雪山に浴む

葉島航

雪山に浴む

雪山に浴む


 凍えていた。

 私の身体だけでなく、うずくまる巨岩、切り立った崖、目に映るもの全てが、吹雪の中で身じろぎもせずひたすらに凍てついているのだ。

 ――どうしてこんなことに。

 何度そう自問しただろうか。

 冬山登山は初めてではなかった。準備も周到であったはずだ。

 それなのに、私はここで道を見失い、寒さに震えている。

 あるいは、やはり私に気の緩みがあったのだろうか。

 仕事で無様な失態を演じたばかりで、山に癒しを乞おうと、こうして出てきた。そこに、現実から逃避したいがゆえの慌ただしさがなかったと言えば嘘になる。

 吹雪が止む気配はない。

 呼吸する度に、肺が冷たくなっていくのを感じる。寒さで痛んでいた耳の奥も、すでに感覚を失っていた。

 身体が思うように動かない。当初こそ、疲れと厚着のせいだと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。

「身の危険」という言葉では生ぬるい。相応の覚悟を決めなければならないのかもしれなかった。

 鉛のような足を引きずって歩く。雪はすでに膝下まで達していた。

 ひときわ大きな風が吹いた。凍りついた睫毛の奥まで冷気が襲い掛かり、思わず顔を伏せる。

 ――終わった、ここまでだ。

 なかなか顔を上げられなかった。それは吹雪のせいだけではない。

 ストックにしがみつくようにして、わずかに嗚咽を漏らす。

 涙も流れるそばから氷になってしまうから、目を再び開けるのに苦労した。

 岩壁でも木でも何でもいい。少しでもこの吹雪をやり過ごすことのできる場所があれば、そこに座ろう。そうすれば、手紙の一つでもしたためられるに違いない。

 そんな絶望をよすがにして、顔を上げた。パリパリと音がして、頬の霜が鱗粉のように散る。

 横殴りに降る雪の向こうに、何かが見えた。

 ――建物?

 先ほどまではそんなものなどなかった。寒さでいよいよ幻覚が見えるようになったのかもしれない。

 しかし、どれだけ目を凝らしても、そこに建物らしき影がある。

 私はぎくしゃくと身体を動かしながら、半ば這うようにしてそこへ近づいた。

 木造の引き戸に、「湯」と書かれた暖簾が掛かっている。暖簾はカチカチに固まっていたし、ひさしからは氷柱が下りていたが、まぎれもなくそれは温泉の館であった。

 取っ手に手を掛け、満身の力で凍った引き戸を開ける。

 無我夢中でどうしたのかもよく分からぬまま、私は中へと飛び込んだ。



 熱気が全身を包んだ。

「何だ、これは」

 私の呟きは声にもならずに、がさがさとした空気となって漏れ出る。

 がらんとした玄関には空っぽの下足箱があり、敷居の上には籐の床が広がっている。昔ながらの木製ロッカーに、床と同じ籐でできた籠。どうやらここは脱衣所らしい。

 番台も人影も見当たらなかった。そもそもこんな山奥の、道を外れたような場所に温泉などあるわけがない。

 そんな疑問も、脱衣所の奥にガラス戸を見つけた途端、消し飛んでしまった。

 ――あそこに温泉が?

 肩を苛んできた重いバックパックを下ろす。指先をもたつかせながら、濡れそぼったアウターのジッパーとベルトを外す。インナーのレイヤーを引きちぎらんばかりに脱ぎ捨てる。

 全裸となってがくがくと身を震わせながら、すりガラスに近付いた。勢いよく開く。

 湯気が視界を覆った。

 それは仙人が食べたという霞だろうか。それとも現実へと引き戻す玉手箱の煙だろうか。

 中へと踏み出す。石造りの床はしっとりと湿っていた。

 シャワーと風呂椅子が並んでいる横を通り過ぎ、湯気の源を目指す。感覚を失った両足を引きずって、ひたすらに進んだ。

 私の呼気で湯気が開ける。


 ――湯船だ。


 堂々たる湯船が鎮座していた。

 湯は白く濁っている。昔一度だけ行ったことのある白骨の湯がこんなふうではなかったか。

 右足を持ち上げ、沈み込ませてみる。

 最初に感じたのは、熱さではなく痛みだった。

 冷凍肉のように固まった足を、「激しい痛み」としか形容できない何かが襲っている。すぐにでも足を引き上げたくなるが、なにくそ私は死んでもこの湯に浸かるのだと、歯を食いしばって堪えた。湯面はただ静かに足を吞み込んでいるだけなのだが、右の膝から下は大きなうねりを感じている。そのうち、凍りかけていた血液が流れ始めるのを感じた。幾分、足の皮も柔らかさを取り戻したようだ。

 同じ手順を、左足でも繰り返す。痛み、うねり、そして氷解。

 信じられないほどにゆっくりと、私は腰を落とす。

 太ももが浸かり、尻が浸かり、腹が浸かる。その度に、しびれるような痛みと、そして血の循環がやって来る。

 肩まで浸かったとき、手足の先から伝わった熱が、身体の中央で脈打っているのを感じた。心臓の強く激しい鼓動を、腹で、胸で、耳の奥で感じる。

 ふと、自分がずっと息を止めていたことに気付いた。

 思い切り息を吸い込み、そして吐き出す。鼻から蒸気が吸い込まれ、気管の霜を消し去った。体内に溜まっていた冷気が、大息とともに吐き出される。

 湯船の縁に頭をもたせ掛け、私は濁り湯の中をたゆたった。

心臓が規則正しく動いている。湯は私の寒気を全て除却せしめんと、私の全身を包んでいた。私の口から漏れ出る白い息が、湯気と混ざって立ち上る。

 両手で顔を覆ってみた。

 凍った睫毛が一瞬で水気を取り戻す。頬がじんわりと元の熱を取り戻した――鏡を見なくても分かる、今の私は赤ん坊並みに頬を上気させているはずだ。

 微かな硫黄の匂いが鼻をつく。どうやら、寒さで麻痺していた嗅覚が戻ってきたらしい。

 甦ったのは鼻だけではなかった。耳が、奥の方でじんじんと痛む感覚を取り戻す。やがてその痛みも溶け去り、ちょろちょろと源泉が流れる音を拾い始めた。

 この湯はどうやら、源泉かけ流しと言われる類のものらしい。湯船の端に、亀の装飾をあしらった引湯管があり、そこから白い湯がわずかずつ流れている。

 改めて腹や太ももの感覚に意識を向けてみると、確かに引湯管の方から熱い湯が流れて来ているように思えた。

 湯のことを「極楽」と言う意味の本質が、初めて私にも分かった気がした。

 喉の奥で音を立てながら、さらに数回、深呼吸する。蒸気が私の中を巡り、その度に私は身体中の細やかな活動を取り戻していった。

 そして、この「極楽」に、私は長いこと留まり続けた。



 私が腰を上げたのは、微かに喉の渇きを感じたからだった。遭難してから、寒さに加え焦りも手伝って、ほとんど水分補給を行わぬまま来てしまった。ここで脱水でも起こしては困る。

 身体は十分に温まっていた。最後にもう一度、顔面に湯を浴びせかけ、立ち上がる。

 ガラス戸を開けると、涼しい空気が私を包んだ。

――涼しい?

 あり得ないことだ。先ほどまで凍死しそうになっていた人間の思考ではない。しかし、今は水分の摂取だ。

 熱い雫を全身から滴らせながら、脱衣所の中ほどに転がっているバックパックを漁る。タオルを取り出して身体の水気を拭きとった。バックパックの中身もたいがい凍てついていたはずだが、私の長い入浴の間に和らいだのだろう、タオルはぬるく私を包んだ。

 脱衣所にも温泉の熱気は十分に伝わっている。だからここで凍えることはなさそうだった。むしろ、今の私は長湯で汗ばんでいる。

 身体を拭き終わりインナーだけを身に付けた私は、水筒を探した。魔法瓶だがすでに中の茶は冷え切っている。それでも無いよりはましだった。

 一息に飲もうとした私の目に、何かが飛び込んできた。

 水筒を置き、そちらへと向かう。

 小型の冷蔵庫がある。その中に、牛乳瓶が詰まっていた。

 ――風呂上がりの牛乳など、いつぶりだろう。

 ここの牛乳には、いちごミルク、コーヒー牛乳を加えた三種類があるらしい。

 冷蔵庫の脇には賽銭箱のような箱が置いてあった。「一本二百円」と、お世辞にも達筆とは言えない字で書きつけてある。ここに金を入れろということらしい。

 私は財布を覗いたが、あいにく小銭を切らしている。ならばと千円札を放り込み、これで五本は飲めると意気込んだ。

 普通の牛乳を選ぶ。昔ながらの紙キャップが付いている――今ではめっきり見かけなくなった丸い蓋だ。小中学生の頃などは、これをはがすのに失敗して、よく牛乳の飛沫を散らしたものだ。

 今回はそんな失態を犯すこともなく、私は蓋を引きはがし、牛乳をあおった。

 火照った食道を、茶や水と比べて質量のある液体が流れていく。喉、胸のあたり、みぞおち、そして胃、と私はその行方を辿った。同時に、鼻から甘い香りが突き抜けていく。

 牛乳は、一人で飲みきれないほど潤沢にある。これだけの量があれば、少なくとも水分不足に悩まされることはないだろう。

 空になった牛乳瓶を返却箱にうやうやしく置き、私は自分が落ち着きを取り戻していることを認識した。

 身体に不調は無い。呼吸も落ち着いているし、頭も――少なくとも自覚的には――普段どおりの回転を取り戻している。

 とするならば、今後のことを考える必要があろう。

 携帯電話をバックパックから取り出すが、圏外と表示されている。天井に明かりが灯っているからこの温泉にも電気が引かれているのであろうが、少なくとも電話のようなものは見当たらない。私が自らどこかへ連絡をとることは難しそうだ。

 まず、ここに温泉がある以上、そのうち必ず人が来るはずだ。山中の秘湯ともなれば客や管理人も頻繁に顔を出さないかもしれないが、牛乳まで売っているのだから、その消費期限が切れる前には補充に訪れるだろう。

 万が一この吹雪でそれが叶わなかったとしても、自分は麓の警察署に登山届を提出している。だから朝になれば、捜索隊が動き出してくれるはずだ。彼らには迷惑を掛けて申し訳ないが、ここで待っていれば必ず助かる。

 ここまで考えて、ある疑念がよぎった。

 私は季節を問わず何度かこの山を登ったことがあるが、温泉など目にしたことはない。登山仲間からこの山に温泉があるという話を耳にしたこともなかった。

 この温泉は本当にあるのだろうか、つまり、全ては私の幻覚なのではなかろうか。

 考えてみれば、険しい山中にこれだけの設備のある温泉があるとぃうのも不思議だ。さらに、これだけの規模であれば常駐する人の姿があってもおかしくないのに、人っ子一人いない。

 ――現実の私は、アウターを脱ぎ捨てて雪に埋もれ、雪を飲み下しているのかもしれない。

 寒さによる極限状態は、人を狂わせるという。私がそうでないという保障はなかった。

 だが、私は、この疑念に対して自分でも驚くほど動じなかった。

 ――仮にそうだとして、どうなるというのだ。

 もしこれが私の見ている夢であるならば、むしろ幸運と言えるのかもしれなかった。自らの運命を恐れ、呪い、後悔して最期を迎えるよりも、この「極楽」の中で逝けた方がどれだけ安らかだろう。

 私はこの件をこれ以上考えないことに決めた。

 少なくとも、私は湯の熱さや牛乳のうまさを、現実味をもってこの身に感じている。それが最も重要なことだ。



 牛乳を飲んで少しばかり涼んだ後、私は再び浴室へと向かった。

 先ほどは湯を渇望するあまり気に留めていなかったが、それなりの広さがある。すりガラスの引き戸から入ってすぐ、壁に沿ってシャワーと風呂椅子が五つずつ並んでいる。それとは別の辺に、さらに二つシャワーが設置されていた。

 シャワーの個数から考えると浴槽はこぢんまりとしている。大人が五人も入れば足を伸ばせなくなるような大きさだ。だが、少し熱めの温度で設定されているのか、硫黄の香りのする湯気がもうもうと立ち上るさまは圧巻だ。浴槽の縁は石のタイルで覆われており、そこだけがやたらと現代的だった。

 今度は湯船に浸かる前に、シャワーで丁寧に身体を流す。顔を洗うため風呂桶を動かしたところ、かぽーんという音が響いた。なんとも趣がある。

 古めかしい脱衣所の印象とは異なり、シャワーは比較的新しいもののようだ。脱衣所の奥にあった手洗いも、便座に暖房まで付いていた。風情は残しつつ、利便性の高いものは積極的に取り入れる、そんな方針なのだろうか――この場所に管理者がいるのなら、だが。

 身体を清潔にしたところで、湯船に浸かる。

 湯船は、先ほどと変わらぬ心地よさで私を迎えた。ゆとりがあるものだから、足を伸ばしたり広げたりして、筋肉の疲れをほぐしていく。ゆとりがあるのは何もスペースだけの話ではない。私の精神においても、この状況を楽しむだけの余裕が生まれている。

 ――そういえば、浴衣のことを「湯取り」と呼ぶこともあるとか。

 私の頭にできた余地の部分を、脈絡のない考えが跳ねては消えていく。

 それらを消える前に捕まえて、湯に浮かべて眺めてみる。

 くだらない思い付きや、無意味な連想が目の前をぷかぷかと漂っていく。

 ――生きている。

 そう実感した。

 少しのぼせているのかもしれない。

 段差部分に腰掛けて半身浴の姿勢を取ってみる。歓楽地でするような温泉の味わい方だ。近所の銭湯でも試したことがなかった。

 私は、つい一時間ほど前、遭難してさまよい歩き、ある種の覚悟を決めたばかりだったのである。そのことが信じられない。

 神や仏はいるのかもしれない。あるいは、狐や狸に化かされでもしたのだろうか。

 ――どちらでもよかろう。

 私は、濁り湯を覗き込むように、深くこうべを垂れた。



 再び湯から上がり、冷蔵庫からコーヒー牛乳を取り出す。

 食欲はないが、そろそろ何か腹へ収めておかねばならない。

 食料として私はチョコレートバーやせんべい、どら焼きなどを携行していた。今日は相当にエネルギーを消耗しただろうから、十二分にカロリーを取っておく。

 どら焼きはコーヒー牛乳とよく合う。甘いもの同士であるにもかかわらず、不思議なものだ。

 結局、食欲がないと言いながら、私はどら焼き二つにチョコレートバーをぺろりと平らげてしまった。

 腹が膨れたとなれば、次は睡眠だ。

 脱衣所は風呂場の熱気で暖かい。だから、その辺の床で眠っても問題ないだろう。

 それでも湯冷めしてはならないからと、浴室に比較的近い場所に寝袋を敷いてみる。

 インナーのまま袋へ滑り込んでみると、確かに温かい。しめしめと丸まって目を閉じていると、次第にしっとりと汗ばんで来る。たまらず、私は寝袋から這い出た。

 風呂場の熱気は私の想像を超えていた。このままでは、寝汗をかいて逆に体調を崩しかねない。

 結局、私は風呂場から一番離れた隅に寝袋を置くことにした。アウターを着ていないにもかかわらず、ここが最も適温だ。私の身体では、熱の残滓がまだくすぶっている。それを、玄関の方から滑らかに漂ってくる冷気が丁度よくいなしてくれた。寝袋の中に突っ込んだ手足の先は、ぽかぽかと温まっている。

 耳を澄ましてみる。風呂場からは、わずかに湯の流れる音がちょろちょろと聞こえてきた。それは鹿おどしにも似た、心を鎮める響きだった。

 五感を研ぎ澄ましてみる。身体の火照りと頬に触れる冷気、源泉の音、舌に残るコーヒー牛乳の味、瞼の裏にまで伝わって来る天井の明かり。

 硫黄の匂いもわずかながら漂ってくる。

 ――卵があれば、温泉卵が作れたな。

 よく分からない思考がまた浮かんでは消える。登山に生卵を持ってくる馬鹿がどこにいるのか、と自分で突っ込みを入れ、少し笑った。

 しばらくそうして横になっていたが、一時は極度の興奮状態に陥ったためか、なかなか寝付けない。あるいは、明かりが煌々と点いているせいかもしれなかった。

 私は子どもの頃住んでいた家の風呂について考える。それは、眠れない夜のひそやかな習慣だった。狭いステンレスの浴槽。子どもには深すぎて、あぐらをかくと口まで沈んでしまうから、正座の状態で湯に浸かる。壁は古めかしいタイル張りで、タイルのはがれてしまった箇所がいくつかあった。湯に浸かりながら、意味もなく、タイルのはがれた跡を指でつついたものだ。

 いつもなら、郷愁に浸っているうちに寝入ってしまうのだが、さすがに今日はそううまくいかないらしい。

 私は即時の入眠をあきらめて、寝袋から腕を出し、手帳に今日の出来事をしたためてみる。

 書きながら、また笑えてきてしまった。湯のすばらしさ、牛乳のすばらしさ、どう見てもただの温泉旅行記だ。岩場の影で遺書を書こうとしていた私が、今こうして温泉に関する文章を書きつけている。そのことがどうにもおかしい。

 やがてその内容は、ステンレスの浴槽やタイル張りの浴室のことについてまで波及した。どうやら、身体や頭の疲れは本物のようだ。目だけ覚めていても、その実、脳は働いていない。

 それでも、徒然なるままに満足するまで書き上げてみると、眠れそうな気がしてきた。私の頭にはうっすらと霞がかかっている。その向こう側から、少しずつ眠気が近付いてきているのだ。

 ――それとも、これは霞ではなくて、ただの湯気だろうか?

 やはり、私の思考にはとりとめがない。

 ――明日には救助が来るに違いない。数日来なかったとしても、牛乳だって食料だってまだある。ここでなら、命をつないでいけるだろう。

 ふっと肩の力が抜けた。息を吐いて、肩を開くように脱力する。いつの間にか、また力が入っていたらしい。

 ――助かる。タイルの跡をなぞっているうちに。

 私はいつしかまどろみの中に沈み込んでいった。



 翌朝目覚めると、私はまず、自分がまだ温泉の脱衣所にいたことを喜んだ。一時の淡い夢と消えることなく、確かに私は温泉にいるのだ。

 そうして私は救助されるまでの間に、都合三回、湯に浸かった。

 分厚い装備に身を包んだ捜索隊の面々が引き戸を開けたとき、私はインナーのまま「いちごミルク」をあおっているところだった。

 一人が、私の名前を呼んだ。

「はい、私です」

「よかった、御無事で」

 大勢の人に大変な迷惑を掛けてしまったことは自分でもよく分かっている。私は彼らに向かって深く頭を下げた。

「行きましょう。体調はどうですか」

「体調は何ともありません。服を着ますから、少しお待ちください」

 隊員たちも温泉が物珍しいようで、脱衣所を見回したり、風呂場を除いたりしている。

「こんなところ、あったか?」

「いや、知らない」

「おい、トイレもあるぞ。ちょうどいい、借りていこう」

「それにしても暖かい」

 そんな声が聞こえてくる。

 低体温症を引き起こしている様子はなく、本人も健康そのものだと口にしてはいても、念には念をということで、私はスノーモービルに連結されたそりの上へ寝かされた。

 光沢のある断熱シートで身体をくるまれ、そのまま引きずられていく。

 断熱シートは確かに寒さを防いでくれたが、あの湯船のような、身体の芯まで流れ込むような温かさはなかった。

 私は顔を動かし、真上を見上げる。名も無き温泉の暖簾が見えた。それは私が来たときと変わらず、まっすぐに凍っている。

 スノーモービルが発進した。館は、私の視界からあっけなく消え去った。



 麓の病院で私は検査入院をすることになったが、凍傷の一つも負っておらず、すこぶる健康だった。

 その後、方々に頭を下げて回ることになったものの、命を落とすよりはよほどいい。迅速に動き出してくれた警察や救助隊には、感謝してもしきれない。

 後から聞いた話だが、やはり温泉の存在は私の幻覚ではなかったようだ。救助に来た複数の隊員たちもはっきりと温泉を目撃している。

 私は雪解けを待ち、今度はガイドを伴って、例の山に登ってみた。自分が遭難した地点はおそらくここだろう、という近辺を探してみたものの、温泉の館は影も形もない。

 今回の件で懇意になった救助隊員の中にも、あの温泉が妙に焼き付いて忘れられず、数人連れ立って探しに出た者がいたそうだ。しかし、山をよく知る彼らも、結局温泉どころかその形跡すら――引湯路や電線すら――見つけることができなかったという。

 杳としてその在処がつかめないまま、それでも温泉はどこかに存在しているのだろうと私は信じている。

 凄まじい湯気と熱気を放ちながら、人里離れた、遭難者の出るような山中に、ひっそりとたたずんでいるに違いない。

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