことなく自分に似ている気がした。


『ふふ、男の子よなあ。どれ、偶然とはいえ折角幽世の、それも神域までやって来たのだ。土産でも持たせて帰らせてやろう』

『お土産……お菓子!?』

『あっはっはっは! 残念ながら菓子ではない、ちょっとしたまじないのようなものだ』

『何だ、ちぇー』

『そうがっかりするな、割と欲しがる者は多いのだぞ?』

『そうなんだ?』

『うむ。そなたが心の底から守りたい何かを見つけた時、きっとその呪いが力になってくれるであろうぞ』


 ――瞬間、冷良は胸の中で何かが弾けるような感覚と共に、身体から淡い光が溢れ出し始める。熱を持っている訳ではないのに温かく感じる、不思議な光だ。

 同時に何故か身体が動くようになっており、今まさに上段から振り下ろされようとしていた刀から間一髪で逃れることが出来た。

 幹奈の表情が驚愕に染まる。冷良も何が起こったか分からず混乱の真っただ中にあったので、後ろに跳んでひとまず距離を置く。

 そうしてすぐ、先程まで脇腹が訴えていた痛みが消えていることに気付いた。

 いや、脇腹の痛みだけではない。先程から身体中に増えていた切り傷、挙句の果てには、奉神殿で受けた背中の大怪我すらも綺麗さっぱり消えているではないか。


「馬鹿な……半妖の冷良が神力? ……塞がった傷……治癒、いえ、命の根源たる生命力を司る神格……まさか、姫様の加護!? いつの間にそんなものを……っ」

「いや、僕もさっぱり……」


 と、呑気に答えている場合ではなかった。今はまだ戦いの最中なのだから。


「でやぁあああああああ!」

「ちっ!」


 戦いが始まって以降、初めて冷良が攻勢に出始めた。妖力による氷雪だけでなく、申し訳程度とはいえ小太刀も振るう。小太刀での攻めに関しては手解きを受けていないが、強者との実戦という極限状態に晒される中で、何となくそういった『機』というものが分かるようになってきた。

 しかも、多少の怪我なら加護とやらのおかげか瞬時に癒えてしまう。


「く……っ」


 幹奈は先程までの余裕を失っている。地力の差で圧倒するのではなく、殴打や蹴り、苦手と称していた術を牽制に使うなど手段を選ばなくなってきている。

 冷良が実戦に慣れ始めていたり、女神の加護を受けていることだけではない。明らかに鈍くなった太刀筋が特に大きな原因だ。

 先程の問答で、幹奈の心に根付いていた迷いが芽吹いたのだろうか? さとりのような心を読む妖ではない冷良にそこまでは分からない。

 だが、なら知っていた。

 何せ、戦いが始まってからこちら、ずっと種を撒き続けていたのだから。


「これは……」


 強引に冷良の小太刀を弾いて距離を取った幹奈は、刀を握る自らの右手を見て何かを悟ったような表情を浮かべた。そんな彼女の肩は震え、吐く息は煙管きせるで吹く煙のように白く広がって行く。


「……やってくれましたね、少しずつ周囲の気温を下げていましたか」


 憎々しげに推察を述べる幹奈に、冷良はご明察と言わんばかりの笑みを浮かべた。

 例えどんなに強い人間であろうとも、生物としての活動に適さない環境に置かれれば、あらゆる能力が低下する。

 特に幹奈は冷良にとって身近な『強い人間』の代表格だが、その強さを支えるのは単純な腕力ではなく圧倒的な技の冴えだ。そしてそれは、寒さでかじかんだ手で十全に発揮出来るほど簡単なものではない。

 だからこそ冷良は幹奈が指摘した通り、戦いが始まってからずっと周囲の気温を下げ続けていた。決して向こうに悟られないよう慎重に、少しずつ……慎重にやり過ぎて効果が出る前に窮地に陥ったのは誤算だったが。

 幹奈の答えを肯定した冷良はすぐさま正面へ駆け出す。

 冷良に有利な環境を作ったとはいえ地力の差は大きいし、幹奈は聡明だ、考える時間を与えては対応策を思いつかれてしまうだろう。

 故に、決めるならこの一撃――!


「舐めすぎです!」


 だが、幹奈もさるもの。心が揺れ動き、寒さに晒されてもなお放たれた刺突は、確実に冷良の突撃を阻む軌跡を描いている。

 狙いは肩。頭でも胸でもない理由は……もはや考えまい。反撃の予想はしていたので、避けようと思えば避けられる。

 ――だからこそ、冷良は避けなかった。


「な――!?」

「が……っ」


 鋭い切っ先が皮膚を割り、肉を裂き、骨すら断ち切って貫通する。

 それでも、冷良の足は止まらなかった。身体の中を異物が通り抜ける怖気と激痛に意識が塗りつぶされ、何もかも投げ捨てて感情のまま絶叫したくなっても、歯を食いしばって理性を繋ぎとめる。

 幹奈の目は驚愕で見開かれたままだ。対処しようにも、肝心の得物が冷良の肩に埋まっている。

 肩を刀で貫かれては小太刀もまともに握れないが、冷良が幹奈から習った小太刀は二刀流、反対の手にはまだもう一本残っている。

 そうして遮る物のなくなった氷の刃は、流れるように幹奈の胸へと吸い込まれ――

 ――肌に触れる直前で弾けた。少なくとも、幹奈にはそう見えただろう。

 雪女とは氷雪を生み出し、操る妖。ならば、生み出した氷の形を変えられない道理がどこにある?

 冷良は胸を貫くと見せかけて小太刀、いや、小太刀の形をした氷を四股に枝分かれさせたのだ。そのまま幹奈の四肢に向かって氷を伸ばし、巻き付くように固定してしまえば、即席の拘束具の出来上がりといった具合だ。


「これは……っ」

「元々ありったけの妖力を込めて造った氷です。流石の幹奈様でも、こうなったら抜け出せませんよね」


 幹奈の持ち味は腕力ではなく技、四肢の動きを封じられては対処もしようもあるまい。


「ぐ、この……っ」


 どうにか氷の拘束具から抜け出そうともがく幹奈を横目に、冷良は肩に深く突き刺さった刀を一息に引き抜く。再び泣きたくなるような激痛に襲われるが、例によって傷には加護の光が集まって癒えていく。

 だが、光は傷を完治させる前に消えてしまった。一応肩を動かすことは出来るものの、それだけだ。指を軽く握ろうとするだけでも激しい痛みが走る。

 恐らく、今ので加護の力が尽きたのだ。加護そのものが消えたのかは分からないが、少なくともこの戦いにおいては、もう受けた傷が癒えることは無い。

 冷良は意識を切り替え、ある方向へと視線を向ける。

 ――咲耶姫が捕らわれた花畑のある方向だ。

 そう、やっとの思いで幹奈を戦闘不能にしても、それで全てが終わる訳ではない。冷良はここへ、咲耶姫を助けにやって来たのだから。

 冷良は幹奈を一瞥して、憎々し気な視線をぶつけられる。

 話したいことは山のようにあるが、全ては咲耶姫を助け出してからだ。

 冷良は念の為に幹奈の刀を回収し、花畑へと向かって駆け出す。

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