刃に寄せる想い

 人によって捉え方の異なる『この世ならざる場所』が、総じて『幽世(《かくりよ》』と呼ばれていることは知っていた。

 だからこそ、今自分が歩いているこの場所も、その幽世なんだろうとぼんやり思う。 

 天は雲とは違うのっぺりとした灰色が広がり、彼方にも建物はおろか山の影すら見えない。地には自分の進む道と、脇で生い茂る草木の向こうに果てしない霧が満ちているだけ。

 まるで、この狭い範囲だけが世界の全てであるかのよう。

 というより、実際に道を外れ草木をかき分けて霧の向こうへ進もうとしてみたが、何度試してみても同じ場所へ帰って来てしまう。

 疑問はある。けれど恐怖や不安は無かった。幼い故の探検心だけを胸にどこまでも能天気に、楽観的に、恐れ知らずに足を進め続ける。

 だからこそ、急に景色が様変わりしても、驚きこそすれ慌てはしなかった。

 砂利や池、石や灯篭などで構成された、庭園のような場所だ。よくある庭園と違うのは、本来緑を基本とする草木の類が、色とりどりの花で賄われていることか。

 その道の専門家であれば、侘び寂びの美意識や落ち着きに欠けた邪道な庭園と酷評するかもしれない。

 だが、そういった『人が作り上げた美意識』をまだ知らない子供からしてみれば、侘び寂びも落ち着きも無用の長物。味気ない灰色の天の下、鮮やかに咲き乱れる花々が美しいということだけが、ただ一つの事実だ。

 そのまましばらくの間美しい景色に心を奪われていたが、ふと庭園の中にぽつりと構えられた建物が目に入った。

 好奇心の赴くまま近付いてみれば、一人だけ入るのが精一杯な大きさながら、随分と豪奢な造りをしている社だった。

 そんな建物の中に、誰かが座っている。

 得体は知れないが、ようやく会えた他人だ。色々と聞きたいこともあるので、警戒など欠片も抱かず無造作に話しかけて――自分の声が聞こえないことに気付く。

 しかも、こちらに顔を向けてきた相手の姿も、まるで影に覆われているかのように認識出来ない。こちらも口は動いているのに声は聞こえない。

 それでも構わず、『自分』と『相手』は幾つもの言葉を交わしていく。

 嗚呼、これは夢だ。何の因果か忘却の果てから掬われた、淡く儚い幻。

 朧気になった世界の中で、意識だけが別の場所に取り残されたような感覚。

 ただ、胸を焦がすような衝動と、たった一つだけ聞き取れた自分の言葉だけが、確かな実感として心に刻まれる。

 ――何があっても、絶対に僕が守ってあげる!


 






 日中は暑さを感じ始める初夏といえども、日の出直後の早朝ともなれば涼やかだ。まだ生活音の一つも無い静寂と澄んだ空気は、束の間の特別感を味あわせてくれる。

 そんな時間帯の奉神殿の庭にて、静寂を破る風切り音……というよりは風に押し負けているかのような締まりの無い音が一つ。


「ふんっ――とっ、とと……っ」


 寝巻から動きやすい道着に着替えた冷良は、一人で素振りに勤しんでいた。

 ただし、その手に握るのは一般的な木刀ではなく、鞘に納められた大太刀だ。刃渡りだけで冷良の身の丈ほどもあり、明らかに釣り合っていない。

 実際、冷良は振りかぶるだけで精一杯であり、重さに負けて後ろによろけている。どうにか前に振り下ろしてみても、それはただ重力に任せて落としているだけで、振り下ろしたとは言えない。


「ふう……」


 何度か同じような動作を繰り返し、冷良は一息ついて不格好な構えを解く。

 そこへ、一人分の足音が近付いて来た。


「早朝から妙な音が聞こえたかと思えば、一体何をやっているのですか?」

「か、幹奈様……」


 相手が幹奈だと分かった瞬間、冷良の脳裏に昨夜の風呂での記憶が蘇る。

 幹奈が風呂の中で寝てしまった後、そのまま放置しておく訳にもいかず、冷良は彼女の身体を極力見ないようにしながら脱衣所まで運び出し、上から寝巻を被せて待機していた。

 幸い、幹奈はすぐに意識を取り戻した。が、その時既に酔いは覚めており、しかも酔っていた時の記憶は薄っすらと残っていたようで、消え入るような声で迷惑を掛けたことを謝罪した後、驚くほどの早さで寝巻を身に着けて逃げ去ってしまったのだった。

 振り返った先にいた幹奈はいつもの凛とした生真面目な表情だったが、よく見ると口元の辺りが微妙に引き攣っている辺り、向こうもまだ昨日のことを引きずっているようだ。

 お互い、昨日のあれやこれは無かったことにしたいのが本音だろう。

 けれど悲しいかな、記憶とは自分でさえ好きに弄ることは叶わない難儀なもの。赤らんだ幹奈の顔を見ていると、否応なしに意識せざるを得ない。断じて直接は一度も見ていないとはいえ、未だ生々しく残る肌の色や触感は、異性の裸に馴染みの無い冷良の鼓動を早くするには十分過ぎた。

 そんな内心も、例によって赤く染まるのが分かりやすい冷良の肌を観察していれば、察してしまうのは容易い。


「……首を落としてしまえば記憶は消せるでしょうか?」

「落ち着いてください! 記憶よりもっと大事なものが消えちゃいますから!」


 幹奈の据わった目は、少なくとも冷良の本能が危機を訴える程度には本気だった。

 まるで暴れる馬でも宥めているような気になりながら、必死に幹奈を落ち着かせる。

 彼女が威嚇するような吐息と共に刀から手を離してくれたのは、裕に三十は数えた後だ。


「……一刻も早く忘れる努力をするように」


 そこがぎりぎりで許せる落としどころなのだろう。

 正直なところを言えば『絶対に無理』なのだが、互いの心の平穏(と自分の命)の為にも頷いておくことにした。

 幹奈はさっさと話題を次に移そうとしてか、間髪入れずに続ける。


「それで、先程の奇妙な踊りは一体何をしていたのですか?」

「お、踊り!? いやいや、そんな訳無いじゃないですか! 鍛錬ですよ、鍛錬!」


 幹奈に嘲るような意図は無さそうだったが、自分なりに頑張っていた鍛錬を踊りと称されては流石の冷良も語気を荒げてしまう。


「鍛錬、ですか……」

「そうです。男たる者、常に己を鍛え、強くあるべしってやつですよ」

「あなたが男たる者であっては困るのですが」


 幹奈の目が剣呑な気配と共に細められる。


「そもそも、私は昨日言いましたね?  もう少し危機感を持つようにと。普段の言動からも性別を悟られる可能性は――」

「無いかもしれないって言ってましたね」

「…………」


 ぐうの音も出ないとはまさにこのことか。


「……まあ、巫女としての修練にも護身用の武芸はありますから、少し熱心だと思われる程度でしょうね」

(あ、誤魔化した)


 気付いてはいても口には出さない。正しいことばかりが自分を守る訳でないことを、冷良は身を以て知っている。主に小雪関係で。


「それはそれとして……」


 と、幹奈は冷良が持つ大太刀を一瞥する。


「何故そのような大太刀で鍛錬を? 明らかにあなたの体格と合っていませんが」

「この大太刀を扱えるようになるのが僕の目標だからです」

「目標?」

「実はですね――」


 特に隠していることでもないので、冷良は自分の身の上を明かした。幼い頃に小雪の元へ預けられたこと、それまでは良い男になれと言い聞かせられながら育ったこと、自分にとっての良い男とは恰好良い男であり、その理想が父であることなど。


「この大太刀、父が僕に譲ってくれた物なんです。それってつまり、この大太刀に見合う男になれってことだと思うんですよ」

「だからその大太刀で素振りでもしていれば、いずれ相応しい男になれる、と」

「後は腕立てとか腹筋とか、気の良い侍さんに稽古をつけてもらったり、花の都で落ち着いてからは近所の道場にも通ってましたね。今となっては難しいですけど」

「…………」


 幹奈は眉間に皺を寄せ、冷良の身体つきや大太刀を観察していたと思ったら、腰に差していた刀を鞘ごと抜いて渡してきた。


「これで居合抜きをしてみなさい」

「は、はあ……」


 いまいち意図は分からないが、ひとまず大太刀を木の幹に立て掛けて幹奈の刀を受け取り、言う通りにしてみる。

 腰を落とし、鞘に納められた刀の柄を握る。

 完全な我流ではなくちゃんとした専門家の指導も受けたことがあり、それを身体が覚えるまで反復していたので、構えだけなら堂に入ったものだ。

 意識を研ぎ澄まし、深く息を吐いて脱力し、そこから一気に――


「ふっ――わっとっと……」


 ――刀を振り抜いたまでは良かったが、太刀筋は想像に比べると遥かに遅く、しかも止まるべき位置で止められず、構えが崩れてそのまま一回転してしまう。

 冷良からすれば赤面ものの醜態だが、幹奈は笑うことも嘲ることもせず、ただ冷静に観察した上での見解を述べる。


「……完全に刀に振り回されていますね」

「はい……」


 自分でも分かっている冷良は、気落ちしながら鞘に納めた刀を返す。

 と、幹奈も先程の冷良と同じように居合抜きの構えを取った。


「ふっ――」


 一瞬だった。

 一つ数える間も無い時間で、虚空に幾数もの剣閃が走り、流れるように刀が鞘へと吸い込まれる。残身の姿勢は刀を抜く前と全く変わらず、瞬きでもしていようものなら幹奈が刀を抜いたことにすら気付かなかっただろう。

 小雪と旅をしていた間に様々な侍と出会った冷良だが、ここまで凄まじい剣技を見たのは初めてだ。


「す、凄いです幹奈様! あの一瞬で五回も斬るなんて!」


 幹奈がぴくりと眉を動かし、居合抜きの構えを解く。


「……数まで正確に数えましたか。少なくとも、目は良いようですね。しかし――」


 軽い驚きを示しながら、幹奈は今しがた振るった刀の柄に手を置いた。


「今見せたように私の戦い方は速さを重視しているので、この刀は重ねを薄くして軽めに作らせてあります。これを振るってあの有様となれば、あなたはあまりに腕の力が足りていません」


 凄い技を見た冷良の興奮が、瞬く間に冷え込んでいく。

 幹奈の言いたいことが、何となく分かってしまったから。


「冷良、あなたの努力を疑うつもりはありません。内容はともかくとして、ひたむきに取り組んだであろうことは想像出来ます。ですが、その上でここまで腕力が身についていないとなると、体質の方に問題があるとしか思えません」

「……つまり?」


 冷良が結論を促すと、幹奈は一瞬だけ躊躇うように視線を落とす。

 だが、曖昧に言葉を濁すことを良しとはしなかった。


「あなたにその大太刀を扱う才能はありません」

「…………」


 刀に熟達した者からの、願いを根本から否定する宣告。

 自分でも意外なほどに衝撃が小さいのは、心のどこかで既に悟っていたからなのかもしれない。

 けれどそれは、心が揺れないことと同義ではない。

 様々な感情が胸の内で荒れ狂い、我知らず指が痛くなるほど太刀を強く握り、歯をきつく食いしばる。


「……ありがとうございます、少しすっきりしました」


 ちゃんと出来ているかは分からないが、冷良は笑顔を浮かべる努力をした。迷いながらも事実を教えてくれた幹奈に感謝の念を抱いたのは、紛れもない事実であるから。

 ただし、それで行動や考えを変えるかは、また別の問題。

 冷良は再び大太刀での不格好な素振りを始める。


「……止めないのですね」

「僕はそこまで頭が良くないし、今はこれくらいしか出来ることがありませんから。これからどうしていくかはゆっくり考えます」


 話は終わりと判断し、冷良はそれ以上言葉を重ねようとはしない。

 だが、幹奈はいつまでも黙ったままその場から動こうとせず、そろそろ心配になって声を掛けようかと思った辺りでようやく口を開いた。


「何故……そこまで頑張るのです?」

「はい?」

「あなたの目標は、あくまで親から押し付けられただけのもの。到達するのがほぼ不可能と分かってなお頑張る理由など、あなたには無いのでは?」

「うーん……」


 冷良は再び素振りを中断し、困り顔で頬を掻いた。

 不躾とも言える幹奈の問いに気分を害した訳ではない。単純に、自分の考えを言葉でどう表現するのが正解か悩んでいるだけだ。


「えーとですね……僕は別に、押し付けられたなんて思ってないんですよ」

「けれど、良い男とやらになれと言い聞かされてきたのでしょう?」

「まあ確かにそうなんですけど、別に強制されてる感じじゃありまんでしたし。それに何より、僕自身がいつか良い男になりたいって思ったんです」


 決して、堪えていない訳ではない。今までの時間を思い返し、ともすれば双眸から涙が零れそうになる。

 けれど、ここで今までの努力が間違いだったと、こんなことをしても無駄だと、全てを放り投げて腐ることは何かが違う――それはきっと、『良い男』ではない。


「この太刀を扱う才能が無かったのは確かに悲しいですよ。けど、だからって全部終わりにするのは嫌なんです」


 人はそれを、現実逃避と呼ぶのかもしれないけれど。

 自分が胸を張っていられる限りは、決して間違ったことではないと思うのだ。


「そう……ですか……」


 幹奈は気の無い返事を投げかけ、しばらく眩しそうに目を細めていたと思ったら踵を返す。


「無粋なことを聞きました。ごめんなさい」

「いえいえ、幹奈様に悪気が無いのは分かってますから」


 話はここで終わり、幹奈はこの場を後にしようとして、途中で立ち止まる。


「……小太刀ならどうでしょう?」

「小太刀……ですか?」


 冷良が聞き返すと、幹奈は小さく頷いて続けた。


「刃渡りの短い小太刀であれば重さは勿論、重心も柄に近くなるので、非力な者でも十分に振れます。当然、簡単に扱えると思ってはいけません。間合いが短くなる分、必要とされる技量は大きくなりますから」

「はあ……」


 冷良は生返事しか返すことが出来ない。

 幹奈の言葉の意味は分かる。だが、彼女が何の意図でそれを語っているのかがさっぱり分からない。


「冷良は私の家について知っていますか?」

「確か、大きな退魔士の一派だとか……」


 退魔士――妖の脅威に怯えることしか出来ない民草を守る為、妖を狩ることを生業としていた者たちだ。妖が身近になった現代では『退治する』機会こそ少なくなっているものの、妖の力が民草の手に負えないのは変わらない。妖の専門家たる彼らは、以前とは形を変えながら今日も都の治安維持に貢献している。


「知っての通り私の得物はこの打刀ですが、実家の方針で他の武器もある程度なら修めています。小太刀もその一つ。極めた者には及ぶべくもないですが、多少手解きする分には問題無いでしょう」

「幹奈様、それって……」


 ようやく幹奈の意図を理解した冷良は、目を見開いて問いかける。

 答えは返ってこない。いつもの仏頂面からは何の感情も伺えず、彼女が心の中で何を思っているのかは結局のところ分からない。

 とはいえ、重視するべきは自分の気持ち。

 そこに考えが至ると、才能が無いと宣告されたとはいえ、今まで大切にしてきた太刀から別の武器へ鞍替えすることに、反射的な拒否感が湧き上がってくるのだが――


「太刀にせよ小太刀にせよ、剣術の真髄は同じです。最終的な目標が大太刀を扱うことにあるとしても、小太刀で実力を身に着けることは無駄にはなりません。いえ、文字通り身の丈に合わない得物で妙な踊りをするより、余程理に適っています」

「だから踊りじゃないですってば」


 口を尖らせて苦言を呈しながらも、冷良の心は決まっていた。

 特に義理など無い幹奈がここまで言ってくれているのだ、これ以上うだうだ悩んでいては男が廃るというものだろう。


「幹奈様、どうか僕に小太刀を教えてください」

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