日々は試練に満ちている
さて、女装して巫女として生活するという異常事態の中にあって、剣術の師匠という得難い存在を得たことは望外の喜びだ。
しかし忘れてはならない。主目的たる巫女としての生活に関する問題は、一切解決していないことを。
「れ、冷良さん? その禍々しい作品は一体……」
「熱血を題目にして生けてみました」
生け花をすれば地獄の毒草もかくやという作品が仕上がり。
「ああもう冷良さん! そんなやかましい音を鳴らされては雰囲気が台無しですわ!」
「ご、ごめんなさい紅さん。ちなみに一応出来たんですけど、お味の方は?」
「…………不味い!」
茶道でお茶を点てれば、けたたましい音で静寂をぶち破り、茶を飲んだ紅には盛大に顔を顰められ。
「冷良さん! 何なのですかその間の抜けた音は! 聞いているこちらの気が抜けてしまいますわ! というかどうやって出してますのその音!?」
「い、いや、僕は普通に弦を弾いてるつもりなんですけど……」
琴を弾いてみれば、脱力せずにはいられない音で紅たちの集中を乱し。
「『夕方は・お腹が減って・元気出ず』」
「あ――」
「今の凄いお腹の音、紅さんですか? やっぱり夕方ってお腹減りますよねー」
「れーいーらーさーんんんんんんんんんんんん!」
短歌を詠んでみれば、五・七・五に収めただけで情緒の欠片も無い駄作が出来上がって紅を怒らせ。
――といった調子で、何一つ上手くいっていない。
冷良は今、初日以来四日ぶりに咲耶姫の元を訪れていたが、心身の疲れから足元はふらついており――
「うわっ!?」
咲耶姫の隣に座ろうとしたところで、足をもつれさせて転んでしまった。
だが、想像していた衝撃はいつまで経ってもやって来ない。
「ふむ、今日は甘えたい気分なのか?」
気が付けば、拳一つ分も無い距離に咲耶姫の顔があった。
「うわっ!? ご、ごめ――」
「よい、皆まで言うな。妾はこのようなことでいちいち目くじらなど立てるほどつまらぬ女ではない。存分に甘えるがよいぞ」
咲耶姫は機嫌を損ねるどころか、むしろ嬉しそうに冷良の非礼を許し、優しく頭を撫でてくる。寛大というよりは、甘やかすのが好きなのかもしれない。
どちらにせよ、許されるからといって素直に甘えている訳にもいかない。気さくだから忘れそうになるが、彼女は尊き女神なのだから。
何より、このままだとその慈愛に満ち溢れた手つきが癖に――ではなく、女性に頭を撫でられるなど男として格好悪すぎる。真実を知る幹奈の視線が痛い。
「だ、大丈夫です……!」
やや強引に咲耶姫の胸元から脱出すると、あからさまに残念そうな顔をされた。
「むう、女同士なのだから、そこまで照れることはあるまいに……」
「あ、あはは……」
異性同士だから不味いんです、とは勿論言えない。
「それにしても、随分と疲れているようであるな。やはり、巫女としての生活には難儀しているか」
「えーと……やっぱり分かります?」
「紅の叫び声がここまで聞こえてくる故な」
「う……」
苦笑する咲耶姫に、紅を怒らせる原因を作っていた身としては恐縮するばかりである。
「しかし、紅は嫌う相手といえども無暗に怒鳴りつけるような者ではない筈なのだが……」
「……私も時々様子を伺いに行きましたが……毎回惨憺たる有様でした。集中を乱された紅が怒るのも無理はありません」
「あやつは巫女の中でも特に熱心であるからなあ」
自身も思うところのあるらしい幹奈が遠い目で報告すると、咲耶姫は得心したように頷き、肩身を狭くしている冷良と目を合わせる。
「まあ、そう気に病むでない。出発点は地の底でも、慣れればある程度は身に付く。ひとまずは明日を乗り切れば次は安息日でゆっくり休める。もうひと踏ん張りであるぞ」
安息日とは、多くの人々が働かずに身体を休める日だ。安息日こそ稼ぎ時と商いを続ける者もいるが、そういった者たちも大抵は別の日に休みを取っている。
当然、奉神殿の巫女にも安息日は適用される。ただし、全員いなくなっては咲耶姫の世話に支障をきたすので、週毎に数人の休日がずれるよう調整されているが。新人の冷良は普通に明後日の安息日が休日だ。
「つまりもう一日あるって訳ですね……」
普段であればあと一日ならと強がる冷良だが、いかんせん慣れないことが続き過ぎた。それに、絶対に性別が露見してはいけないという緊張も常に付きまとっている。心身共に疲れ果て、気概よりも先に弱気が出て来てしまうのも無理のない話だろう。
さしもの咲耶姫も、冷良の疲弊ぶりに憂いを浮かべる。
「うーむ、重症であるな……他の修練ならともかく、明日は武芸で怪我の心配が――」
「え……っ」
「そなた……これまでで一番の笑顔であるな」
「う……ごめんなさい」
咲耶姫の心配を無駄にしてしまい、冷良はばつが悪そうに謝った。
「まあ、元気になったのなら良い。それにしてもそなた、巫女の修練はからっきしで武芸の話になると目を輝かせるとは、まるで男の子のようであるなあ」
咲耶姫が何の気なしに口にした台詞に、油断していた冷良は冗談抜きで飛び上がらんばかりに動揺した。幹奈もどうにか仏頂面を保ちはしているものの、よく見れば口の端が引き攣っている。
「ひ、姫様、冷良は良家の家に生まれて淑女としての教育を受けた訳ではありません。そういった女子の中には、男勝りな性格に育つ者もいるのです」
「おお、妾も知っているぞ、お転婆とかいうやつであるな。ほうほう、冷良はお転婆か」
お転婆はあくまで男らしい『女子』に送られる表現であり、嬉しいかと問われれば否であるが、今は納得してくれるならとにかく有難い。
と、秘密を共有している二人が焦っていると、不意に襖の向こうから声がかけられる。
「姫様、仰せつかっていた通りこの梢、参上致しました」
「え?」
「うむ、入るがよい」
幹奈が何やら驚きの声を上げていたが、咲耶姫は構わず許可をだす。
「失礼します」
襖を引いて姿を現したのは、優しげな貴婦人といった感じの女性だった。年齢は幹奈より少し上くらいで、落ち着きや気品、そして美しさが絶妙な案配で同居しており、まさに今が女盛りと言わんばかり。
だからこそ、直後に幹奈が発した叫びは衝撃的だった。
「お母さま!?」
「お母さま!? 幹奈様の!? え、お姉さんじゃなくて!?」
「あらあらまあまあ、上司の親だからって世辞を言う必要は無いのよ? もう大きな娘もいる、いい歳のおばさんですからね」
「…………」
見えない。いい歳のおばさんになんて全く見えない。
女神でも妖でもない、紛れもなく人間である筈の女性が、十代の娘と姉妹程度にしか歳が離れていないように見える事実。
冷良はこの日、女性の神秘というものに触れたような心地がした……隣に神秘そのものと言うべき存在がいるのはともかく。
さて、見た目と実年齢の落差に唖然とした冷良であるが、驚きという意味では同じ立場の者がもう一人。
「お、お母さまが何故ここに?」
「明日の武芸の教師役よ。いつもの方が急用で来れなくなったから、私に代役の話が回って来たの。こういうことは早めに知らせておくべきだと思って」
「それならば先触れを出すだけで済む話では……?」
「先触れとして出す分の人手が無駄ではないの」
ちなみに、貴人が訪れる場所へ先触れを出すのは、世間ではごく当たり前のことである。貴人と一般人では人手に対する価値が違う。
どうやらこの梢という女性は、世間が想像する貴人という枠には収まらない人柄であるらしい。どこか含みのある笑みからして、戸惑う娘の様子を見て楽しんでいる節もある。小雪が時々冷良に向ける態度とそっくりだ。
咲耶姫が得意げに冷良へ声を掛ける。
「驚いたであろう? あまりに姿が変わらぬ故、妾も時々こ奴が本当に人間か疑うことがある」
「何を仰います、姫様もお姿は全く変わっていないではありませんか」
「いや女神の妾と比べてどうする」
うんうん、と頷いて同意する冷良と幹奈。
ふんわりと笑みを浮かべ一体どこまで本気か分からない梢は、少女のように小首を傾げて「ちなみに」と話を続ける。
「気になっていたのですが、巫女頭でないのに姫様のお傍にいるその子は一体?」
「妾のお気に入りだ」
「さようでございますか」
(納得早っ!?)
普通なら色々と聞きたいことくらい出てきそうなものだ。幹奈と同じく、梢も神々がどういった存在であるかは重々承知しているようだ。
同じといえば――
「教師役で来たってことは、幹奈様のお母様も――」
「幹奈様のお母様って……呼びにくいし仰々しいわね。気軽に梢ちゃんとでも呼んでくれていいのよ?」
「「「…………」」」
誰も――咲耶姫でさえ、何も言わなかった。理由は名状し難いが、本当にちゃんづけで呼んでもしっくりきそうなのが凄い。
「……梢さんも巫女だったんですよね?」
さん付けが冷良に出来る最大限の譲歩だった。
「無難なところに落ち着いたわね、残念。ええ、もう二十五年くらい前になるけれど、私も巫女だったわ」
「付け加えるなら、梢も幹奈と同じで巫女頭を務めていたぞ。美しい、才能あり、気立ても良いの三拍子が揃って、巫女たちの憧れの的であった。妾は名や権能から花に例えられることが多いが、梢は花に並び立つ月の如しとよく褒めそやされていたな」
「あまり意地悪をなさらないでくださいませ、姫様。仕えるべき主に並び立つなど、不敬と評されてもおかしくないのですから。当時はそれなりに気を揉んでいたのですよ?」
「妾はあまり気にせぬのだがなぁ」
「私が気にするんです。向こうは好意で言ってくれているので、厳しく叱責するのも気が引けますし……」
当時のことを思い出しているのか、梢は頬に手を当てて悩ましげな溜息を吐く。人気者には人気者なりの苦労があるということらしい。
咲耶姫はやれやれと言いたげに溜息を吐いた。
「難儀な性分は昔から変わらぬなぁ……っと、折角母娘が久しぶりに顔を合わせたというのに、いつまでもこの場に留めておくのは無粋か。幹奈、今日のところはもう梢と共に下がって良いぞ」
「は、しかし、本日の姫様の湯浴みがまだでございますが……」
貴人の湯浴みは、一人で完結するものではない。専用の着物に着替えた付き人が同行し、あれこれと世話を焼くものだ。女神たる咲耶姫の場合、付き人の役目は基本的に巫女頭である幹奈が担っている。
だからこそ、咲耶姫の湯浴みが終わっていないのに、実質的に本日の業務終了を言い渡された幹奈は困惑しているのだ。
傍で話を聞いていた冷良も、他人事の気分で一応は疑問を抱いていたのだが……。
「心配はいらぬ、今日は冷良に世話を任せる故な」
「「え……」」
期せずして、秘密を抱える冷良と幹奈に最大級の試練が立ちはだかった。
互いに視線を交わし、一瞬で危機感を共有、即座に対応へ移る。
「いやいやいや、無理ですよ! こうして直に話すだけでも畏れ多いのに、湯浴みの世話なんて僕にはとても……っ」
「私の目から見ても、冷良には荷が重いかと! そもそも、姫様の湯浴みの世話とて巫女頭の大切な役目、それを自分の都合で他者に押し付けるなど、巫女頭としてあるまじき怠慢でございます!」
既に一度やらかしたとはいえ、男が女神の裸身を目にする罪は単なる性別詐称より数段重い。
そもそも、幹奈という補助がおらず一人となった冷良が、文字通り天上の華たる咲耶姫の裸身を前に、最後までぼろを出さず乗り切れるかどうか甚だ疑問である。
だからこそ必死に咲耶姫を説得しようとする冷良と幹奈だったが、いつの間にか立ち上がっていた梢が娘の手を取った。
「はいはい、役目に忠実なのは結構だけれど、姫様の恩情を無視するのは不敬に当たるんじゃないかしら?」
「うぐ……」
「そっちのあなたも、姫様の気質はもう分かっているでしょう? 緊張するなとは言わないけれど、怖がる必要は無いから、これも経験だと思って頑張りなさいな」
「う、いや、その……」
一切隙の無い正論に、冷良も幹奈もそれ以上不自然に食い下がることは出来ず。
「では姫様、本日はこれで失礼いたします」
「うむ」
娘を連れた梢は咲耶姫に一礼して、さっさと座敷を後にしてしまった。
呆然とする冷良の肩を、咲耶姫が軽く叩く。
「では、早速頼むぞ」
弾んだ声色が、冷良には死刑宣告のように思えてならなかった。
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