第5話

部屋に戻ると、愛しのスマートフォンが充電器に繋がれたまま私の帰りを待っていた。不在着信二件。言うまでもなく、桃代からである。こちらからかけるのは癪なので、たっぷりとボディークリームを体に塗り込んで待つことにした。

今使っているものは、数年前のクリスマスに悟から貰ったものだ。ボディークリームとかハンドクリームの類はプレゼントの定番かつ長持ちするので、なかなか無くならない。香りが変わらなければ使っても大丈夫、きっと体には影響がないと、言い聞かせながら使うようにしている。クリスマス前に喧嘩をし、当日やっと仲直りしたものの、お互い何も用意しておらず、伊勢丹でそれぞれ好きなものを買うことにした。私はジルスチュアートのチークやリップ、アイシャドウ、そしてボディクリームを買ってもらった。それに対して悟が選んだポールスミスのマフラーは、私のごちゃごちゃした化粧品たちよりも高くついた。予想外の額に驚く悟が可愛かった。そんな年代物のボディークリームを塗りたくっていると、ラインが来た。

{電話に出てもらえないようなので、ラインで送ります}

トップ画面上で見えている文字はここまで。これを読もうことには既読がつき、返信しなくてはならない。いや待て、関わりなんてないからシカトしてもいいし。そう思ったら気が楽になり、歯ブラシを取りに行った後に彼女からのラインを開く。長ったらしいし、日本語がところどころ変で読みにくい。

簡潔に言うと、拓也に彼女がいるとは思っていなかった、拓也は私なんかと釣り合わないから嫌な予感は少ししていた、だけど私は諦められない、そんなような内容だった。

よくもまぁちまちまとこんな長文が打てるなー発狂しそうにならないのかなー縦読みどこかなー、とおそらく彼女が一生懸命打ったであろうラインを揶揄する。

{もう何も聞きたくない}

無駄にプライドが高いため、傷付いたことを隠すタイプであるが、戦いを挑まれた以上、相手の戦力を削ぐことが勝利への唯一の手段である。歯ブラシ中である以上、電話に出ることはできない。とりあえず話せないほど傷ついているように見せかけようとする。我ながら策士である、天晴。私の中に罪悪感は不思議とない。私どうしちゃったのかな、モラルハザードってまさにこのこと、道徳の授業もう少し聞いていればよかったのかなぁ、心のノートもう捨てちゃったかなぁ、と自らの道徳心の欠如を心配する。「お前、頭おかしいんじゃないの」という悟の声が頭に響く。

明日は何も予定がなく髪の毛をセットする必要がないことに気付き、タオルを頭に巻いたまま、ベッドに潜り込み、スマートフォンを握る。このまま寝ちゃいたいな、と思った矢先、タイミング悪く電話が来た。

「もしもし、何度もごめんなさい」

周囲が静かだからか、先ほどの電話よりも声が小さい。

「ごめんなさい、私、こういうの初めてだったからまだ気持ちの整理ができていなくて。その、たくとはどこまで?」

自然と出た声は泣き疲れ、少しかすれていた。他人の床事情なんて興味ないが、何でか彩香と重なってしまい、問いかけてしまう。

「……ごめんなさい」

おーやっぱり。付き合って一ヶ月は過ぎているわけだし、おそらく元々友達だったのだろう。当たり前の話である。桃代と彩香は別人なのに、彩香への怒りがぶり返される。

「信じらんない。あなたに非はないけど、たくのこと、信じてた私がバカだった。この前会った時、週末も仕事が大変でとか、そんなの、嘘だったんだ……」

気付いたら嗚咽交じりに悟への気持ちを吐露していた。さっきまでお風呂で汗をかき、号泣していたというのに。自分の体からこんなにも水分が出るのかと、我ながら驚いた。

「ごめんなさい……でも、本当に知らなかった、まさか、彼女がいたなんて」

「桃代チャン、ごめんね。私が駄目だったせいで、桃代チャンまで巻き込んで、私なんて言ったらいいか分からない」

悲劇のヒロインスイッチが完全にオンとなっている。絶好調。

「桃代チャン、ほんとにごめんなさいなんだけどね、今回は手を引いて欲しいの。出来ればスムーズに」

電話越しで私と同じく嗚咽している桃代に、そっと呼びかける。少しだけ静かになったところで、容赦なく交渉を始める。

「私、このことは知らなかったことにしたい。だって、結婚の約束してるんだもん」

驚くほどの静寂。加湿器だろうか、こぽこぽと音が聞こえた。

「それは……婚約してるってこと?」

私が優位に立っているということだけで嬉しくなる。

「去年のクリスマス、ボーナスはたいて、ダイヤモンドの指輪を私に買ってくれたの。今年の五月から一緒に住もうって言ってくれたの。高校生の十年越しの約束がね、叶うんだよやっと。今回のことはショックだけど……ある意味最後の自由な時間に他の子と会って、本当に私でいいのか、確かめたかったのかもしれない」

悟がそうあれば良かったのにという思いが混じる。

「だから、上手く振って欲しいの。私のことに気付いていないふりをして。私とあなた、被害者同士だけど、でも同じ人を好きになった。好きな人の幸せを望むのは同じだよね」

もう、加湿器の音は聞こえない。おそらく、水がなくなってしまったのだろう。その代わり、桃代の過呼吸気味になっている息が聞こえた。一日に一度だけ訪れる、長針と短針が重なる瞬間は目の前だった。

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