第14話
画面が消えたらすぐに消えてしまう、影もできない世界の中で、分身の存在は大きくなりつつあった。当然、早瀬純の効果である。
面白がってか、小出しにしている顔の一部を組み合わせられ、顔を想像される。読者モデルのだれだれだの、地下アイドルのこの子だのと華やかな人物に例えるから、私は本当にそうなったのではと幸せな錯覚に陥った。
偽装彼女としての報酬は生活ランクが変わるようなものではなく、残業数時間程度だった。それなのに、相応の女にならなければと、今までは手を出そうとも思わなかった高価で上品な服を買うようになった。表参道の細道にある小洒落た美容院に月一で通い、艶々と透き通った髪の毛を維持した。私は平凡な会社員でしかないのに、こんな地味な仕事やっている意味あるのかと、高飛車な気持ちを抱きはじめていた。
早瀬純との時間は息抜きみたいなもので、難しい辛いと頭を抱えることはない。偽装恋愛にありがちな、特別な気持ちを抱くというようなことは全くない。相手が相手なだけに時間と労力の無駄であることは明白だったから、割り切ることが出来た。
早瀬純とは他愛のない会話ばかりで一度でも彼を媚びた目で見たことがなかったからだろうか。マネージャーの坂戸さんは私に絶大な信頼を置いてくれている。最初は坂戸さんと集合し、解散は坂田さんに改札まで見張られるていたが、一か月もすると集合も解散も現地となっていた。偽装工作が実り、ストーカー被害が落ち着いてきたからかもしれない。
最初はテーブル席で離されていたが、カウンター席や半個室と物理的な距離が縮まってくるにつれて、彼は心を開くようになり、ざっくばらんに悩みを打ち明けるようになった。友達もいない東京に上京してから、あまり心を許せる人がいなかったのだろう。それに私は業界人じゃないから気持ち的に楽だったのかもしれない。私の方はというと、初めに会った時と何も変わらないでいたつもりだった、
東京を一望できる高級ホテルの最上階でお茶をし、夜景の入り口が見え始めた頃、彼がふいに私を引き止めたのが終わりの始まりだった。
「僕、明日何もなくて……まだ話し足りないし、僕んちで飲みませんか?」
早瀬純が、ホテルの入口でタクシーを待っていた私におずおずと声をかける。
「別にやらしい意味じゃなくて。ただ、人の目を気にせずに飲みたいなってだけなんですけど」
恥ずかしそうに照れ笑いする姿が、すごく可愛いかった。出会った時は血が通っているのか不安になるくらいに神々しい彼だったが、親しくなるにつれふと気を抜いた瞬間に、飾り気のない素朴な少年の横顔を見せるようになっていた。
「どうしたの、いきなり。なんか」
私が言い終わらぬうちに、彼は私が待っていたタクシーに最寄りのスーパーの名前を告げた。メーターが上がるギリギリ前で車を止め、使い古されたコインケースで勘定する。どうせ経費で落とせる癖に意外とそういう金銭感覚は持ち合わせているようだ。生鮮売場の照明で彼の高い鼻が綺麗な肌を陰らせ、彫刻のように洗練された彼の美しさを際立たせる。
「僕、意外と料理好きなんですよ。だけど、作っても感想を言ってくれる人はいないし、いざ作ったところで何日も同じものを一人で食べることになるから、だんだん嫌になってきちゃって。だから久しぶりに誰かに御馳走できるのが嬉しい。任せてください」
彼が家でといったのはそういう意図があったのかと納得する。私の好き嫌いを確かめ、食材を手に取っていく。特定のメニューの必要条件を満たしながら。
そんな彼を見て、まだまだ若いなと思う。私が悟の家に入り浸っていた時、週一の買い出しは汎用性とコスパを重視した。食材をいかに上手く使い切るかが勝負なので、野菜炒めといった、お洒落な名前をつけがたい平凡なメニューばかりだった。
目の前にいる美少年は、シーザーサラダと、アヒージョと、ラザニアという献立に固執する。一人で使い切れるのか考えているのだろうか、ネットに複数入ったニンニクを買う。相変わらず野菜はどれも高いのに迷う気配はない。セールになっているロングパスタには目もくれず、定価のラザニアを手に取る。
この場合、お会計はどうすればいいのかと卑しいことを考えていると、カートは酒コーナーへと進んでいた。いつもの「デート」では色とりどりのカクテルや舌をかみそうなワイン、聞き馴染みのない日本酒やらと、おおよそ家庭では飲めないようなものばかりだから、チューハイを選んでいる彼が新鮮だった。
セルフレジでバーコードを手慣れた手付きで拾っていく彼を見ると、一般人と芸能人は案外と壁なんてないものだと思えた。たまたま何かを介して見ていただけで、彼等と私とで住む世界が違うわけではない。液晶や紙といった媒体は住む世界を分けるものではない。スポットライトが誰に当たっているかを示すものだ。だから、彼らの領域と私の領域が重なる部分が見つかる度に私は安堵した。私もまだ光の近くにいるんだと実感できるから。
いつの間にか会計が終わっていたらしく、彼につつかれ、出口へと向かう。スーパーを出て五分くらい歩いたところに、二十歳の少年が住むには似つかわしくない高級なマンションが佇んでいた。少し周りを見回した後に、オートロックを解錠する。最近越してきたばかりらしく、手つきが微かに辿々しい。彼の素早い動きにつられ早足で歩いていたら、不覚にもヒールの音が鳴り響き、恥ずかしさと申し訳なさで顔が熱くなる。エレベーターに入ってから、彼は目尻に皺を寄せて笑う。
「ここでは存在感出さないでってば」
彼のプライベート空間に足を踏み入れているからだろうか、今日の彼は何だかずいぶん身近に感じる。それが私にとって喜ばしいことなのか、私の表情筋は判断しかねている。
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