軋む平穏
他者との関係性とは、日常の良し悪しを決める上で非常に大きな割合を占めるもの。そういった意味では、紅と仲直り出来たことは冷良にとって大きな成果であると言える。
「冷良さん?」
「う……ご、ごめんなさい、紅さん」
「謝る必要はありません。少し、ほんの少しですが、先週よりもましになっています。あなたが真面目に頑張ろうとしているのは分かったつもりですわ。ほら、そこはこう――」
巫女としての修練は相も変わらず上手くいかないが、紅は以前のように怒鳴ったりはせず、冷良一人にばかり構っている訳にもいかない教師の代わりに、色々と教えてくれるようになった。
精神とは現金なもので、結果は大して変わっていないのに、蓄積される負担が大幅に軽くなっているのを感じる。
巫女として奉神殿で働くことになって早四週間、今の生活に慣れてきたということもあり、冷良が日々を平和に過ごす支障は完全に取り除かれたと言っていい……慣れれば慣れるほどに襲ってくる、男らしさから遠ざかるやるせなさについてはさておき。
とはいえ、それでも眠れない夜というものはある。
「……眠れない」
自室の布団に入って
慣れてきたとはいえ明日も忙しいのだから夜更かしは厳禁なのだが、いかんせん目がばっちり冴えてしまった。
このまま布団の中でうだうだ悩んでいても仕方ないので、冷良は気分転換と軽い運動を兼ねて適当に散歩することにした。
地上から離れ、巫女たちと女神しかいない奉神殿は普段からあまり騒がしくはないが、やはり皆が寝静まった夜ともなれば雰囲気は大分違う。整備の行き届いた床板は軽く踏む程度で軋んだりしないが、どうしても踏み出す足の一歩一歩には神経を尖らせてしまう。
だからこそ、静寂を破る音は小さなものでもよく響く。
「足音……?」
どうやら咲耶姫のいる本殿の方から聞こえているらしい。
しかしおかしい、他の巫女は寝静まっている筈だし、冷良と同じ理由で出歩いているには少々慌ただしい響き方だ。
不審に思った冷良は、足元が聞こえた方へと足を進める。
そうして幾つ目かの曲がり角に差し掛かろうとした所で、不意に角の向こうから刀が飛び出して来た。
「~~~~っ!?」
咄嗟に両手で口元を押さて悲鳴を我慢したのは、かなり頑張った方ではないだろうか。
「……冷良?」
「か、幹奈様……」
曲がり角から姿を現した幹奈に、冷良は安堵の息を吐いた。
「ああびっくりした……こんな夜中に足音が聞こえてきたから、何があったんだろって思いました」
「それはこちらの台詞――いえ、わたしの場合は妖気の接近を感じ取ったのですが……危うく首を切り落とすところでしたよ」
知らない間に危機一髪だったらしい。冷良は今更になって冷や汗を流した。
「ちなみに、私は巫女頭として夜の見回りをしていたのですが、冷良はこんな夜中に一体何を?」
「えっと……眠れないから散歩をですね……」
じっとりとした目による問いかけに、冷良がしどろもどろになりながら返すと、幹奈はやれやれとでも言いたげに溜息を吐いた。
「まあ、そんなところだとは思っていました。眠れないのは仕方ありませんが、あまり紛らわしい真似はしないように。あなたの場合、妖気を放っているのでなおさらです」
「そういえばさっきも言ってましたけど、妖気なんて感じ取れるんですね? 僕は半妖ですけど、その辺さっぱりです」
「妖から人間を守ることが使命の退魔士にとって、妖の存在を察知する能力は重要ですからね。退魔士の家系はそういった素養を持つ者が多いのですよ」
あるいは、そういった家系だったからこそ、妖から人間を守ることを生業にしていったのかもしれない。
「けど、今の時代だとあまり役には立たなそうですね。都だと妖なんてそこら中にいますし」
「その通りです。若い世代の私は違和感を抱くことはありませんが、そうでない者にとって、今の世はどのように感じられるのでしょうね……」
世界の在り方は以前と大きく変わった。大きな変化を余儀なくされた今の大人の気持ちは、冷良は勿論、同じく若い世代の幹奈にも察することは出来まい。
「……取り敢えず、僕は宿舎に戻りますね。ここにいても幹奈様の邪魔になりそうですし」
話題を断ち切り、冷良は幹奈の返事を聞く間もなく踵を返す。動かす足は、普段よりもやや早い。
「――時に、冷良は妖がどこからやって来るのか考えたことはありますか?」
だが、幹奈が問いを投げかけて会話を継続させてきたので、この場を離れようとした足は早々に止まることになる。
「どこからって……住んでる所からじゃないんですか?」
「ああ、質問の仕方が悪かったでしょうか。ではこう聞きましょう、妖はどうやって生まれると思いますか?」
「そりゃあ――」
母親のお腹からと答えようとして、冷良は途中で言葉を詰まらせた。
人間と同じ――要は交配で数を増やす妖はそれなりにいる。人型や獣型の種族は概ねがこの分類に入る。
だが、そうでない種族も数多い。頭や手足しか持たない者、物由来の者、そもそも実体を持たない者などなど多岐に渡る。
経歴上、冷良は様々な妖と接する機会があったが、それでも妖全体という尺度から見れば知っていることは多くない。
降って湧いた疑問に思考が引き寄せられる冷良だが、幹奈は結論を待たず更に質問を重ねる。
「それともう一つ、妖の中にはどうあっても人間と相容れない種族もいることはご存知ですか?」
「……はい」
こちらに関しては、冷良にも心当たりがあった。数日前に出くわした鬼のような性格的な問題ではない、存在からして人間の害となる妖たち。人間の悪意が由来となった種族や、人間の血肉や魂を糧とする種族だ。
「退魔士の歴史でも、そういった妖を滅した記録は数多く残っています」
「でしょうね」
「……冷良、あなたは疑問に思ったことは無いのですか? どうあっても人間に害を成す、そんな妖がいるのに、今のような時代になるまで十年程度しか要していないことに」
「…………」
一つ前のものと同じく、今まで考えたこともなかった疑問だ。
だが、試しに想像してみる。
脳裏に浮かべるのは、紅や幹奈の身内に関する話。要は、そういった悲劇が頻繁に起こる社会だと思えばいい。
そういった状態で、小雪のような人間に友好的な妖が、必死に人間の方へ歩み寄ったとする。
……正直、上手くいくとは欠片も思えなかった。個人的な交友ならともかく、社会的な融和など十年では到底無理、むしろ劇的な切っ掛けが無ければ、現在のような人間と妖が融和した社会など百年かけても足りない気がする。
と、そこまで思考を巡らせつつも、冷良は全く別の回答を口にした。
「うーん……難しくて僕にはよく分からないです。今は寝不足が明日の修練に響かないかだけが心配なもので……」
途中までの考察も残った疑問も胸の内にしまい込み、冷良はお手上げとばかりに両手を上げた。明日の心配を理由にして、そのまま気分転換の散歩は十分とばかりに踵を返す。
「神々が凶悪な妖の源となる『悪意』を、この現世とは異なる別の領域――幽世に封印したからですよ」
――だというのに、幹奈は再び流れを無視して答えを示し、無理やり会話を続けさせる。
まるで、冷良を逃がさないようにしているかのように。
「あらゆる生命体が抱く負の情念。それは世界を巡って『悪意』となり、妖という形で人間に牙を剥く。現代で増えた温厚な妖は、世代を経て『悪意』の影響を薄めていった者たちでしょう」
それは本来、長年持ち続けてきた常識がひっくり返る程の、とんでもない真実だ。
けれど、冷良には呑気に驚いている余裕など無かった。
「けれど、いくら世代を重ねようと本能に根付いた悪性が消えることは絶対に無い。妖をよく知る者たちからすれば、神々がやったことは現実から目を逸らした愚行に過ぎない、人と妖の距離が近くなった今の時代は非常に危険なのです」
「へ、へぇ~……」
普段と変わらない冷静な説明口調ながら、内容をよく聞いて理解すれば、生真面目な巫女頭の幹奈、いや、人間が口にするにはあまりに危険なものだ。冷良は先程までのように軽口すら返せず、無意識に足を一歩下げていた。
「さて、更に話は変わるのですが……冷良、あなたが聞いた音、一人分である筈がありませんね?」
瞬間、冷良は有無を言わず幹奈に背を向けて走り出した。
そう、実は初めに冷良が聞き取った音は一人分ではない。聞こえ方からして、三、四人分くらいはあった。
だというのに、同じ音を聴いた筈の幹奈はそのことに一切言及しなかった。冷良が何かにつけてこの場所を離れようとしたのは、一旦離れてこっそり様子を伺い、抱いてしまった疑念を晴らそうしていたからに他ならない。
だが、幹奈は冷良の疑念などお見通しだったらしい。
本来であれば、だからどうしたという話である。
だが、直前までの危険な発言があった。そして何より、感じてしまったのだ、鬼を切ろうとした時の幹奈と同じような気配を。
だから即座に逃げた。
それも、次の瞬間には無駄であったことを思い知らされるのだが。
「あぐ……っ」
背中を襲う灼熱のような感覚。
普段味わうことのないそれが意識の全てを塗りつぶし、たまらず床に倒れ込む。
切られたのだと理解したのは、振り返った先で幹奈が刀に付いた血を飛ばしていたから。
「今の話は冥途への土産です。訳も分からぬまま死ぬのは、半妖といえど哀れですからね」
薄暗くて幹奈の表情までは見えない。
けれど、耳朶を打つ声は真面目な巫女頭としてのものではない。冷静を通り越して無機質、まるで意思を持たない人形のようで。
「この後、姫様には聖域の森で行われる儀式の贄となっていただきます」
「な……っ」
「お母さまが編み出した、神力を吸い取る外術です。『悪意』の封印は常に神力を供給する必要がありますからね。ならば、その元を絶てばいいだけの話。例え神々といえど、存在の根底たる神力を吸い尽くされてはひとたまりもないでしょう」
『悪意』とやらの封印が解ければどうなるのか。人と妖の融和が進む前の時代を冷良はよく知らない。ただ、禄でもない事態になることだけはまず間違いないだろう。
何より、咲耶姫を贄にするなんて――
「駄……目……です……幹奈様……!」
「人の世のことであれば心配ありませんよ。妖は全て、我々退魔士が滅しますので」
刀を鞘に納め、何の感慨も残さない態度で幹奈は去って行く。
縋るように伸ばした腕は――届かなかった。
どこもかしこも木々が生い茂る深い森の中にあって、不自然に大きく開けた広場のような空間。普段から色とりどりの花が咲き乱れ、枝葉の隙間から木漏れ日が差し込む様は神秘性を醸し出す。特に咲耶姫が花と縁深い女神ということもあり、花の都の住民たちは周辺の森を含めて敬意を持ち大切にしている。
しかし現在、満月の淡い木洩れ日と篝火によって照らされた花畑は乱雑に踏み荒らされており、かつての美しく神秘的な光景は見る影も無い。
花は篝火の周囲と、特定の線を描くように刈り取られている。前者は延焼防止の為だろうが、後者はむき出しとなった地面に塗料が敷かれており、離れた場所から眺めれば複雑な陣を描いているように見える。
そんな陣の中心に、咲耶姫は拘束されていた。
奉神殿で幹奈の手引きした連中に拐かされ、ここへ連れて来られるまでの道中を含め、彼女は抵抗と言えるような抵抗をしていない。達観したように、己の身体に巻き付く物を見下ろしている。
金属環の一つ一つに精緻な文様が刻まれ、一定の間隔で呪符を垂れ下げられた鎖だ。
「神を封じる鎖か……よくもまあこんな物を作ったものだ」
特殊な素材、尋常でない技術、膨大な金銭、それらを執念で編み上げたかような代物に、咲耶姫は称賛混じりの呆れを口にした。
事実、戦の逸話を持たないとはいえ神々の一柱たる咲耶姫の身体は動かせず、権能も操れないでいる。せめて女神としての矜持を示さんとばかりに、泰然とした態度を保つのが精一杯だ。
誘拐された際は幹奈とどこぞの者とも知れぬ黒づくめ達がいたが、今は咲耶姫一人だ。周囲の森に大勢の気配はあるのだが、この広場へは近寄って来ない。自力で動けない咲耶姫よりも、敵がやって来るかもしれない外への注意を厚くしているようだ。
不意に、背後から誰かが近付いてくる。
穏やかでゆっくりとした、落ち着きを感じさせる足音だ。咲耶姫はそれを聞くだけで誰なのか分かる程度には聞き慣れている。
「梢か」
「……よくお分かりで」
「たわけめ、妾が何度そなたの足音を聞いていたと思っている」
「言われてみれば確かに、六年間も傍でお仕えしましたからね」
懐かしむ様な声色の梢は、まるで旧友と話しているように気安く穏やかで。
けれど、今ここに現れる以上、用向きまで穏やかである筈が無い。
「な……っ」
そう理解していてなお、咲耶姫は梢が視界の中へ入った瞬間、驚愕せずにはいられなかった。
年月を経ても張りと艶を保っていた梢の美しい顔が、黒く痛々しい紋様に覆われていたからだ。
「梢、その顔は……っ」
「ああ、これでございますか? 私は月代家の一員とはいえ入り嫁、当主代行として一族と門下を統率し、多くの妖を滅するには少々地力が不足していましたので」
「たわけめ! 気配で分かるぞ、それは禁術の類であろう! 恐らくは、命を代償とする類の!」
「その通りではありますが、代償となるのは寿命です、今すぐにどうこうなる訳ではありませんよ。まあ、その寿命が後どれくらい残っているのかは、私にも分かりませんが」
「……たわけめ」
自らの寿命短縮を意に介していない梢の目は、覚悟を決めた者のそれだ。何を言っても無駄だと悟った咲耶姫は、力なく叱ることしか出来なかった。
「……やはり、原因は空牙の一件か」
「はい」
「憎いか、妖が」
「むしろ、どうして憎まずにいられましょうか」
梢の瞳に憎悪の炎が灯る。
「都を我が物顔で歩く妖を視界に入れる度、滅したくなる衝動を抑えるのに苦労します。明確に人間へ害を成した妖を滅して鬱憤を発散していますが、そろそろ我慢の限界です」
「ならば、人と妖が交わる世を作り出した妾たち神々のことは、さぞかし憎いであろうな」
「……そのような世も、今日で終わりです。姫様の神力を吸い尽くして、『悪意』の封印に綻びを作ります。人に仇なす妖が増えれば、後は噂が勝手に人と妖の溝を広げてくれるでしょう」
「民はどうなる?」
「姫様が何を指して民と称しているのかは分かりかねますが、当然我ら退魔士が全身全霊を以て守護しますとも――人間であれば」
十年前であれば、特に問題はなかった。民とはすべからく人間のことを指していたのだから。
だが現代において、少なくとも咲耶姫が民と捉える者たちの中にいるのは、人間だけではない。
変わってしまった昔馴染みに咲耶姫がやるせない視線を向けていると、その背後から幹奈が姿を現した。
「お母さま」
「お疲れ様、首尾はどう?」
「争いや侵入者の痕跡は完全に消しておきました。後は噂さえ上手く流せば、民は姫様が突然お隠れになったと思うでしょう」
ここで言うところの隠れるとは、現世にいる神が姿を消すこと。神々の故郷とされる天に帰ったのか、幽世に移動したのか、いずれにせよ気まぐれな神々が様々な理由で隠れることは、決して珍しいことではない。
そうして退魔士たちの立場を保ちつつ、何食わぬ顔で凶悪な妖を滅するのだろう――今まで手を取り合ってきた妖共々。
「……幹奈」
咲耶姫は震える声で呼びかける。
別に、幹奈がこの場に現れたこと自体は意外ではない。
咲耶姫が注目するのは幹奈が腰に下げる刀の鞘、そこに付着した赤黒い染みのような何かだ。
「その鞘に着いた血……」
「――っ」
しまったという顔で幹奈が鞘を見やる。
「答えよ……一体誰を切った?」
恐らくは、返り血を浴びた後に着替えて顔も拭ったのだろう。だが、鞘にまでは気が回らなかった。
着替えがあるということは、返り血を浴びたのは彼女の自室がある奉神殿。これだけでかなり数は絞られる。
そして妖を敵視する者が、奉神殿で手にかける可能性が最も高い相手は誰か。
「……冷良か?」
「――っ」
劇的ではない、けれど明確な反応。確信を得て――大きく取り乱すには十分過ぎた。
「何故だ幹奈、そなたは冷良を目にかけていたであろう。わざわざ時間を割いて剣を教えていたくらいだ。なのに何故……!」
「……例え半分といえども、冷良とて妖、我らが憎き怨敵でありますれば」
理由は母と同じ、大切な人を奪った妖への憎しみ。普段以上に冷たく無機質な声色と表情は、まるで情を切り捨てて人形へと変じてしまったかのよう。穏やかな表情ながら苛烈な覚悟と意志をむき出しにする梢とは対照的だ。
そこへ、当の梢が口を挟んでくる。
「そろそろ儀式を始めましょうか。幹奈、結界と見張りがあるから大丈夫だとは思うけれど、周囲の警戒をお願いね。私は術式に集中するから」
「了解しました」
「待て! まだ話は終わっておらぬぞ!」
幹奈は振り返らない。
咲耶姫は失意の中、その背中を見ていることしか出来なかった。
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