第6話
久しぶりに会った悟の近況報告は、予想以上に耐えがたいものだった。
「来年の夏に海外赴任が決まった。彩香を連れて行こうと思ってる」
頭が真っ白になる、なんて表現は控えめだと思う。目の前が真っ白になったというより、私だけ世界から切り離されたような気がした。SFでよくある、未知なる惑星に取り残される気分というのは、きっとこんな気持ちなのかもしれない。心細さよりも絶望が勝つ。助かる手段が何もないことが嫌でも認めざるを得ないから。
悟と彩香が続いていたことはSNSや友達を通して知っていた。でも、悟が彩香を将来の伴侶として向き合っていることは知らなかった。暫くたったら私のもとに帰ってくるのではないかと、心のどこかで思っていた。
残酷なことに、今日は十一月になったばかりで、私の誕生日まで一週間を切っていた。このタイミングで呼び出されたから、もしかしたらという気持ちが少なからずあった。あちこちでイルミネーションが輝き始め、人々が夢を見る季節の中で、私も夢を見ていた。追い打ちをかけるように、悟は言葉を続ける。
「だから、急なんだけど、来年の五月に式を挙げようと思ってる。彩香が日本にいるうちに挙げたいって言ってて」
きっと、魚のようにぱくぱくと呼吸することですら必死だったのだろう。私の体は、最低限の生命維持活動しか出来なくなっていた。臓器が主人の気持ちに鈍感なことに感謝したい。別れた直後の私はまだ怒りの感情が残っていて、ある意味人間らしかった。今の私ときたら、表情をなくして、きっと死んだ魚のように目に光がないだろう。そんな私を見たことがない悟は少し戸惑っていた。
「へえ」
どうにか反応しなきゃと絞り出した声はなんとも情けのないものだった。動揺しているのを隠したいという気持ちが湧き上がる。
「思ったより早いから、びっくりしちゃった」
そこまで気にしていないよという風に、私は悟に控えめに返答した。悟はそれをどう受け取ったかは分からないが、いつもの優しい声で、私の胸にぐさりと矢を放つ。
「招待したいんだ」
元カノを招待したいなんて、どういう風の吹きまわしなんだろう。それこそ「お前、頭おかしいんじゃないの」と悟から言われた言葉を心の中で反芻する。私の心中を察したのだろうか、悟は種明かしを始める。
「きいとは、あんな別れ方をしてしまったけど、友達として、ずっと付き合っていきたい。だから、結婚式が、そのはじまりになれば良いと思って」
空っぽの心に風が容赦なく吹き込む。胸が苦しい。風の通り道を作ってやりたいのに、道は塞がっていて、出口が見えない。
ほどなくして、招待状が届いた。悟は私の歌う「ハナミズキ」が好きだったからもしかして、なんて思ったけどさすがに彩香に気を遣ったのだろう、余興の依頼はなかった。君とすきな人が百年続きますように――一青窈みたく、私には好きな人の幸せを願うことは出来るだろうか。桃代に強要してしまったけれど。
悟から結婚の知らせを聞いてから、私はショックが一周回ってか、だいぶ穏やかになった。だから大抵のことはへえそうなんだ仕方ないねと流せるようになっていた。だから、一青窈になれるかもしれないと根拠のない自信があった。友達として一番になれば良い。悟とつながってさえいられればそれで良い。
式当日、大学時代の友達はやはり私の顔色を窺っていた。哀れまれるのが嫌で、久しぶりにみんなと会えて嬉しい、と気にしないふりをした。周りが私を好奇な目で見ている気がして、新郎新婦ときちんと話すことはなかった。
私自身、二人の、特に彩香の半径一メートル以内に近付きたくなかった。遠目では綺麗な花嫁姿だったが、近くで見たらファンデーションもだれて汚いに違いないと思わないとやってられなかった。それでも、主役のふたりに目をやってしまうのは、悟が今までで一番格好良かったからだ。白いタキシードがすごく似合っている。二人の距離の近さが私の気持ちを滅入らせた。
もうしんどくて、二次会が終わるのを待たずに帰路へ着いた。悟の言う「はじまり」には程遠く、私は友達として付き合うことなんて出来ない。悟との関係は完全に終わったんだと思い知らされただけだった。
私は何のために生きてるんだろう、と電車の中で堪えきれず涙が出た。駅から家への帰り道、声が響くくらい泣いた。翌日が休みだったから、家についた途端、焼酎ボトルと炭酸水、本来はハイボール用のグラスを自分の部屋に持ち込み、氷も入れずにしこたま飲んだ。シャワーを浴びる気になれず、化粧だけ落として寝た。
この状況を作り出したのは彩香に違いない。馬鹿な私は招待状を悟に許されたのだと免罪符のごとく抱きしめていたが、これは彩香からの復讐、否、警告に違いなかった。「私たちに近付いたらこれ以上惨めな思いをすることになる」という趣旨の。私はその警告通り、近づかないようにする他ない。心が参る、「惨め」という言葉が、今の私の感情を表現するのにぴったりと当てはまる。心が参り、だらんとしなった後、とうとうぽきりと折れた。「私」として生き続けられる自信を失った。
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