第7話

お金がないのと、通勤不可能な距離ではないから、西東京から満員電車で港区の勤務先に通っている。高校から電車通学をしているというと、じゃあ慣れっこだねと言われるが、そんなことは決してない。申し訳ないが中年男の汗はいつになっても不快だし、女性の髪が顔に触れてうっとおしい。一時間立ちっぱなしというのも、なかなか疲れるもので、時折足先が痺れることもある。そして、下ろしたての靴を踏まれた時、すべてを否定されたような悲しい気持ちになる。何年たっても、牢獄のような空間に慣れる兆しがない。

派手な赤いコートに身を包んだ大学生風の女が必死でスマホをいじっている。エネルギー節約のため、電車内では何もしないようにしている私にとって、朝からスマホをいじり倒せる女が羨ましかった。

その女は私より背が低く、嫌でも画面が目に入ってしまう。ホーム画面を見て笑いそうになった。いかにも、一部地域で人気がありそうな、若く化粧気のある男が、キメ顔をしていたのである。私も高校生の頃はジャニーズを待ち受けにしていたっけ、と懐かしくなる。スマホは画面が大きい分、こっちが恥ずかしくなるほどアピールしてくる。

興味本位で彼女の動向を見ていると、ホーム画面の男のツイッターを見ているようだった。有名人はすごい。ただのランチさえ、不特定多数のファンたちにお気に入りにされる。ファンたちは少しでも同じ世界に生きていることを感じたいと熱望し、彼のいた場所に訪れる。とはいえ、それは公開用のプライベートに過ぎない。


通勤ラッシュの新宿駅は、文字通り人が川を作っていて、流れに逆らうのが難しい。滝登りをして龍になろうと頑張るけど諦めてしまう鯉の気持ちが、少しだけ分かる気がする。未だ龍が現れないのは、仕方ない。池で暮らすだけで十分幸せだと先人が気付いてしまったから。

悟の結婚式の光景が頭から離れない。二人の幸せはもちろん、多くの人たちに祝福されていた。私が思い描いた光景そのものだったけど、私は花嫁ではなくただの招待客だった。

心が再びざわつきはじめる。別れた時ほど激しくはないけど、落ち葉がさらわれるくらいの風がそよそよと吹きはじめる。風が強くなるにつれ、私の呼吸も荒くなる。私は池の中じゃ満足できない。


無意識にさっきの女が惚れ込んでいるキメ顔男――もといハヤトのネットでの住所を打ち込んでいた。彼は頻繁に更新しており、頭の悪いツイートにまみれている。プロフィールを見ると、歌う種類の人間らしく、一部地域では結構人気なようだ。聞いてみたが、なんだか人工的なピコピコ言う電子音がうるさくて最後まで聞けなかった。

偶然にも、私の会社の近くのパスタ屋が彼のお気に入りの場所であることが分かった。二週間に一度くらいのペースで通っているようだ。もしかしたら近くに事務所やレッスン場所でもあるのかもしれない。私のお気に入りの窓際の席が、彼もお気に入りであることも分かった。庶民だからリアコ宜しくねアピールにこの店が使われているだけだろうが、おう、お前分かってんじゃんとテンションが上がる。気に入りは定番メニューのジェノベーゼらしい。

その日の昼に会社の同僚と店に入り、パスタを注文する。二つ並んだジェノベーゼを人物が入らないように撮る。行き慣れている場所だけに、同僚は不審な表情をしたが、友達が行きたがっててと誤魔化した。

やることは決まっていた。まず、別アカウントを作る。「@akarin_***」、ニックネームに誕生日という、ありきたりなアカウント名である。なんとなく好きだったアイドルの名前を拝借し、誕生日は素数になるようにこだわった。

アカウント登録が終わったら、片っ端からインフルエンサーをフォローした。あまりフォロワーがいない人からはフォローが返ってきたり、怪しげな美容系のアカウントに勝手にフォローされたりと、フォロワーはすぐに百を越えた。

誰も興味がないであろう、「今日のコーデ」「ランチなう」「最新ネイル♡」と、ネットで拾った画像を加工し、薄っぺらいツイートを繰り返す。

そして、美意識の高い記事をせっせとリツイートをしていると見ず知らずの男女からもフォローされ、一週間にしてフォロワーは三百を超えた。

私を土台にした分身が人気を博し、有名なったようで、優越感を覚えた。画像加工とは素晴らしいもので、手軽に整形が出来る。顔を小さく、目を大きく、唇を厚くすると簡単に別人が出来上がった。それでも「@akarin_***」という私の分身は、仮想世界の中で確かに実在していた。

さあ、舞台は整った。あとはハヤトがツイートするのを待つのみ。もともとあったアカウントでハヤトをフォローした。念のため、何日も加工しては保存という作業を繰り返し、複数日の画像を用意できている。

ついに上機嫌なツイートと共に例の店の写真が上がる。彼のツイートはひたすら自分のものだけ写そうとした感じが強く、一人なのか二人なのか分かりづらい。好都合である。パスタの程良いてらてら感が美味しそうだ。ほくそ笑みながら、温めておいたジェノベーゼが二つ並んだ画像を添えて私はツイートする。


[久しぶりに会った友達とパスタランチ♡]


勿論、すぐに反応が来ることは期待していない。どーせローカルアイドルだ。私のフォロワーは大抵外見にしか興味のない女や、リアルな繋がりとエロ画像を求める男共だけだった。予想は良くも悪くもその通りで、何も変化はない。自己啓発系のセミナーの勧誘に精を出している男に美味しそうですねどこですかというリプライを貰うだけだった。


次に仕掛けたのは、ハヤトのライブの楽屋に訪れた風を装ったツイートである。


[ライブ頑張って欲しくて、思わず大人買いしてしまった]


ハヤトはブラックサンダーが好きだというので、近くのドンキホーテで大人買いした。私も好きだったので都合が良かった。少しは効果あったが、まだ懐疑的なようで、ファンからのアクションは観察に留まった。

うーん思うようにいかないぞと気持ちが暗くなる。やはり、桃代の時みたいに、本人の姿がないと信憑性は薄いのかもしれない。落胆している中で、ルーティンワークであるキラキラOLアピールのために土曜日の昼下がりにツイートする。


[スタバでキャラメルスチーマー。友達遅くて飲み終わりそう]

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