尚早たる下剋上

 幹奈がここまで呆然としているところを見るのは初めてだ。

 とはいえ、それもさもありなん。何せ、殺したと思っていた相手が何食わぬ顔で再び姿を現したのだ、亡霊にでも遭遇したような心境なのかもしれない。

 そして、冷良が現れたことに驚いているのは幹奈だけではない。


「冷良! 無事であったか!」

「はい、どうにか。もう少し待っててくださいね、すぐに助けますから」


 幹奈から冷良は死んだと聞かされていたのだろう、咲耶姫は自らを助けに来てくれたことではなく、冷良が生きているという事実に喜びの笑みを浮かべている。

 対して、いまいち感情が読めないのが残るもう一人――梢だ。

 今回の企てに彼女も加わっていたことや、肌を埋め尽くす痛々しい紋様に今更驚きはしない。

 ただ、間違いなく予想の外にあったであろう状況に陥っているにも関わらず、欠片も動揺している様子が見られないのは少々不気味だ。


「あら意外、幹奈が獲物を仕留め損なうなんて」

「……申し訳ありません、お母さま。この不始末は私自身の手で」

「お願いするわね。私は儀式に集中しないといけないから」


 やり取りを聞く限りでは、首謀者は梢と思うべきか。

 梢が跪いて地面の陣に手を触れ、もう片方の手で印を切りながら口元で何かを唱える。

 直後、陣が淡い光を纏ったと思ったら、それを上回る輝きが咲耶姫の身体から溢れ始める。


「あ――あぁあああああああああああああああ!」

「咲耶様!」


 咲耶姫の身体から溢れる光。奉神殿で聞いた幹奈の話を考えると、あれが神力というやつだろう。

 冷良は咲耶姫の元へ駆けつけようとするが、その行く手に刀を抜いた幹奈が立ちはだかる。


「お母さまの邪魔はさせません」

「幹奈様……」


 こうなるのは既に覚悟していたことだ。ただ、改めて敵意を剥き出しにした幹奈と相対して、改めて心に痛みが走っただけで。

 しかし、直後に感傷に浸っている余裕すらないことを思い知らされる。


「同じ失敗は犯しません。あなたはここで確実に――殺す」


 全身に怖気が走り、本能が激しい警鐘を鳴らす。

 紛れもない達人から向けられる、刃のように鋭い殺意。意志を強く保っていなければ、これだけで気を失ってしまいそうなほどだ。

 そうして幹奈と戦う前提をどうにか乗り越えた冷良は大きく息を吐いて意識を落ち着け――開けた花畑から、木々が生い茂る森へと走った。

 流石に予想外だったのだろう、足を止めないまま振り返った先では、幹奈が唖然とした表情を浮かべている。

 当然、恐れをなして逃げたわけではない。冷良は手元に鋭い氷柱を造り、矢のように放った。ただし、狙いは幹奈ではなく、儀式に集中している梢だ。

 瞬時に冷良の狙いを察した幹奈は氷柱をあっさりと両断してしまうが、別に構わない。これでこちらの意図は察しただろう。

 ただでさえ花畑の周囲は木々が生い茂って視認性が悪いのに、今は夜だ。花畑から少し離れてしまえば、その姿はすぐ闇夜に紛れてしまう。そうなれば、今いる位置から動けない梢はどこからでも狙い放題だ。

 全方位どこから来るか分からない射撃。その全てから梢を完璧に守るのは、いかに幹奈とて決して簡単なことではないだろう。

 向こうにとっては幸いなことに、敵は冷良一人。あんな奇天烈きてれつな侵入方法でもない限り、見張りのいる森に外から他の敵がやって来る可能性は低い。

 幹奈は何故か一瞬だけ咲耶姫の方へと振り返ったが、その後の判断は早かった。冷良の姿を見失わない内に後ろから追いかけてくる。

 幹奈が誘いに乗って来てくれたことに、冷良はひとまず内心で安堵していた。お互いの実力差は歴然、小細工の効かない開けた場所でまともに戦っても、万に一つの勝ち目さえあり得ないのだから。

 だが、小細工の効く森の中に場所を移動したとして、それで勝ち目は出てくるのか?

 脳裏に浮かんだ疑問を、冷良は即座に掻き消した。

 勝ち目うんぬんではない、勝たねばならない。

 捕らわれた咲耶姫を助ける為に。






 冷良と幹奈が森の中へ姿を消した後の花畑には、捕らわれの咲耶姫と無防備となった梢が残される。

 儀式が始まった瞬間には天上の月まで届きそうな叫び声を上げた咲耶姫だったが、今はそれも収まっている。


「……よいのか、唯一の守りを手元から離して……」

「……驚きました。神々にとって神力とは、自身の存在と不可分。それを無理やり吸い取られる苦痛は、並大抵のものではございませんでしょうに」


 どうやら会話に応じる程度の余裕ならあるようだ。

 表情は変えないながらも驚き自体は本当であるらしい梢に、咲耶姫は鼻で笑って見せる。


「ふっ……女神を舐めるでないぞ……先程の叫びは……そう、あれだ……初めての感覚に驚いてしまっただけだ……」


 真っ赤な嘘である。梢が指摘した疑問は事実であり、今こうして平静を保っているのも単なるやせ我慢に過ぎないし、苦悶を隠しきれている訳でもない。

 それでも、可能な限りの威厳を示すことが、女神としての矜持なのだ。


「初めの質問に対してですが、あれが最善です。もしこの判断が間違いで計画が失敗するなら、私の命運がそこまでだっただけの話です」

「随分と……投げやりな言い方ではないか……そなた、本当に計画を成功させる気はあるのか……?」

「当然でございます。でなければ、このような大それたことは出来ません」


 確かに、人が神に仇なすなど前代未聞、絶対に犯してはならない禁忌の一つだ。正気の人間なら頭の隅に思い浮かべることすらしまい。


「ええ、私は本気です。この胸に宿る果てない憎しみが望むまま、全力で走り抜けますとも。例え道中に、そして行く先に、何が待ち受けていようとも」


 先程目的を聞かされた時と同じく、梢の瞳に浮かぶのは復讐心に染め上げられた仄暗い覚悟。

 彼女の目的は『悪意』の封印に綻びを作り、人に仇成す妖を現世に解き放つこと。そうして人と妖の融和を崩し、妖を殺す大義名分を手に入れること。

 だが、何故だろう、今の台詞に言い知れない違和感を覚えるのは。梢の言い草は望む未来へ向けて邁進するというよりはむしろ――


「……凄く勇敢な娘ですね」

「冷良の……ことか……?」

「ええ、姫様を助ける為に、たった一人でこんな所まで乗り込んで来るんですもの。しかも、幹奈の殺気を当てられてもなお戦うことを選ぶ……まるで、姫君を迎えに来た侍のようではありませんか」

「ふっ……冷良は……お転婆であるからな」

「ふふ、左様でございますか」


 梢は復讐心による歪んだものではない、以前と変わらない自然な笑みを浮かべる。

 結局のところ、いくら考えても梢の心の内は分からない。咲耶姫は女神だが、全知の権能を持っているわけではないのだから。

 今はただ、窮地へ駆けつけてくれた冷良の無事を願いばかりである。






 分かっていたことだ、例え障害物溢れる森へ移動したところで、幹奈を相手に有利に立ち回れるなんておこがましいにもほどがあるということは。

 しかも、初めての実践は鍛錬とはまるで違う。


「ふ――っ」


 上、下、右、左、正面からの刺突。全力で命を奪わんとする刃が、あらゆる角度から次々と迫り来る。

 冷良はそれを、両手に握る氷の小太刀で受け、ぎりぎりの所で躱し、氷の壁で防ぎ、木々の陰に隠れ、どうにか命を繋いでいた。小太刀の扱いを習う前であったなら、即座に均衡は崩れて刀の錆となっていただろう。

 曲がりなりにも冷良が『戦い』を成立させていられるのは、幹奈から小太刀を習っていたこの約一か月間、防御と回避のみを叩き込まれてきたからだ。師である彼女曰く、生き延びさえすればまた強くなって再戦出来る、だが死ねばそれで終わりだからとのこと。

 故に冷良は、自分の方から小太刀を振るいはしない、いや、振るい方を知らない。紅と試合稽古をした際、結果的に彼女を馬鹿にするような立ち回りをせざるを得なかった原因の一つだ。

 ならば防戦一方かといえばそうでもない。

 小太刀の代わりに攻めを担うのは、冷良の血に流れる雪女としての力。

 氷柱を飛ばし、氷のつぶてを降らせ、局所的な吹雪で動きを鈍らせる。攻守で全く違う戦法は、敵からしてみれば侍と妖の二人を同時に相手取っているようなものだろう。

 ――だというのに、全く足りない。

 幹奈は一本しか持たない刀で冷良の攻撃にも防御にも悠々と対処してくる。どうにか戦いを成立させてはいても、少しずつ飛び散る血しぶきは冷良のものばかりだ。

 一つだけ幸いなのは、周囲に散らばる見張りの加勢が無いことだ。一度戦いに見張りが加わろうとしたのだが、幹奈が陽動の可能性も考え、外への警戒を優先させた。実際はどれだけ待とうとも冷良以外の侵入者がやってくることは無いのだが、勘違いしてくれるのならありがたい。

 冷良は一旦幹奈から距離を取る。立ち止まっての真っ向勝負など無謀、木々が生い茂る地形と男としては小さめな体躯、そして雪女の妖力を最大限に生かす為、戦いが始まってから何度も繰り返した行為だ。

 どうせすぐさま幹奈は距離を詰めてくるのだが、少なくとも彼女が振るう刀の間合いから外れている間だけは斬撃を受ける心配がない。

 それは時間にすればほんの一瞬。

 けれど、一時も気を抜けない筈の戦闘で断続的に発生する、紛れもない気の緩みだった。

 距離の離れた冷良を追いかけようと踏み込んだ幹奈の片手が、一瞬発光する。

 嫌な予感を覚えた冷良は脳裏に描いていた迎撃の『型』を捨て去り、大きく身体を傾ける。

 直後、目の前を細い雷光が走ったのを目の当たりにするのと、すぐ傍に迫った幹奈に気付いたのはほぼ同時だった。

 対して冷良は体勢を崩したまま。小太刀を動かす暇も、氷雪を造る暇も無い。


「ぐあっ……っ」


 脇腹に一際大きな切り傷が刻まれた。追撃を警戒してわざと転がり、立ち上がってすぐに傷口を氷で塞ぐ。


「退魔士とは、刀を振るうだけが能ではないのですよ。私が刀を好むだけで、術式を主な武器にする退魔士も大勢います」

 そうだった、身近な退魔士である幹奈の印象が強いが、奉行人として働く退魔士が術式を使っているのを見たことがある。

 実際のところ、幹奈の術式は大した威力ではない。雷光が着弾した木を見てみれば、幹の表面が僅かに焦げているだけだ。牽制と割り切って速度を優先したか、単に術式が苦手なだけなのかは分からない。

 いずれにせよ、冷良の警戒をすり抜け、意識の間隙を突くには十分だった。

 傷口は氷で防げても、それはあくまで応急処置。失った血も、痛みも、これで消える訳ではない。冷良は着実に追い詰められつつある。


「はっ……はっ……」


 それでも、戦意だけは失わない強い意志で幹奈を睨みつける。


「……その傷でよく粘りますね。妖力の方も、奉神殿からここまで氷を伸ばしただけで驚嘆ものです」

「お褒めに預かり……ぜぇ……どうも……」

「ですが、いくら氷で塞いでも失った血は戻りません。残っている妖力も残りは決して多くない筈。これ以上のあがきは痛みが長引くだけですよ? 私に弱者をなぶる趣味はないのですが」

「悪いですけど、まだまだ付き合って貰いますよ……っ」


 実のところ幹奈の指摘は図星だし、『まだまだ』戦いを続けられる自信も薄いのだが、強がりでも言っておかなければ心が折れてしまいそうだ。


(もっとだ、もっと集中しないと!)


 そもそも、小太刀の型で動きながら妖力を行使するというのは、言葉で表現するのは簡単でも、実行に移すとなると非常に難しい。幹奈の対応が悠々としているのは、地力の差は勿論、冷良の攻撃と防御の連動がぎこちないというのもあるだろう。

 冷良は意識の集中を深めていく。相手が顔見知りの女性ということで心のどこかにあった遠慮も捨て去る。むしろこちらが殺すつもりくらいでやって、ようやく足元に及ぶかどうかということを思い知らされた。

 そうして意識の雑念を極限まで排除していくと、不思議な感覚に包まれていく。

 乱れ舞う剣閃、飛び散る血潮、飛び交う氷と術式、一時も止まることなく動き続ける両者。心身共に熱くなっていくのが普通の状況なのにむしろ逆、頭の中だけはどんどん冷たさを増しているような節がある。

 妖力の行使も時間と共に滑らかになっていくのを肌で感じる。まるで自分の中にいる別の誰かが、そうしたやり方を知っているかのように。

 冷たく、もっと冷たく。

 ソシテ目ノ前ニイル人間ヲ――

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