肌が綺麗なのも血筋

 さて、嫌だ嫌だと思っているほど時間の経過とは早く感じるもの。夜中になり同僚たちが寝静まるまではあっという間だった。

 それでもしばらくの間は念の為というていで自室にてぐずぐずしていたが、予想していたらしい幹奈の襲来にてあえなく捕獲。無理やり風呂場に繋がる脱衣所の前まで連れて来られてしまった。


「私が入って百数えた後にあなたも入るように」


 冷良に否やはなく、このまま逃走する誘惑に軽く惹かれながらも百を数えて後に続く。脱衣所に幹奈の姿はなく、籠の一つに彼女が着ていた寝巻が丁寧に畳まれて入れられていた。

 何故かやましいことをしている気分になり、逃げるように目を逸らして一番離れた位置の籠に寝巻を脱ぎ入れていく。

 一糸纏わぬ姿になった冷良は、持参していた大きめの手拭いを見つめながら思案し、結局腰に巻くことにした。

 ……正面に垂らして上半身も隠す選択肢が一瞬でも浮かんだことが、心の底から悲しかった。

 と、くだらないことに嘆いていられたのも束の間、露天風呂故に吹き付ける夜風と肌を撫でる熱気、そしてその向こうに浮かび上がる先客の背中に、冷良の雑念はあっという間に吹き飛んでしまった。


「……来ましたか、なら早く入りなさい。今の時期でも夜風は身体に響きます、巫女になって早々に風邪でも引いては皆が呆れますよ」


 若干裏返った声を投げかけてきた幹奈は胸まで湯に浸かり、いつも背中で軽く纏めている長い髪を頭の上で結っていた。おかげで普段隠れているうなじが曝け出されており、丸みを帯びた肩や脇がこの上なく艶めかしい。

 この時点で冷良の意識は一杯一杯だった。

 千々に乱れる思考をどうにか搔き集めて前に進み、悩んだ結果幹奈の隣に一人分空けた位置で湯に浸かることに決めた。密着するのは論外だが、湯舟が円形なので離れすぎても彼女の姿が視界に入ってしまう。

そうして四苦八苦しながら、掛け湯をした冷良が足先を湯に浸そうとした時だ。


「そうそう、手拭いを身に着けているならちゃんと取るのですよ。手拭いを湯に入れるのは行儀が悪いですからね」


 よく見れば、幹奈が持ち込んだであろう手拭いはちゃんと縁に置かれている。

 注意の内容自体は正論だ。湯屋における手拭いの規則は、風呂好きな花の都の住民であれば誰もが知っているだろう。

 けれど正直なところ、今ここでと思わずにはいられない。


「えっと……今は僕らしかいませんし、ちょっとぐらいよくないですか? ほら、隠す物くらいないと色々と不味いですし」

「私は巫女頭である以上、心身ともに巫女たちの規範であらねばなりません。例え誰も見ていなくとも、堕落を良しとする訳にはいかないのです」


 人知れず異性と混浴することは、巫女の規範として大丈夫なんですか? という素朴な疑問を口にする勇気は、冷良には無かった。

 冷良は指示通り手拭いを取り、今度こそ湯舟の中に腰掛ける。


「絶対にこちらを見てはなりませんからね」

「分かってますよ」

「もしこちらを見れば――切り飛ばしますので」

「…………」


 何を、とは恐ろしくて聞けなかった。

 とはいえ、元より幹奈の裸を盗み見るつもりなどない。

 問題は、隣に裸の異性がいるという事実そのもの。必要なことだとお互いに理解してはいるものの、あまりに気まずい。

 冷良は静寂に耐え切れず、とにかく話題を捻り出す。


「こ、ここって地上から大分離れてるのに、水源はちゃんとあるんですね」

「……実のところこの土地は、姫様の父君である大山津見(おおやまつみ)様が大切な娘を俗世に置いてはおけぬと、自らの権能で生み出した山です」

「や、山? この塔みたいな土地が?」

「斜面が限りなく垂直に近い山、ということです。神の権能によって生み出された山であるなら、都合よく水源を配置することも可能でしょう」

「ほえー……」


 親馬鹿も神となると規模が桁違いだ。驚くやら呆れるやら微妙なところである。


「全く知りませんでした。詳しいんですね」

「姫様より教えていただいたことです。姫様ご自身は、過保護な父君に呆れているご様子でしたよ」

「へー」


 他愛ない雑談の中でそういった話題が出てきたのかもしれない。普段の二人の様子を見ていると、その様子が簡単に想像出来る。


「何か、幹奈様と咲耶様って仲良いんですね。神様と巫女っていうより、友達みたいです」

「…………気の所為でしょう。私が姫様の友など、あまりに畏れ多いことです」


 予想と殆ど同じ回答である。やや長めに感じた間と平坦すぎる気のする声色が多少引っ掛かったくらいか。

 それも、幹奈が「とはいえ」と話を続ければあっという間に霧散する程度のもの。


「有難くも目をかけて頂いていることは否定しません。そもそも巫女頭の地位とて、姫様に認められる必要があるものですからね」

「へー」

「……他人事のように言っていますが、あなたもですからね? でなければこんな厄介な事態にはなっていませんよ」

「そうでした」


 無理を通して冷良を巫女にしたのだ、ある程度の執着を寄せられているのは確かだろう。

 ただ、その理由に関しては今もさっぱりな訳だが。


「それにしても、男で巫女なんて無茶過ぎると思ってましたけど、死ぬ気でやれば案外出来るもんですねー」

「――死ぬ気でやれば? 案外出来る?」


 不意に、冷良の背筋を悪寒が襲った。熱い湯に浸かっている筈なのに、身体から熱が失われていくように錯覚してしまう。

 つい最近も似たような体験をした気がして、すぐに思い出す。小雪の逆鱗に触れて、無理やり女装させられた時だ。


「箒を振り回し、やかましい足音を立てて走り、大口を開けて大量の昼餉をかき込み、大きく頭を掻き、暑くなったからと大きく胸元を開き……忙しい合間を縫って付き合った特訓は無駄だったのかと、あるいは真面目に女のふりをする気など無いと思わせる失態の数々は……どうやら、全て私の勘違いだったようですね? ふ、ふふ……」


 溜まり溜まった苛立ちを吐き出すようにまくし立てておきながら、最後だけは不気味なほど穏やかだ。

 実際に確認しなくても分かる、今隣を向けば、そこには目の笑っていない笑顔が浮かんでいることだろう。


「ごめんなさい、注意が足りてませんでした」


 こういう時は下手に言い訳や口答えをしないに限る。

 頭を下げる為に向き合う訳にもいかないので、ただひたすら恐縮しながら謝る。

 しばらく続く静寂が心臓に悪いが、やがて幹奈は疲れの滲む溜息を吐いた。


「もう少し危機感を持つように。決定的な場面を見られるだけでなく、普段の言動からも悟られる可能性は……」


 台詞が途中で尻すぼみになり、幹奈から向けられる視線を感じたと思えば。


「無いかもしれません」

「そこは最後まで言い切ってくださいよ!?」

「いえ、こうして改めて見ると、隣にあなたがいることに微塵も違和感を覚えないもので……本当に男……ですよね?」

「男ですよ!? ちゃんと確認したじゃないですか! 何なら、この場でもう一回確認してみますか!? 視線をちょっと下げて貰えば――」

「それ以上言えば――潰しますよ」

「今回ばかりは僕怒ってもいいと思うんですけど!?」


 流石に理不尽を感じずにはいられない冷良である。


「さて、冗談はさておき」

「欠片も冗談に聞こえなかったんですけど」


 そもそも幹奈が器用に冗談を言えるとは思えない。

 ――と、不意に冷良の肌にこそばゆい感覚が走る。


「うひゃっ!?」

「顔は勿論、身体は華奢で、肌は染み一つ無く滑らか……これで男だと思う方が難しいというものです」


 どうやら、幹奈が冷良の肌の触感を確かめているようだ。初めの不意打ちは勿論、彼女のしなやかな指が軽い力で肌を滑る度に、妙な声が漏れそうになってしまう。


「うっ……ふ……っ」

「実際、他の巫女たちから話を伺ってみましたが、庶民暮らしで気品が身についていないと思われているだけで、男だと疑われている様子は欠片もありませんでした」


 お互いにとって喜ばしい報告も、声を抑えるのに必死な今の冷良は気にしている余裕が無い。

 たかが声、されど声。もしここでかん高く女々しい悲鳴でも漏らそうものなら、男の自分を構成する何かが崩れ去ってしまいそうな予感がある。だからこそ必死にならざるを得ない。


「……というより、手入れ無しでこれなんて、本当に何なんなのですかあなたは。自己管理や化粧に苦心する世の女性に喧嘩でも売っているのですか」

「そう言われて――もぉっ!?」


 今の叫びは肌を弄ばれる感触に耐えかねたからではない。

 視界の端に、自分のものではない肌の色を発見してしまったのである。

 冷良の肌を触る為に際どい位置まで近寄って来た幹奈だが、絶妙に距離は保っている。冷良が首を動かさない限りは大丈夫だと判断しているようだ。

 彼女の失念はただ一つ、自分の身体の特定部位が前に大きく張り出しており、そこだけなら冷良が首を前に固定したままでもぎりぎり見えてしまうということだった。

 当然、これ幸いとばかりに幹奈の特定部位――もう言い切ってしまおう、胸を盗み見るような冷良ではない。

 とはいえ、あからさまに顔を逸らしたり距離を離したりすれば、もはや胸を見ましたと白状するようなもの。下手に動くことは出来ない。

 ならば冷良が視線を別方向に固定していればいいと、誰もが思うだろう。

 だが、それは不可能なのだ。

 意識的に視線を逸らしても、いつの間にか幹奈の胸を視界に入れてしまう。何度繰り返そうとも、自分を叱咤しようとも、それは変わらない。

 げに恐ろしきは、男の無意識に至るまで余さず絡め取る女性の胸の吸引力か。幹奈の理不尽な文句はまだ続いているものの、煩悩との戦いに苦心する冷良は正直聞いている余裕など無い。


「こら冷良、聞いているのですか?」


 あろうことか更に距離を詰めてくる幹奈。


(ひぃいいいいいいいいいいいいいい!)


 もはやどちらが女なのか分からない。


「そもそも、女のふりをする以上、あなたはもっと女のことを知るべきです。世間の女にとって、手入れ無しで維持されているあなたの容姿がどれだけ価値あるものか……本当に、ずるいです。ずるいずるいずるいずるいずるいずーるーいーでーすー!」

「何事ですか!?」


 度肝を抜かれたとは、まさに今のことを言うに違いない。あまりに唐突かつ劇的な豹変ぶりは、照れや緊張といった雑念の全てを冷良の頭から吹き飛ばす程だ。

 と、そこで気付く。幹奈の顔が近付いたことで漂ってくる、不快感を刺激する臭いに。


「か、幹奈様、もしかしてお酒飲んでます?」

「飲めずに異性と混浴なんてやってられまひゅかー!」


 ごもっとも。

 どうやら顔が赤かったのは、羞恥の所為だけではなかったらしい。


「けぇどぉ、れーらがぜーんぜん男っぽくないかりゃ、あんまりきんちょーしなくてよかったれふ。いっそのことぉ、ほんとに女になりまふぅー? 私なら一瞬れふよぉ? こう、ひゅぱっと」


 瞬間、幹奈の腕がぶれたと思ったら、湯が二間(約三・六メートル)程先まで割れた。

 ……そうやって何をひゅぱっとやるのか分からない、いや、分かりたくもない。

 ただ、今日一番の恐怖が胸の奥底からこみ上げてきた。


「ど、どうかご勘弁を……」

「あははははははははははは!」

(恐い恐い恐い恐い恐い恐い……!)


 狂乱した達人ほど恐い者はいない。

 本気で逃げたくなって来た。いや、もう逃げても大丈夫ではなかろうか? 言い訳が効く程度には湯に浸かったし、今なら幹奈も細かいところは見ていない。


(よし、逃げよう)


 と、決断した冷良が立ち上がろうとしたまさにその時、幹奈が肩に頭を預けてきた。


「ひぃっ!? に、逃げようとなんてしてませんよ!?」

「れーらはぁ、ずるいれふ。じゅんふいで、まっひゅぐで、人もあやかひも仲良しって、心のしょこから信じられて……わらひは……わらひは……どう……ふれば……」

「幹奈様?」

「…………くぅ」

「ね、寝てる……」


 考えてみれば、どうやら今日は随分と気を揉ませてしまったようだし、酔いも随分と回っていたから、いつ眠ってもおかしくない状態だったのかもしれない。


「た、助かった……よし、今の内に退散退散――」


 ――退散? こんな、下手をすれば湯で溺れそうな状態の幹奈を放って?


「幹奈様」


 視線だけは全力で逸らしたまま幹奈の肩を揺らす。

 だが、返って来るのは安らかな寝息ばかり。


「幹奈さま、寝たふりは駄目ですよ…………お願いします、ふりって言ってください、後生ですから」


 更に強く揺すっても、やはり幹奈は起きない。


「…………」


 冷良の受難は、まだ終わっていないのであった。

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