男と疑う者無し

「うぅ……」


 出前箱を持って往来を歩く冷良は、湧き上がる羞恥で心を折らないようにするだけで、全力疾走並に苦労していた。

 原因は言わずもがな、周囲から老若男女問わず集まる大量の視線だ。

 別に視線が怖いという訳ではない。散々疑われたが冷良はれっきとした男、注目と尊敬は集めたいし、異性には黄色い悲鳴と共にもてはやされたい。

 だが、今注目を集めている理由を勘違いするほど、冷良はおめでたくなかった。いや、ある意味ではそちらの方が良かったかもしれない。

 何せ周囲にいる者は子供と老人を除き、軒並み見惚れたように頬を赤らめているのだ。そう、女だけでなく。しかも男の視線は顔だけでなく太腿にも遠慮なく向いている。これを悪夢と呼ばずして何と呼ぼうか。

 冷良は軽く俯いて視界を足元だけにした。こうして現実逃避でもしなければやってられない――


「おーい! そこどきなー!」

「え?」


 横合いから掛けられた声に反応して顔を上げると、いつの間にか差し掛かっていた十字路の向こうから、が途轍もない速さで接近してくるところだった。


「うわっ!?」


 驚いた拍子に尻餅を付いた冷良の目前を、牛車が速さを緩めないまま走り去っていく。一瞬遅れて、砂埃混じりの突風が吹き抜けた。


「あ、あっぶなー……何て速さ出してるのさ、あの朧車……」


 朧車――牛車の正面に顔が付いた姿の妖だ。

 だが、その速さに驚いたり多少の悪態をつく者はいても、人ならざる者に関して取り立てて騒ぐ者はいない。

 何故なら、特別なことではないから。雪女が甘味処をやっていても、朧車が運送の商売をしていても、烏天狗が空から都の治安を守っていても、小鬼たちが雑用でお駄賃を貰っていても。他にも例を挙げようとすればきりがない。

 人と妖。二つの異なる存在が融和した、雑然としながらもどこか幻想的な時代。それが、現代の在り方だ。


「そうだ、氷菓! ……よかった、大丈夫だ」


 我に返った冷良が慌てて出前箱の中を確認すると、幸いにも氷菓は無事だった。尻餅を付く際、咄嗟に庇ったおかげかもしれない。

 気を取り直し、立ち上がって配達を再開する。今度は同じ轍を踏まないよう周囲に注意を払えば――束の間忘れていられた視線を再び意識する羽目になる訳だが、四の五の言っていられない。

 冷良は半ば自棄になりながら、先を急ぐのだった。





 そうして辿り着いたのは、都の中心部だ。誰もが知る大店が並び、通りを行き交う人々や妖の多さも随一。地理だけでなく、経済の観点で見てもここが中心であることに異を唱える者はいないだろう。

 だが、盛況を誇る営みの中において、異様な存在感を放つ存在が一つ。


「いつ見ても高いなぁ……」


 冷良が大口を開けて見上げるソレは、天高く屹立する塔の如き大地だ。

 まるで巨人が地面をつまんで無理やり引っ張り上げたかのような全景は、到底自然に出来たものとは思えない。かといって人の手によって成し遂げられたとも到底思えない。多種多様な妖力を持つ妖でもここまで大規模な現象は起こせる者はいないだろう。

 ならばもっと上位の存在――人や妖とは根底から異なる、大いなる何者かの|御業(みわざ)によるものと考えるのが自然だろう。

 そう、例えば――


「おっと、ぼーっとしてる場合じゃなかった」


 目的を思い出した冷良は視線を外し、通りに面した建築現場へと向かう。


「おーい、骨吉―!」

『んー? おー、冷良でねーかー』


 冷良の呼びかけに応えたのは、人間の大工たちに混ざって作業をしている見上げるほど大きな骸骨――がしゃどくろという妖だ。


『今日も|神様(・・)の所に届け物けー?』

「そういうこと。だからいつもの頼めないかな?」

『ほうけ。なら、ちょっこし待ってな。親方ー、冷良が来たで、ちょっこし外すげー!』

「おう、分かった!」


 親方の男性が快く了承してくれたので、冷良も礼儀として頭を下げる。


「いつもすいません」

「いいってことよ! お前んとこの小雪ちゃんが骨吉を紹介してくれたおかげで、どうにか怪我人で空いた穴を埋められたんだからな!」


 持ちつ持たれつ。冷良は親方と笑みを交わし合い、骨吉に向き直ると、彼の差し出した手のひらに飛び乗った。

 骨吉はそのまま大きく振りかぶる。


『ほれじゃ、やるげー!』

「思いっ切りお願い!」


 応えた瞬間、冷良の足元から感触が消えた。

 何も踏みしめていない、地に足を付けて暮らす種族には不安極まりない状態。

 冷良の現在位置は、都の遥か上空だった。骨吉が上に向かって思いっ切り放り投げたのだ。

 遮る物がない空中は、視界が遠くまで届く。建物は小さな箱、人に至ってはまるでごま粒のようだ。

 だが、呑気に絶景を楽しんでいられるのはほんの一瞬。冷良は空を飛ぶ術を持たないので、上昇が終わった後には落下が待っている。そのまま地面に叩きつけられればどうなるかは火を見るより明らかだ。

 当然、冷良は何も考えず骨吉にこれを頼んだ訳ではない。

 慌てず騒がず、自分の身体に半分流れる雪女の血――それに宿る妖力に意識を向け、外界に向かって解き放つ。

 直後、冷良の足元に白い霧を伴った冷気が集まり、塔の大地へ向かって一気に伸びていった。

 冷気が散った後に残っているのは、冷良と塔の大地を繋ぐ氷の橋だ。少しばかりの傾斜を付けてあるので、飛び乗れば意識しなくても自動的に運ばれていく。


「よっと」


 最終的に冷良が踏みしめたのは、塔の大地を登って行く為に据え付けられた階段、その七合目辺りに位置する場所だった。

 何を隠そう、氷菓の注文主はここ塔の大地の天辺におわす御方だ。

 とはいえ、天高くと表現した通り、塔の大地は途轍もなく高い。階段の数を聞かされるだけで登る気を失くすほどに高い。自分の足で登頂なんてやってられない。

 だからこそ、冷良は毎回こうやって骨吉の手も借りつつ、荒業以外の何物でもないやり方で道のりの半分以上を短縮しているのである。

 ……まあ、それでもまだ三合分くらいは残っているのだが、流石にここから上は小細工抜きの自力登頂だ。決して楽ではないが、本来の道のりを思えばこれ以上は贅沢と言うもの。適度な鍛錬で男を磨くと思えば気持ちも多少は上向く。

 という訳で地道に階段を登り切った先に待ち受けているのは、荘厳な気配漂う社(やしろ)だ。地上から遠く離れ、喧噪すら届かない――言い換えれば俗世から隔離されているという環境も手伝い、神聖な領域を見ているような気分になる。

 実の所、その感覚もあながち間違っている訳ではないのだが――


「『奉神殿』にようこそ――って、あら、出前屋さん」

「こんにちは、精が出ますわね」


 社の入り口に立っていた二人の袴姿の少女たちが声を掛けてきた。態度は柔らかく気さくで、良家のお嬢様のような雰囲気だ。

 ただ、その手には社の入り口を守る門番のごとく、無骨な薙刀が握られている。手入れの行き届いた刃が光を反射する様は中々凶悪だが、冷良は既に慣れたもの、臆することなく営業用の笑みを浮かべてみせる。


「どうもこんにちは、今日も氷菓を届けに来ました。ただ、いつも言ってますけど、僕は甘味処の出前で来てるのであって、出前屋っていう仕事がある訳じゃないですからね?」


 細かい指摘かもしれないが、業務範囲は明確にしておかないと後になって無茶を頼まれる可能性がある。実際、過去に茶碗や陶磁器を調達出来ないかと頼まれたことがある。

 だが、少女たちは理解したのかしていないのかよく分からない表情で目を瞬かせる。


「まあ、そうなのですか?」

「申し訳ありません、市井のお店には疎くて……」

「そ、そうですか……」


 あまりに呑気で世間知らず丸出しな返事だ。まず間違いなく意図は正確に伝わっていまい。

 ふと、少女たちの視線が冷良を凝視する。正確には、身に纏う着物の方に。

 出来れば触れてほしくなかったと思いながらも、冷良は答えの分かり切っている質問を投げかけた。


「あの……何か?」

「今日は女らしい装いをしているのですね」

「凄く可愛いですわ。事あるごとに殿方だとをなさるから、複雑な事情があるのだろうと心配していましたが……そのご様子だと、問題は解決したようですわね」


 悪気はないとはいえ、いや、悪気がないからこそ、少女たちの感想は刃となって冷良の中にある男の尊厳へ突き刺さる。


「あ、あは……はは……」


 もはや訂正する気力すら湧いてこなかった(そもそも信じて貰える気がしなかった)。ただ乾いた笑いが出てくるのみである。

 一刻も早く店に戻りたい衝動に駆られ、冷良はやや強引でも話を先へ進めることにした。


「ち、ちなみに、受け取り人の方は……」


 基本的にこの社は部外者以外立ち入り禁止だ。なのでここで当番の者に氷菓を渡して店に戻るのがいつもの流れなのだが、今日はそれらしい人物の姿が見えない。

 少女たちも頬に手を当てて困ったように息を吐いた。


「いつもならとっくに当番の者が来ている筈なのですが……何かあったのでしょうか?」

「門番の私たちはここを離れられませんし……」


 少女たちはしばらく唸っていたが、やがて少女たちが目配せを交わし、そっと頷いた。


「仕方がありません、中に入って直接誰かに渡してもらえませんか?」

「え……?」

「あまり好ましいことではありませんが、どうしても必要な場合に外部の者を招き入れる例はあります。何より、私たち巫女の不手際で女神様への捧げ物が遅れるなど、絶対にあってはならないのですわ」

「いや、それはそうかもしれないですけども」

「どうかお願いできませんか?」

「出前屋さん……」


 だから出前屋じゃないですよ、と突っ込みを入れられる空気ではなかった。

 重ねて言うが、冷良はれっきとした男である。感性も一般的な少年とそう変わらない。

 ならば、可愛い少女たちから涙目でお願いされて、どうして断ることが出来ようか。


「分かりました、後は僕に任せてください!」


 大きく反らした胸を叩いて頼もしく見せ、了承してしまう冷良だった。

 お礼と共に頭を下げた少女たちに見送られ、大きな門に据え付けられた小さな扉から社の境内へと入る。

 そうして人の目が無くなったところで、冷良はうずくまって頭を抱えた。


「やってしまった……」


 安請け合いして踏み込んでしまったこの社の名は『奉神殿』、読んで字のごとく、神を奉る神殿だ。中では女神に仕える巫女たちが泊まり込みで生活しており、日夜神楽や祈りなどを奉納しているのだという。

 そして何より重要なのが――男子禁制であること。

 巫女が女性だけというのもあるが、奉られているのが女神だという点が大きい。奉神殿に男が踏み入ることは規則違反なんて生易しいものではなく、ある種の禁忌に近い扱いを受けている。

 つまり、今の状況は非常に不味い。

 既に激しい後悔が首をもたげているが、大きく息を吐いて心の中から追い出す。


「まあ、どの道男だって言っても信じて貰えそうになかったか」


 箱入りの少女たちを相手に、男である物的証拠を見せる訳にもいかない。納得出来る理由を出せないまま無理に断っていたとしても禍根を残していただろう。巫女である少女たちにとって、仕える神への敬意や誠意は重いからだ。

 先程は調子に乗ってしまった感があるが、仮に冷静だったとしても、あの切実な頼みを断ることは恐らく出来なかっただろう。

 つまりは不可抗力、なら、このままくよくよしていても無駄というものだ。


「よし、さっと渡してさっと帰ろう」


 心を切り替えた冷良は立ち上がり、心持ち早めに歩き出す。

 しかしどうにも間が悪いのか、何となく人がいる気配は感じているのに、庭はおろか屋内に入っても誰とも遭遇しない。

 神を奉っているだけあって境内は非常に広く、あちこち歩き回る羽目になった冷良は、既に自分がどこを歩いているかも分からなくなっていた。長居が危険だということもあり、徐々に不安が募って行く。

 そんな時に物音の一つでも聞こえてしまえば、周囲の雰囲気も気にせず引き寄せられても仕方ないというもの。

 それでも、ある場所へ踏み込んでしまうと流石に我に返った。


「やばっ、ここ脱衣所……!」


 漂ってくる湿気や暖気、畳まれた服の入った籠とくれば、この先に何が待ち受けているかは明白だ。

 正直、桃色の想像を全く浮かべていないと言えば嘘になる。むしろこの状況で心に波風すら立たない男など男に非ず。

 だが、氷菓を届ける為に奉神殿をうろつくだけならいざ知らず、この先へ踏み込むことに大義はない。実行すれば自分は単なる下衆へと成り果ててしまう。

 それだけは――絶対に嫌だった。


「戻らないと」


 決して踏み越えてはならない境界線を幻視し、妄想による興奮もすぐに冷め、冷良はそそくさと踵を返そうとした。

 その直後だ、首元に雪女が操る冷気とは違う、薄く鋭い冷感が触れたのは。


「動かないでください」


 実際に冷気が漂っていると錯覚しそうな、冷え冷えとした声。

 冷良の心臓が早鐘を打ち、元より引き気味だった顔の血の気が更に引き、頭の中で警鐘が鳴り響く。視界に入っていない首元の感触が何なのかは、容易に想像出来た。


「両手を上げて、ゆっくりとこちらへ振り返りなさい」

「あ、あの、僕――」


 早く事情を説明せねばと口を開いたところで、触れるだけだった首元の冷たい感触が軽く押し付けられる。あと少しでも強くされたら皮膚は裂けるだろう。

 心の中で悲鳴を上げ、一杯一杯になりながらどうにか振り返る。

 そこにいたのは、冷良と同じか少し年上くらいの少女だった。

 腰まで伸ばした髪を緩い三つ編みにしており、やや吊り気味で強い意志を宿す目は凛とした雰囲気を形作っている。恰好は門番の少女たちと同じような巫女服に近いが、こちらはより動きやすさを重視しており、要所要所に防具を付けている。総じて、巫女に武人の要素を付け足したような印象だ。

 そんな少女が、剣呑な表情でこちらに刀を突き付けてきている。

 だが、冷良の顔を確認するとおや? と軽く目を見開いた。


「あなたは氷菓の……そのような恰好をしているから気付きませんでした」

「そ、そうですか」


 触れられたくない箇所に触れられても、普通の反応しか出てこない。知った顔とあって警戒と敵意は若干薄れたものの、突き付けられた刀は未だ鞘に戻っていないのだから。


「それで、何故あなたがこのような所にいるのですか? ここは他の巫女たちですら、みだりに踏み込むことは許されていないのですよ」

「――っ」


 ここしかないと判断した冷良は、一気に事情をまくし立てた。当然、自分が男であるという事実は伏せた上で。

 全てを聞いた少女は冷良の足元に置かれた出前箱を一瞥し、表情を変えないまましばらく無言で思案していたが、やがて小さく息を吐いて刀を鞘に納める。


「朝から巫女の一人が体調不良で伏せっているという報告は受けています。恐らく、その娘が本日の受け取り役だったのでしょう」

「で、誰にも代わりを頼まないままで、他の人も気付かなかったと」

「……これは我々の不手際ですね。刃を向けた無礼、どうかお許しを」


 自らの非を認め、少女は折り目正しく頭を下げて謝罪してくる。

 だが、彼女がとある高貴な地位に就く人物であることを知る冷良は、むしろ更に慌てた。


「い、いやいやいやいやいやいやいやいや! 幹奈様が庶民なんかに頭を下げちゃ駄目ですって!」

「巫女の不手際は、巫女頭である私の責任です」

「け、けど――」

「通すべき筋を通さなければ、信念はいずれなまくらと成り果てる。あなたも己を貶めたいのでなければ、素直に謝罪を受け入れなさい」

「は、はい……」


 謝られている筈なのに、何故か説教を受けてしまった。


「何にせよ、いつまでもあなたがここにいるのは好ましくありません。氷菓は私が受け取っておくので、今日のところは――」

『幹奈ー! そこにおるのかー!?』


 不意に、衝立の向こうから鈴を転がしたような声が聞こえてきた。


「はい、ご所望の物もここに!」


 少女――幹奈が声に応え、目配せで冷良に退去を促す。部外者の存在が知られたら面倒なことになるからだろう。氷菓の方は、ひとまず出前箱ごとこの場に置いておけと身振りで指示される。

 当然冷良に否やはなく、出前箱を置いて忍び足で脱衣所を後にしようとして――


『それに、もう一人誰かおるな?』


 ――ばれてるー!

 冷良は硬直し、心の中で悲鳴を上げた。


『妾は別に気にせぬが、幹奈が誰かをここまで連れて来るとは珍しい。何者であるか?』


 叱責というより、単なる興味本位のような語調なのが救いか。

 とはいえ、どう対応するのが正解なのかは分からない。幹奈に目配せで伺ってみると、任せろとばかりに小さく頷いてくれた。


「この者は我々の不手際で迷い込んでしまった出前の者です! 今すぐに退散させます故、お気になさらず!」

『おおっ、出前というと、いつも氷菓を届けてくれる者か! いずれ会ってみたいと思っていたが丁度良い、ここへ連れて参れ!』


 予想外の展開なのだろう、幹奈の表情にはっきりと動揺が浮かんだ。

 そして冷良の内心は、動揺なんて生易しいものではなく、ひりつくような焦燥である。


「ど、どうか思い直しを! あなた様は天上におわす尊き御方、その御身を無暗に晒すなどあってはなりません!」

『ふむ……文字通りの意味で天上に住む連中を知る身としては、何とも皮肉的であるわけだが』

「も、申し訳ありません! 御身の起源を損ねた罰は後でいかようにも! しかし、私の意見は変わりません」

『ええい、殊勝なのか頑固なのかはっきりせぬか!』

「申し訳ありません」


 殊勝な態度で謝る幹奈だが、主張は一切引き下げていない。頑固と称されるのも納得である。

 とはいえ、冷良の心情自体は幹奈寄りだった。

 冷良が男だというのは勿論だが、何より予想が正しければこの先にいるのは――


『……やれやれ、よーく分かった』

「ご理解頂けましたか」

『うむ、そなたと話していても埒が明かんということがな!』


 威勢のいい声と共に、湯の中で勢いよく立ち上がったような音。

 勘はしっかりと危機を察知した。

 だが、脳が身体にこの場からの退去を命令し、実行に移すには、あまりに時間が足りなかった。

 まず初めに意識を支配したのは、かつてないほどの割合で視界を埋め尽くす肌色だ。肌色以外の何かも見えた気がしたが、脳が明確な形で認識する前に全力で視線を相手の顔に固定して――息を呑む。

 水が滴る濡れ羽色の髪、じっとこちらを見つめる黒曜石のような瞳、そしてこの世のものとは思えない程の美貌。

 美しい女性なら小雪で見慣れている筈の冷良が、言葉も出ない。

 小雪が妖しさを湛えた妖精とするなら、目の前の女性はまさに天上の華といったところ。触れ難い神々しさを放ちながらもどこか慈愛を感じさせる面差しは、あらゆる隔意を解いて惹きつける誘惑に満ちている。

 女性は冷良の姿を目の当たりにすると、神秘的な顔に無邪気な笑みを浮かべ、気さくに話しかけてきた。


「おおっ、何ともい娘ではないか! こう、ひたすら頭を撫でて愛でたくなる感じの」

「え……あっ!? あ、あの、えっと……!」


 呆然としていたところで我に返ってしまった冷良だが、目の前の女性が全裸であるという現状は一切変わっていない。

 しかも困ったことに、恥ずかしいなら見なければ良いという単純な話でもない。

 何せ、女性と傍らにいる幹奈は、冷良を女としか認識していないのだから。

 ならば、強引に視線を逸らすと不自然に思われるのでは? だからといって平然と凝視すればいいかといえばそうでもなく……そもそも全裸の女性を前にして平然としているのがまず無理、絶対。

 思考が堂々巡りになり結局一切の行動を起こせないまま、表情だけを真っ赤に染めて混乱する冷良の様子をどう受け取ったか、女性の笑みが更に喜色を深めていく。


「うむうむ、その慌てざまも小動物のようで良い。ほれ、こちらに来やれ? 妾が直々に頭を撫でてやろうぞ」

「――えふん!」


 女性が両手を広げて迎え入れる体勢になったところで、今の今まで嘆くように天を仰いでいた幹奈がわざとらしく咳払いをした。


「これ以上はご自重ください、姫様。民やに示しがつきません。何より、品位が著しく欠けております」

「……そなた、ずけずけ言い過ぎではないか? 妾、そなたが仕える女神であるぞ?」

「仕える女神に忠言するのも巫女の役目でありますれば」


 慣れた様子で交わされる主従の明け透けなやり取りに、部外者である冷良が入り込む余地はない。

 だが、未だに治まらない混乱の中、それでも聞き捨てならない単語を拾い、思わず口を開いてしまう。


「女神……様……?」

「ん? ……おおっ! 妾としたことが、名乗りを忘れるとは。折角の威厳が台無しではないか」

「仮に名乗りを上げていたとしても、ここまでの言動で威厳はぼろぼろございましょう」

「やかましい! ――こほん」


 咳払いと共に女性がこちらへ向き直ると、冷良は緩んだ場が引き締まるような気配を感じた。

 それはひとえに、彼女の名乗りがこの場にいる全員にとって重要な意味を持つと、頭のどこかで察していたから。


「妾は山界を統べる大山津見おおやまつみが娘、草花を司る国津神、木花咲耶姫このはなさくやひめである。この名、畏怖と共に胸に刻むがよいぞ」

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