木花咲耶姫

「…………」


 湯だった頭で今の名乗りを反芻しながら、冷良は言われた通り畏怖を抱くよりも先に、いよいよ気が遠くなりそうになっていた。

 神。それは理の側に属し、強大な権能を有する、あらゆる生命を超越する存在。

 性別を偽って奉神殿に踏み込んだだけでも罪深いのに、よりにもよって人々が崇め奉る女神様の裸まで目撃してしまうとは。もしも真実が露見してしまえば、冗談抜きで首が飛びかねない。神への不敬とは、それ程に重い。


「……ふむ、思っていたよりも反応が薄いな、つまらぬぞ」

「市井で暮らす者がいきなり女神と対面すれば、こうもなりましょう。その女神が裸ならば尚更でございます」

「さらっと女神に嫌味を言うでない、流石に妾もいつまでも裸なのは恰好が付かぬと思い始めた。という訳で服を持て」

「は」


 恭しく頷いた幹奈が籠から上質そうな着物を取り出し、手際よく咲耶姫に着せていく。着付けはあっという間に終わり、ようやく肌色の大部分が隠れたことで、冷良の頭にまともな思考が戻って来た。

 そして気付く、逃げるなら今しかないということに。


「じ、じゃあ僕はこの辺で失礼します! 幹奈様、こちらがいつもの氷菓になります! 器はまた明日来た時に回収しますので!」


 冷良は幹奈に氷菓を渡しながら一気にまくし立て、言葉を発する暇も与えないまま踵を返してさっさとこの場を去ろうと――


「まあ、待つが良い」

「ぐえっ」


 ――したところで、咲耶姫に襟首を掴まれて物理的に阻止されてしまった。


「丁度良い、そなた、妾の話し相手になるがよい」


 終わらない苦境に、冷良は心の中で滂沱の涙を流した。





 その後、半ば連行されるような形で豪奢な座敷へと通された冷良は、本当に咲耶姫の話し相手をさせられた。


「ふふ、男が阿呆なのは人も妖も神も同じよな」


 湯あみで火照った身体で氷菓を思う存分味わう耶姫は、終始満悦の様子である。

 ……それだけならよかったのだが……。


「ほう、やはり雪女か。確かに、この時期に花の都で氷菓を作るとなれば、雪や氷にまつわる妖が関わるのも道理か。ちなみに、そなたも雪女であるのか?」

「ああ、いえ、僕は半妖です」

「ふむ、どれどれ」


 と、一体何を思ったのか、咲耶姫は冷良の頭に腕を回して自らの胸元に抱え込んでしまった。


「わわっ」

「ほーう、うっすらとひんやりしておるな。暑い日に抱きしめると心地良さそうだ」

「あ、あの、あの……!」

「ふふ、そなたは恥ずかしがるとすぐ表に出るなあ」


 恐らくは肌のことを指しているのだろう。雪女の血か、人間から見れば病的なほどに白い冷良の肌は、興奮や羞恥で血の巡りが早くなると、傍から見ても明らかなくらい真っ赤に染まってしまうのだ。

 からかわれているのは分かっている。先程から過剰な触れ合いを繰り返してくる咲耶姫の口元には、心底おかしそうな笑みが浮かんでいるのだから。男としては屈辱以外の何物でもない。

 かといって相手は尊き女神、安易に拒絶することも出来ない。

 ちなみに唯一の頼みの綱である幹奈はといえば、冷良の反対側で咲耶姫に侍ってはいるものの、終始諦観の表情で押し黙ったままだ。先程の小うるさい従者ぶりはどこへ行ったのか。もう少し頑張って欲しいものである。

 そんなこんなで冷良にとっては困惑と緊張、おまけに羞恥で満ちたお喋りだが、どんな時間にも終わりはやってくる。


「姫様、お戯れはその辺で。逢魔時が近付いております」

「むむ、まだいじり足りぬが……仕方があるまい、続きは明日に持ち越すとしよう」


 さらっと冷良を地獄へ叩き落す予定が追加された。

 だが、今回に限っては幹奈の助け舟が入った。


「姫様、今回部外者である彼女が奉神殿の中にいるのは訳あっての特別な措置。明日以降も立ち入りを許すわけにはまいりません」

「なぬ!?」


 冷良は心の中で幹奈に喝采を送った。

 重要な事実を失念していた咲耶姫は、難しい表情で唸っている。打つ手なしといったところだろう。

 冷良は気付かれないように安堵の息を吐き、おもむろに立ち上がった。


「それじゃあ、僕はこれで失礼します。咲耶様、今日は会えて光栄でした」


 呼び方に関しては本人が何でもいいと言うので迷ったが、結局は収まりのいい咲耶様呼びで定着した。もっとも、今後使う機会が訪れるかは怪しいところだ。

 ちなみに、最後に付け加えた感想は嘘でも世辞でもない。性別が露見する恐怖や緊張を別にすれば、女神にお目通りするのが得難い機会だったのは事実。咲耶姫の人柄も、困りはするものの決して不快ではない。冷良に気兼ねする事情さえなければ、この夢のような時間を純粋に楽しんでいただろう。

 冷良に合わせて幹奈も立ち上がり、廊下に繋がる襖を開いた――ところで、咲耶姫が手のひらを打った。


「閃いた! 冷良が巫女となればよいのだ!」

「……はい?」


 何を言われたのか分からず、いや、脳が理解するのを拒否する冷良に対し、幹奈は頭痛を堪えるように額を押さえた。


「……一応、具申させて頂きます、どうかお考え直しを」

「い・や・だ♪」


 女神の返答は端的でにこやか、けれどだからこそ、絶対に意見を変えそうにない頑固さを感じさせる拒絶だった。

 幹奈は大きく空気を吸い込み、本日一番となるであろう、深く長い溜息を吐く。


「……準備を進めます」

「ええっ!?」


 あっさりと、そして勝手に決められた自らの処遇に対する冷良の叫びは、もはや悲鳴に近い。

 当然、はいそうですかと流せる筈もなく。


「い、いやいやいや! 引き下がるの早すぎでしょう! そもそも、僕まだ何も言ってないんですけど!?」

「この際、あなたの意思は関係ありません。これは――神の決定です」

「――っ」


 神の意思は絶対なり。

 それは、人の世に古くから根付いた価値観であり、人と神の間に存在する明確な格の違いがもたらす無慈悲な理だ。

 冷然と事実を突き付けてきた幹奈は更に続ける。


「私に許されているのは具申のみ。その上で姫様が決定を下したのであれば、私は巫女として従うのみです」


 巫女の具申を聞こうとするだけ、咲耶姫はまだ神々の中では寛容で慈悲深い方なのだろう。

 だが、男の身で性別を偽って巫女になるなどという、破滅と隣り合わせの無謀な状況へ追い込まれようとしている事実は何一つ変わらない。


「ちなみに申しておきますと、巫女として神に仕えること自体は非常に名誉なことですし、実家には十分すぎる程の補助金も出ます。実際、娘を是非巫女にと打診してくる名家は後を絶ちません」


 一応同情的らしい幹奈は慰めの言葉をかけてくれるが、冷良にとっては意味を成さない。そもそも問題点が違うのだ。けれどそれを明かすことも出来ないのがもどかしい。

 ――どうしようもないのか……。

 進退窮まった冷良の心中を、諦観と苦渋が満たして――


「なあ、冷良。妾の傍で仕えるのは……嫌か?」


 不意に、咲耶姫が問いかけてきた。

 今までの溌溂とした物言いとは違う、静かで伺うような声色。無理やり作っているのが丸分かりの不自然な笑み。

 ……恐らく、ここで嫌と答えれば咲耶姫は先程の決定を撤回してくれる。直観だが、確信に近い感覚が冷良にはあった。

 同時に、彼女を酷く傷つけるだろうという予感も。

 尊き女神が何故一介の半妖に執着するかは分からない。ただ、自身が出す答えの重さを、冷良は意識せずにはいられなかった。

 困ったことに、質問に対する冷良の正直な気持ちを述べるなら『嫌ではない』のだ。ただ単に、巫女になる訳にはいかない事情があるだけで。

 身の安全だけを求めるなら、嫌と答えておくのが正解だ。

 そして代わりに、本音を偽り、不安で揺れる女性を深く傷つけたという事実を抱えることになる。

 ――それは男として恥ずべき行為であり、冷良にとって譲れない一線の向こう側だった。


「いいえ、嫌いだなんてとんでもないです」


 目を逸らさず、あらん限りの誠意を込めて伝える。ただ一つ、この事実だけは決して変わらないのだと。

 事情はややこしいが、意図が正しく伝わったのか心配する必要はなかった。

 直後に咲耶姫が浮かべたのは、まさに彼女の名が示す通りの、花が咲き誇るような笑顔だったのだから。


「では、巫女になっても問題はないな!」


 ……まあ、ならば他の事情は全て良しという強引さには、改めて頭を悩ませる必要があるのだけれども。


「さて、引き止めて悪かった。詳細は後日とする故、今日のところはもう帰っても構わぬぞ」

「……はい」


 せめて嫌そうな顔だけはしないよう気を付けつつも、消耗してしまった元気だけはどうしようもない冷良である。

 改めて咲耶姫に一礼して廊下に出る。見送りをしてくれるつもりなのか、幹奈も一緒に出て来てから襖を閉じた。

 とはいえ、冷良の意識はこれからの対策で頭が一杯であり、多少の言葉は交わしたが内容も殆ど覚えていない。

 なればこそ、それは必然だったのかもしれない。

 屋内と庭を繋ぐ玄関口、入る時には気を付けていた段差。前後左右ですら注意散漫になっていたのに、足元となれば言わずもがな。


「あ――」


 踏むべき床の感触がなく、上体が傾いた時に気付いても後の祭り。

 そのまま地べたに身を投げ出すことになるかと覚悟した矢先、後ろにいた幹奈が冷良の手を掴んだ。

 けれど悲しいかな、幹奈も咄嗟のことだったようで体勢は崩れており、踏ん張りは効かない。

 結局、幹奈の一瞬の奮闘も虚しく、二人はもつれ合う様に倒れ込んでしまった。


「あ、たた……」

「支えきれなくて申し訳ありません。お怪我は――ん?」

「うわっ!?」


 打ち付けた背中を痛がったのも束の間、冷良は下半身からの馴染み薄い感触に、思わず悲鳴を上げてしまった。

 一体何が起こっているのか状況を確認しようとして、今度は全身から一気に血の気が引いていく。

 地べたに倒れ込んだ際、冷良は腕を掴まれた拍子に仰向けとなり、その下半身に幹奈が覆いかぶさるような体勢となっていた。

 そして今、幹奈は身を起こそうとして手を付いたのだ――地べたではなく、冷良の股間に。

 別に他意があった訳ではないだろう。単なる手元の確認不足だったに違いない。

 だが、だからといって不注意を謝って終わりとはならない。

 何せ、どんなに外見が女らしくても冷良は男であり、男女の差とは身体に決して誤魔化せない違いを与えるものなのだから。


「…………」


 人間とは、あまりに非常識な状況に追い込まれると意識の処理限界を越え、ただ呆然とするしか出来なくなるという。

 今の幹奈も先程までの鋭く凛とした振る舞いは消え、何も知らない童女のように、手のひらの中にある人生初となるであろう感触を弄んでいる。

 それでも、彼女の年齢は見た目からして十代後半で、今まで積み重ねてきた知識と思考がある。手のひらにある未知と知識にある既知を結びつけることは、時間さえかければ難しいことではない。


「あ……あ……あぁ……」


 冷良ほど顕著でないにせよ、はっきりと分かる程度には幹奈の顔色が赤く染まっていく。

 ――凛々しい系の人でもこんな恥ずかしそうにするんだなあ、まあ当たり前かあ。

 なんて現実逃避気味な感想を抱いていた冷良は、幹奈が大きく息を吸い込んだ瞬間、飛び掛かるようにその口を塞いだ。


「ん~~~~~~~~~~~~~~~~~!」


 奉神殿の全体に響き渡っていたであろう盛大な悲鳴が、口元で押し止められてくぐもった声になる。

 冷良が安堵の息を吐いたのも束の間、幹奈は素早く後ろへ飛び退き、同時に抜いた刀を真正面から突き付けてきた。


「……どういうことか、説明して貰いましょうか」


 未だ羞恥は冷めやらぬとも、その全身から迸る殺意は本物である。

 事ここに至ってあらゆる抵抗は無意味、冷良は観念して全ての事情を明かした。特に、悪意があった訳ではない点を入念に。

 幹奈の方は説明を聞いている間に意識が落ち着いてきたのだろう、初々しい顔の赤みは既に引き、刃のように鋭い目を向けながら冷良という存在を推し量ろうとしている。

 やがて冷良が語るべきことを全て語り終えても幹奈はすぐに反応を示さず、重苦しい沈黙がおりる。冷良の心境は、まさに沙汰を待つ罪人といったところか。


「……筋は通っています。仮に姫様への害意を持っていたとしたら、実行する機会はいくらでもあった筈。外部の回し者だとしても、わざわざ男に女の振りをさせる意味がない」


 幹奈の理解を示してくれそうな気配に、冷良の表情が喜色で輝き――


「ですが、女神への不敬という大罪の前では、全てが些事です。ことが明るみに出れば、極刑は免れないでしょう」


 ――即座に絶望へと叩き落された。


「…………」


 極刑、すなわち死を宣告されたに等しい訳だが突然すぎて現実味が湧いてこない。

 取り合えず、こういう時は走馬灯を見ればいいのだろうか? だが、記憶を遡ってみても小雪にからかわれたり女装させられたり拳骨代わりに氷塊を落とされたり男に嫌らしい手つきで触られたりお近づきになりたい女子から嫉妬されて逆に距離を空けられたり、何故か禄でもない記憶しか出てこない。死の間際に見る思い出がこれなんて悲しいにも程がある。というより、意識的に思い出そうとしている時点でこれは走馬灯とは呼べないのではないだろうか? では、正しい走馬灯とは如何に……? 

 といった感じで、現実逃避も合わさって冷良の思考は混沌と化していた。自分でも一体何をしているのか分からない。

 だが、続く幹奈の言葉が、そんな冷良の意識を一気に現実へ引き寄せた。


「――そして、このような事態を招いた者たちも、処分は免れないでしょうね。当然、私もです」

「な……!? ど、どうして! 悪いのは僕だけじゃないですか!」

「世の中は罪人を罰して終わる訳ではありません。原因を招いた者たちが責任を負わねばなりません。そもそも、今回沙汰を下すのは姫様です。神々の怒りがどのどういったものであるかは、あなたもご存じでしょう?」


 諭すような幹奈の指摘に、冷良はぐっと言葉に詰まった。

 神々の活躍する神話や伝承は、子供に寝物語や教訓として聞かせるにはよくある題材だ。その過程で、人は神への敬意と畏怖を意識へと刷り込まれてゆく。

 神とは人知の及ばない天上の存在。神性にもよるが、その怒りは冗談抜きで天を割り大地を砕く。そこに人の価値観や倫理が入り込む余地はない。神が白だと見なせば白であり、黒だと見なせば黒となる。

 直に接した咲耶姫はそんな無体を強いるような神には見えなかったが、それはあくまで冷良を女だと思っていたから。裸まで見せてしまった少女が実は男だと知った際、あの活発ながらどこか温もりのある笑顔がどんな風に豹変するかは想像もつかない。

 つまるところ、幹奈の推察を否定する根拠はない訳だ。


「そんなのって……っ」


 意識の隅にいる冷静な思考が出した結論に、冷良は歯噛みして拳を強く握る。同時に、自身の軽はずみな行動を激しく後悔した。


「……随分と、私や巫女たちのことを気にするのですね?」


 不意に、珍獣を見るような表情で幹奈が尋ねてきた。

 表情の意図は冷良には分からないが、問いかけ自体は愚問なのですぐに返す。


「そりゃそうですよ、僕の所為で他の人が酷い目にあうなんて目覚めが悪すぎますもん」

「自分のことはどうでもいいのですか?」

「いやいや、それこそまさかですよ、死ぬなんてまっぴら御免です。実際、今だって心の中じゃ焦りっぱなしですよ」


 ただ単に、いまいち死の実感が湧かないので表に出る程取り乱していないだけだ。呑気、あるいは現実から目を背けているだけとも言えるが。


「……ふむ」


 幹奈は口元に手を添えてしばらく思惟に耽り、


「……私とて、姫様の不興を買うのは非常に困ります。それに、姫様はああ見えて繊細なところがあります、裏切りの記憶が傷心として刻まれでもしたら……」


 幹奈の瞳に浮かぶ深い憂慮から、冷良は親愛に近しいものを感じた。形式にうるさく、淡々とした物言いばかりが印象に残っていたが、少なくとも義務感のみで咲耶姫に仕えている訳ではないらしい。


「……こうなれば手段は一つ。私とあなたが、秘密を墓まで持っていく他ありません」

「……助けてくれるんですか?」

「姫様と私、関わってしまった巫女たちの為です」


 憎々しげに歪められた表情は、『よくも特大の面倒ごとを持ち込んでくれたな』と雄弁に語っていた。

 さて、何だかんだで絶望の底から崖っぷち程度には持ち直した訳だが、問題はまだ山積みだ。


「あの、僕が男っていうのを秘密にするなら、巫女になるのは凄く不味いと思うんですけど、どうにか取り消しには出来ませんか?」

「無理です。先程も言いましたが、神々の決定は絶対、あなたが巫女になることは既に決定事項なのです」

「けど、男が巫女になるなんて無茶ですよ。絶対にばれます」

「さて、どうでしょう。現にあなたは今日まで、私を含む全員から女だと思われていたのですから」


 しかも欺いていた訳ではない。昨日までは男の恰好で、ちゃんと男だと主張していた。だというのに信じて貰えないほどである。


「自信を持ちなさい。少なくともあなたの外見は、そこいらの女性よりも余程女らしいです」

「は、はは……」


 そんな自信を持ってしまった暁には、男としての自信が木っ端微塵となっているに違いない。


「後は、あなたが正式な巫女になる日を可能な限り伸ばして、その間に私が女性としての作法を徹底的に叩き込みます。覚悟しておくことです」

「……はい」


 自分の身を守る為だと分かっていても、前向きにはなれない冷良であった。






 時間が時間なので詳しい打ち合わせは後日ということになり、冷良はようやく氷楽庵に戻ることが出来た。

 が、一人で店じまいの準備を進めていた小雪に見つかるなり拳骨代わりの氷塊を落とされる。


「私が厨房に給仕に店じまいでてんてこ舞いな間に、随分とお楽しみだったみたいね? 怒らないから、どこで道草食ってたのか教えてみなさい?」

「いや、お仕置きしてきた時点で怒ってるんじゃ……」

「ん? もう一発いる?」


 賢明な冷良はこの時点で追及を止め、大人しく聞かれてことに答えることにした。


「えっと、奉神殿で女神様に捕まって、色々あって巫女やることになった」

「……は?」


 小雪の『一体何を言ってるんだ、この馬鹿は』という視線が突き刺さる。普段であれば抗議の一つでも入れているところだが、今回ばかりは冷良も気持ちは分かるので苦笑するだけに留める。

 何にせよ時間が時間で、日はもうすぐ沈もうとしている。ひとまずは二人でさっさと店じまいして店の奥にある居住部屋に引っ込み、腰を下ろして行燈に火を灯し、ようやく落ち着いたところで冷良は詳しい経緯を説明した。

 その反応がこちらである。


「あははははははははははははははは!」

「笑いごとじゃないんだけど!? 僕、冗談抜きで命の危機なんだよ!?」

「あはは……わ、笑わないなんて無理……だって馬鹿すぎる……!」


 つぼにでも入ったのか、小雪は若干苦しそうになっているのに笑いを引っ込める様子はない。これは何を言っても無駄だろうと、冷良は仏頂面で小雪が落ち着くまで待つことにした。


「はは……ああ笑った笑った、ここまで爆笑したのっていつ以来かしら」


 ひとしきり笑い、目の端に浮かんだ涙を満足げに拭った小雪はこともなげに続ける。


「ま、やるしかないでしょうね、巫女」


 まさに今からそのことについて相談しようとしていた冷良は、目を瞬かせた。


「……いいの?」

「いいも何も、やるしかないんでしょ? 偉大なる神さまの我儘は絶対ってね」


 肩を竦め世間の常識を語る小雪の口調には、どことなく揶揄するような響きが混ざっている。

 神があらゆる生命体の頂点に立つのは厳然たる事実だが、畏怖と共に敬うのは主に人間で、妖は個体によって違う。人間と同じく敬意を持つ者もいれば、その傲慢さに反発心を持つ者もいる。

 小雪は極端ではないもののどちらかといえば後者寄りで、前者寄りの冷良が注意するのはいつものことだ。


「小雪さん」

「はいはい、冷良ちゃんは真面目なことで」

「…………」

「ほら、これくらいでいちいち膨れない膨れない。真面目な話をすると、店のことは気にしなくても大丈夫よ、給仕を新しく雇い入れるから」

「そういうことなら、まあ……」


 あっさりと話が終わり、冷良としては肩透かしを食らったような気分だ。とはいえ、心配事が一つ減ったのは素直に喜ばしい。

 不意に、小雪がずいっと顔を寄せてきた。


「な、何?」

「えらいことになったって顔してるわね」

「そりゃそうだよ。だって巫女だよ? 男なのに」

「まあ、確かに大変ではあるでしょうけど……巫女ってだけで、人間なら一目置いてくれるし、他の巫女たちは皆いいとこのお嬢様ばかりって聞いたわ。そういう娘たちと縁も結べるって考えたら、そう悪い話じゃないんじゃない?」

「幹奈様にもほぼ同じこと言われけど……」


 悪い話ばかりでないことは理解しているが、どうしても冷良は乗り気になれない。命懸けという重すぎる前提は勿論だが、そういった俗的な地位や繋がりに興味が薄いのも大きな理由だった。

 そんな冷良の内心はお見通しなようで、小雪は聞かん坊を諭すような笑みを浮かべる。


「私がご両親からあなたを預かって……もう十年くらいになるかしらね」

「え? う、うん、確かそうだと思うけど……急にどしたの?」


 小雪と冷良は血が繋がっている訳ではない。とはいえ、そんなことはお互いに百も承知の上だ。

 小雪は記憶に思いを馳せるように目を細める。


「懐かしいわね。私がまだ小娘だった時、いきなりあなたの世話を頼まれて驚いたっけ」

「今考えたら、よく引き受けてくれたよね」

「あなたのご両親には恩があったからね」


 その『恩』とやらについて小雪は詳しく語らないが、姉と弟程度にしか歳の違わない子供の世話を引き受けた辺り、余程のことがあったのだろう。


「とはいえ、実の所いつも迷ってたのよ。半妖の子供なんてどう扱ったらいいか分からないから、取り敢えず各地の秘境やら雪女の里、勿論人里含めて色々回ってみたけど……まあ、完全に妖寄りの生活よね」

「……もしかしてこの都で店を開いたのって……」


 問いかけても小雪は意味ありげにほほ笑むばかり。


「人と妖が一緒にいても珍しくない時代になったけれど、半妖の数はまだ決して多くないわ。だから、世の中での立ち位置もまだ定まっていない。人として生きるのか、妖として生きるのか、それとも別の道があるのか……だからまあ、妖側だけじゃなくて、ちゃんと人の中にも居場所を作って来なさいな。もしばれちゃったなら、全部ほっぽって逃げちゃえばいいのよ」


 小雪の難しい話を、冷良は完全に理解した訳ではない。

 だが、それに反発することも、疑いを抱いたりすることもない。

 ひとえに、彼女の言葉に思いやりが込められていることを、しっかりと感じているから。


「……うん、取り敢えず頑張ってみる」

 ようやく出てきた冷良の前向きな意思に、小雪は何も言わず微笑みだけを浮かべたのだった。

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