変わる月と変わらぬ月

 咲耶姫が入浴中に飲む酒を所望したので、食糧庫に寄って樽から徳利とっくりに酒を移し、咲耶姫専用の温泉へと向かう。

 当然だが、冷良は咲耶姫と一緒に湯に浸かる訳ではないので、脱衣所で裸になったりはしない。代わりに、そろそろ着慣れてきた巫女装束から真っ白な湯着に着替え、準備も整ってしまった。

 衝立の向こうへ進む前に、一度だけ深呼吸。


「……うん、幹奈様とは何度も一緒に入ったんだから、咲耶様が相手でも大丈夫」


 小声で自分に言い聞かせ、覚悟を決める。


(いざ、出陣!)


 外見は女々しかろうと、せめて心だけは雄々しく。迷いを振り切った澱みのない足取りで、冷良は衝立の向こうへと足を踏み入れた。

 さて、ここで失念が一つ。

 冷良は今日に至るまで、毎日夜遅くに幹奈と入浴している訳だが……終始冷静でいられたことなど一度も無いということを。しかも、互いの位置取りや順番などに気を遣い、可能な限り彼女の身体を見ないようにした上で。

 であるなら、温泉の縁にて小さな椅子に腰かける咲耶姫の身体に、どうしてまともな精神を保てると言うのか。


「ふぐ……っ」


 幸い、咲耶姫がこちらに向けているのは背中だ。

 だが、華奢な肩から脇を経て腰へ至る肌色の曲線は、一瞬で冷良を腰砕けにしてしまうほどに艶めかしい。幹奈と混浴の経験を積んでいなければ、緊張と興奮が限界を越えて気を失っていただろう。


「む、来たか冷良。では、頼むぞ」

「は……ひ……」


 もはやまともに返事をすることすら難しい状態の中、ゆっくりと咲耶姫の背後へ移動する。

 お次に立ちはだかるのは、かつて無い程の割合で視界を埋め尽くす肌色と、鼻孔をくすぐるえも言われぬ香り。冗談抜きで頭がくらくらしてきた。

 こうなれば、せめて視界だけでも閉ざしてさっさと終わらせないと本当に危ない。

 手際よく石鹸で泡立てた手拭いを握り、いざ――


「ひゃんっ!?」

(げふぅ!)


 別に血を吐いたりした訳ではないが、心地としては似たようなものだった。


「こ、こら冷良! 力が強すぎるぞ!」

「も、申し訳ぇ、ありませぇん……」


 まさか本物の女性がここまで敏感だとは……意外なところで自分の男らしさを発見して少し嬉しい――なんて思っている場合ではない。

 下唇を噛みしめて必死に意識を繋ぎ留めながら、今度は力を加減しつつ、やはり素早く咲耶姫の背中を流していく。

 細かい所も忘れてはいけない。肩、腕、首筋、脇――


「おっと、そなた妙な洗い方をするな」


 脇に伸ばした手が勢い余り、骨や肉とは違う、少なくとも男の身では覚えの無いとても柔らかい何かに触れたような気がしたけれども。


(考えるな考えるな考えるな考えるな……!)


 根拠は無いが、答えに至ってしまったら今度こそ意識が落ちてしまうような予感がある。

 とはいえ、全ては結局のところ問題の先送りに過ぎず。


「冷良よ、熱心なのは良いが、背中ばかり洗ってどうするのだ?」


 それはつまり、早く前も洗えということで。


(……終わった)


 前に回って咲耶姫の視界に映るようになれば、流石に目を閉じてもいられない。彼女の肢体を正面から目の当たりにして、意識を保っていられるとも思えない。気を失っている間に、気を利かせた誰かが冷良を着替えさせでもすれば完全に終わりだ。

 万事休す。にっちもさっちもいかなくなった冷良は無言で固まったまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 不自然な沈黙がいつまでも続けば、機嫌が良さそうだった咲耶姫が不信を抱くのも当然で。


「……冷良よ、女同士だというのにそこまで恥ずかしいのか?」

「それは……」


 女の裸身を見ることを恥ずかしがる。

 同性たる女の反応としては甚だ不自然であり、ならば次に浮かぶ可能性は一つ。

 すなわち、ここにいる冷良が男だと――


「ああ、そういえば以前も妾の裸を見たがらない巫女がいたな」

「――っ」

「丁度そなたと似たような身体つきの者でな、確か……目が潰れるだの落差がどうのとよく分からないことを言っていたか。やはりそなたもそうなのか?」


 男である冷良と近い体型の、年頃の少女。

 何と哀れな――ではなく!


「そうなんです!」

「おぉう!? え、えらく食いつくな……」


 やや引き気味の咲耶姫だが、今は気にしている暇も無い。


「その人の気持ち、僕も凄く分かります! 色気皆無な絶壁の身からしてみれば咲耶様の完璧な身体はひたすら尊くて眩しくて目が潰れそうになるくらいで自分とのあまりの落差にいっそ笑えてくるんですけど結局は絶望でしかないといいますかとにかく複雑なんです!」


 持たざる女の心情を男が語るとは、一体何の冗談か。冷良も半ば勢いで突っ走っているだけで、自分が何を言っているのかあまり理解していない。ただ、全国の絶壁な女性たちに対しては、全力で謝っておかねばなるまい。


「う、うむ……? そういうものなのか?」

「そういうものなんです!」


 実際にそういうものなのかは知らないが、とにかく押し切る。


「そ、そうか、ならば仕方ない、妾とて進んで人を絶望させる趣味は無い故な。ほれ、手拭いを貸すがいい」


 咲耶姫はかなり戸惑っているものの、一応は納得してくれたようだ。手拭いを渡すと、身体の前面だけは自分で洗っていく。


「うむ、これでよし。冷良よ、泡を洗い流すくらいは出来るであろう?」

「あ、はい! ただいま!」


 温泉の湯を桶に汲み、咲耶姫の身体に勢い良く浴びせる。

 何度か同じことを繰り返して泡が全て流れると、咲耶姫は満足げに頷き、立ち上がって温泉に身を浸した。当然、彼女が立ち上がった際は目を閉じるのも忘れない。

 咲耶姫の裸身の大部分が湯の中に隠れたおかげで、冷良としてはようやくひと心地つけたといったところ。まだ鎖骨や脇やうなじや胸の一部は見えてしまうが、先程よりはずっとましだ。後ろに控えていれば、見えてはいけない箇所が見えてしまうことも無い。


「どうぞ、ご所望のお酒です」

「うむ。む、冷たい……?」

「ああ、今の時期だと冷たい方がいいかなと思って、妖力で冷やしました」

「おお……でかした!」


 声を弾ませた咲耶姫は、徳利の酒をお猪口に注いでまずは一献。


「美味い! 元より湯浴み中の酒は美味かったが、冷えているだけで一際違うな」


 咲耶姫は上機嫌になりながら冷酒に舌鼓を打ち、必然的に会話も途切れる。冷良は巫女となってからずっと忙しかったので、何もせず控えていると少しだけ居心地の悪さを感じてしまう。

 そんな冷良を気遣ったという訳ではないだろうが、不意に咲耶姫がお猪口の水面を揺らしながら口を開いた。


「梢には色々と驚いたであろう?」

「はい、凄く」


 特に見た目の若々しさは、年頃の娘がいるという事実を鑑みると俄かには信じ難い。


「あ奴は外見が何年も変わぬ故、会うとどうしても昔を思い出してしまう」

「人気者だったんですよね」

「大変そうではあったがな、疲れていたり気分が晴れない時も構わず人が寄って来て困ると。妾と一緒の時は基本的に二人きり故、よく愚痴を聞いたものよ」

「め、女神様を愚痴の捌け口にするって……」


 知れば知る程とんでもない御仁である。


「まあ、あ奴とてちゃんと相手は選んでいるのだろうがな。もし妾が気難しい女神であったなら、粛々と巫女頭の役割を果たしていたであろう。つまりは要領が良いのだ。その辺、娘の幹奈は不器用であるなぁ。母娘でこうも違うとは」


 整った容姿や優秀な能力という点では幹奈も負けてはいない。が、自分にも他人にも厳しい姿勢故か、遠巻きに尊敬はされていても積極的に親しくしようとする巫女はいない。

 まるで幹奈を貶しているかのような物言いだが、声色には不思議と聞く側の心を安らかにさせる慈愛のような柔らかさがあった。

 咲耶姫はお猪口を呷り、空を見上げる。


「……人の月は移ろえど、空の月はいつも変わらぬなぁ」


 人の月とは、母娘揃って巫女頭を務める梢と幹奈のことか。

 梢が巫女頭だった時代、咲耶姫が見上げる空はどんなものだっただろうか?

 きっと、当時も今も変わらない――神の肉体と同じく。

 変わりゆく人と、変わらない神。在りし日に思いを馳せる咲耶姫の胸中はいかほどのものか、定命の身では想像することすらおこがましい。

 ただ、口を閉ざしてしまった咲耶姫の背中が、どうしても寂しそうに見えてしまって。


「……他にもっと面白い話は無いんですか?」


 言った直後、冷良は後先考えない自分の口を呪った。いくら咲耶姫が気さくな女神とはいえ、こちらから催促するのはあまりに失礼ではないか。

 だが、冷良の慌てる様を肩越しに振り返って確認した咲耶姫は気分を害した様子も無く。


「女神を舐めるでないぞ。伊達に長き時を重ねてはおらぬ、話などそなたの一生分かけても語り切れぬ程にあるわ。とはいえ、ひたすら言の葉を紡ぐだけというのも無体な話ではないか?」


 悪戯小僧のような笑みを向けながら、空になった徳利をひらひらと振る。

 当然、女神が求めることに否やなど無く。


「はい、只今!」

「冷やすのも忘れずになー!」


 失敗してしまった後ろめたさから、冷良がお代わりの確保と冷却を済ませて戻るのは非常に速かった。

 目を輝かせてお代わりを受け取った咲耶姫は、上機嫌になりながら昔話をしていく。

 内容は様々だ。幹奈のこと、梢のこと、また別の時代のこと、花の都が出来る前のこと。他の神々の踏み込んだあれやこれやについては、一介の半妖が聞いてもいいものか熱気とは違う理由の汗が流れたりもしたが、基本的には純粋に興味を惹かれる。

 咲耶姫は特に流れというものを意識している訳ではなく、ただ思いついたものから順に語っているだけのようで、時系列は一貫しない。


「いつの時代も、人や神を一番動かすのはやはり男女の色恋よな。その辺は梢も凄かったぞ。元より巫女というだけで一目置かれるものだが、梢の場合は巫女頭という実績があり、美しさや気立ての良さは奉神殿の外にも伝わっていた故な。求婚する男は数知れず、週に一度の休日も見合いばかりだったようだ」

「恵まれすぎるのも大変そうですね」

「全くだ。一日で四人と見合いしたと聞いた時は、流石の妾も開いた口が塞がらなかった」

「うわー……」


 強行軍にも程がある。むしろ、どうやって一日の間に四人と見合いをしたのか気になるくらいだ。


「その日は結局、四人いた見合い相手の顔や人柄も殆ど忘れてしまったらしい」

「それは……流石に求婚した男性たちの方に同情しちゃいますね……」

「ふふ、冷良は優しいな。今の話で男側を気に掛けてやれる女子はそういるまい。そなたは将来、良い嫁になるぞ」

「嫁……」


 つい男に嫁として嫁ぐ自分の姿を想像してしまう。吐きそうになった。


「い、今は特にそういう相手もいませんので……」


 今どころか今後も絶対に有り得ない。冷良が貰うのは婿ではなく嫁である。そうなってくれる相手が現れるかはともかくとして。


「ふふ……まあ何にせよ、熾烈な争いだったのだ。その末に見事許嫁の座を勝ち取ったのが、当時月代家の当主となったばかりの空牙という男だった」

「幹奈様のお父様ですね」

「然り。多少は両家の思惑も混ざっていたようだが、やはり当人たちが恋に落ちたのが一番の要因だ」

「おー、それは良いですね」


 女子のように恋愛話が好物という訳ではないが、冷良とて好き合った男女が結ばれるのはめでたいことだと思う。


「それも、えらい熱烈なやつでな。空牙と出会って以降、梢は妾と二人きりの時、人が変わったように惚気を繰り返すようになったのだ……正直、口から砂糖を吐くかと思った」


 最後の台詞だけ不気味なくらい平坦な声色だった。当時余程うんざりしていたらしい。 

 だが、咲耶姫が疲れた気配を見せたのもほんの一瞬で。


「だがそなたの言う通り、好き合った者たちが結ばれるのは良いことなのだろうな。二人の結婚式を含め、何度か様子を覗きに行ったが……後に生まれた幹奈共々、とても幸せそうで、輝いて見えた」


 うっとりとした響きが、胸に染み渡る余韻となり、淡い月光に照らされた虚空へと溶け込んでいく。

 冷良はそこに、憧憬に近い感情を垣間見た気がした。天井の神々はあらゆる面で人を凌駕し、羨む要素なんて無い筈なのに。


「しかし……だからこそなのであろうな、あの時の二人があまりに痛々しかったのは」

「……何かあったんですか?」

「…………」


 ただならぬ気配に冷良が思わず問いかけると、咲耶姫はしばしの沈黙を挟み、手で顔を覆って溜息を吐いた。


「……妾としたことが、興が乗り過ぎた」


 そして肩越しに振り返って視線を合わせてきたので、冷良は慌てて両手を振った。


「し、知っちゃ駄目なら僕は何も聞きません!」

「しかし、顔には知りたいと書いているな」


 女神の目を誤魔化すことは出来ない。冷良はばつが悪くなって目を逸らし――


「されど、単なる好奇心からではないな。幹奈と梢を心配してのことか。ふふ、そなたは本当に優しい」


 ……そこまで見透かされると、ばつが悪いを通り越して気恥ずかしい。

 だが、咲耶姫の表情が真剣になり、冷良も雑念を捨てて姿勢を正す。


「中途半端に興味を持たれても面倒故、事実を話す。知っている者はそれなりにいるが、愉快な話ではない、面白半分に広めるような真似はするでないぞ」

「は、はい、勿論」


 冷良が大きく二度頷くと、咲耶姫はおもむろに告げた。


「――梢の夫であり幹奈の父である空牙はな、妖に殺されたのだ」

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