第169話 トグロ様

 その後数日、里で過ごした僕だったが、諸々の挨拶を済ますと、身だしなみを整えてから、紫山へと足を伸ばした。


 紫山はこの地方における最高峰だ。


 名前通りの紫煙によって覆われたその屹立は、神秘の威容を湛えて、僕たちを見下ろしている。


「ここが、私たちの里が利用している祭壇です。季節の変わり目に合わせてお祈りしたり、何かあれば捧げ物をして、助力を乞うこともあります。もし祈りが通じれば、紫山の霧の一部が晴れて、通れるようになるはずですよ」


 ミリアに案内されたのは、紫山の手前にある祠だった。


 それは、奥まで貫通しているかまぼこ型の自然の洞穴で、向こう側には紫山が望める位置にある。


 その中心には、青みがかった光を放つ金属で造られた直方体――祭壇が鎮座していた。


 僕は深く一礼してから、祠に一歩足を踏み入れる。


 気温が一段階下がった。


 ダンジョンのそれとは違う、神社の鳥居をくぐった時のような、厳かな空気が肌を撫でた。


「……なんだか緊張するな。ミリアはトグロ様に会ったことはあるの?」


 沈黙に耐えかねて、僕はそう口を開いた。


「私はないです。里としてお願いする時は、長とか、上役の者が代表して拝謁するので。いえ。でも、そうですね……もしかしたら、私が気が付いていないだけで、会っているのかもしれません」


 ミリアは考え込むように腕組みしながら答える。


「どういうこと?」


「ええっと、トグロ様は大いなる自然の力を司る方ですから、いかようにも姿を変えられると聞いています。雲とか、土とか、雨とか、鳥とか虫とか、色々な形で私たちを見守ってくださっているそうです。ですから、この辺りで育った者は『トグロ様に見られても恥ずかしくないようにしろ』と小さい頃から口を酸っぱくして教えられます」


「そうなんだ。なんとなく分かるよ。僕の元いた国にも、『お天道様が見てる』って言葉があるんだ――じゃあ、早速、祈らせてもらうよ」


 ミリアに頷きつつ、僕は祭壇の前で足を止めた。


 捧げ物は、旅費として必要な分を除いた、残りの現金全てだ。


 先ほどのミリアの話を聞くに、トグロ様とやらが、現金を貰っても喜びそうな気はしないが、要は誠意が伝われば何でもいいらしい。


 里の人に聞く限り、祈るに当たっての作法も特にないそうだ。


 どうやら、トグロ様は細かな所は気にしない、鷹揚な存在らしい。


 僕はとりあえず、目を瞑って、神社っぽい柏手で祈りを捧げた。


 ミリアも、僕の隣で、ヒーラー特有の合掌のポーズをして祈りを捧げている。


「……こないね」


 半時間ほど経ってから、僕は目を開けた呟く。


「……きませんね」


 ミリアが気まずそうに繰り返した。


「やっぱり、僕が人間なのが問題かな。それとも、捧げ物がまずかった?」


「いえ。そこら辺は、大丈夫だと思います。ですが、トグロ様は私たちとは違う時間の流れを生きていらっしゃるので、仮に受け入れてくださるとしても、私たちの祈りに気付かれるまでに時間がかかることはままありますよ。一週間とか、一年とか、子どもの時にしたお願いが、老人になってから叶うなんて話もよく聞きます」


 なるほど。


 そういう意味でもアバウトなのか。


 そりゃそうか。


 大地や空の時間の流れを、僕たちの基準で図るのは傲慢というものだ。


「うーん。それは困ったなあ。今すぐに願いを聞いて貰わないといけない訳ではないけど、ずっとここにいるのは厳しいし、一旦諦めるしかないのかなあ」


 僕は頭を掻いてはにかむ。


『ねー。「あの方」に会いたいんでしょう? そんなまどろっこしいことしなくてもさ。ボクたちが呼んできてあげようか?』


 僕の頭の上でふわふわ浮かんでいた風の精霊が、退屈そうに欠伸をしながら紫山に視線を遣った。


 思わぬ所からの助け船に、僕は目を丸くした。


「そんなことできるの? 不躾に呼びつけて、トグロ様の怒りを買ったりしない?」


『怒られないよ。まー、あの方は親戚っていうか、ボクたちにとっては親みたいなもんだしね。契約でも繋がってるし』


 風の精霊はそう言って胸を張る。


「あれ? 君たちって、創造神様とも契約してるんだよね?」


『うん? そうだよー。キミたち的な言い方をすれば、あっちはお父さんで、こっちはお母さんみたいな感じ?』


 風の精霊は、自分でもいまいち言っていることを理解していないのか、そう呟いてから首を傾げる。


「よくわからないけど、取り次いでもらえるなら助かるよ。早速お願い」


『あいあいー』


 風の精霊が、一直線に紫山へと飛んでいく。


「あの……。タクマさん……」


「ああ。ごめん。精霊が、トグロ様に会えるようにしてくれるって言うから、頼んでみた」


 ミリアの説明を求めるような視線に、僕はそう応ずる。


「ええ!? そんなことができるんですか? ――いえ。でも、確かに、言われてみれば、精霊さんも自然の力の象徴ですし、トグロ様と仲良しでも不思議じゃないかもしれませんね」


 ミリアは一瞬驚いたような表情をしながらも、すぐに納得したように頷いてみせた。


『ただいまー。会ってくれるってさ。――どう? ボク、えらい? えらい?』


「うん。えらいえらい」


 僕はそう風の精霊を褒めながら、他の精霊たちと一緒にマナを分け与える。


「見てください! タクマさん! 紫煙が晴れましたよ!」


 ミリアが快哉と共に指さした先、薄くなった紫煙の一部が、僕たちの方へと流れてくる。


 それはやがて、雲の絨毯となり、山頂へと続く坂道となった。


「進んで、いいんだよね?」


「はい! 急ぎましょう! お待たせしたら失礼ですから!」


 僕とミリアは頷き合って、ゴムを踏みつけたような感触のする道を登る。


 半日程登っただろうか。


 歩を進めた先の山頂で、トグロ様は僕たちを待ち構えていた。


 それは、身の丈云百メートルを超える巨大な体躯の爬虫類――ではなかった。


 僕の目に映るトグロ様は、少年にも少女にも見える中性的な顔立ちをした人型だった。


 服は古代ローマの神々のようなゆったりとした紫衣を纏っており、仏像にも似たアルカイックスマイルを浮かべている。


 『トグロ』っぽい要素はといえば、頭のつむじから伸びた角が螺旋状なくらいだろうか。


「この世界のドラゴンってーー人型をされているの?」


「えっと。私には、ご立派な八枚の翼と九本の尻尾をお持ちの姿に見えるんですけど……」


 ミリアが首を傾げる。


「姿形に意味はない。私たちはお前たちが見たいように見えている」


 ドラゴンーートグロ様が呟いた。


 地鳴りと、たき火の爆ぜる音を混ぜたような独特の声だ。


 ということは、今、僕の見ている形は、僕が望んだ姿な訳だ。


 人型に見えているのは、きっと僕が、トグロ様に対して、会話と交渉ができる存在であることを期待しているからだろうか。


 一人に見えるのに、『私たち』と言っているのは、トグロ様が自然としてどこにでも偏在しているからか?


「……それで、あの。改めまして、僕はタクマ=サトウと申します。この度、トグロ様の御前にまかり越しましたのはーー」


「異界の者よ。『産み神』の寵児よ。必要ない。聞いていた。全て聞いていた。貴様は火を噴く筒を望んでいる。命を奪うための筒を。そのための鉄を」


 トグロ様はそう言って、僕に感情の読みにくいアルカイックスマイルを向けてくる。


『ああ、そうそう。僕たちの見聞きしたことは、全部この方に伝わってるからね。そもそも、この方から、あの方――キミたちの言う創造神様が星の力を借りる契約をしたから、僕たちが産まれた訳でさ』


 風の精霊が思い出したように呟く。


 風の精霊の口ぶりから察するに、もしかしたら、この世界そのものを作ったのは、創造神様じゃないのかもしれない。


 元々あった世界に、創造神様がヒトを送り込んだ。さらに、ヒトが暮らしやすいように自然エネルギーの利用権を借用し、魔法や精霊のシステムも整えた。


 だとすれば、必ずしもこの世界において、創造神様が万能でないと言っていた理由にも説明がつく。


 まあ、今はそんな世界の深淵にあれこれ思いを巡らせても仕方ないか。


「その通りです。僕は銃を作るための鉄が欲しくて、あなたの所に参りました。領民には仕事と、魔物に対する自衛用としての武器が必要だからです。スタンピードがまた起きたら困りますからね。まだ、僕の領地には、高レベルの常備軍を養うほどの力がないので」


 僕は脱線した思考を現在に引き戻し、素直に頷いた。


 全てバレているなら、あれこれ取り繕ってもしょうがない。


「労苦。それこそヒトの生を形作る全て。哀れよ。哀れよ」


 トグロ様は、全てを見透かしたように呟いた。


 いや、実際見透かしているのだろう。


「……お言葉ですが、結構楽しいものですよ。生きるって。神様のような存在の方から見れば、愚かに見えるかもしれませんけど」


「ヒトは生に貪欲過ぎる。際限なく求める。ヒトは産み過ぎる」


 トグロ様は、僕の、頭と、お腹と、下半身を順繰りに指して呟いた。


『大丈夫だって。このコはそんな悪いことはしないよ』


『魔族の糞野郎どもを滅ぼすのに絶対こいつは必要だぜ! 兄貴!』


『土のごとく穏やかなる者なり』


『清らかな心のヒトですよー』


 精霊たちが助け船を出すように、口々にそう呟いた。


「『産み神』はヒトを信じすぎる。私たちは信じない。しかして、魔は壊し過ぎる。悩ましい。悩ましい……」


 トグロ様はそう呟くと、首を三百六十度グルグルと回しながら逡巡する。


「正直申し上げると、未来のことは分からないです。僕が銃を作れたら、それが世界にどういう風に影響するかも、分からない。それでも、僕は今関わり合っているヒトたちのために、できることをやります。それが貪欲だとおっしゃるなら、そうなのでしょう。お気に召さないというなら、それはそれで仕方ありません」


「……未来は見えぬ。私たちにも見えぬ。『産み神』にも見えぬ。魔にも見えぬ――されども、嵐の予感は分かる。故に貴様を試す」


 トグロ様が白目を向く。


 瞬間、地面が揺らいだ。


 足下に火口のように空いた大穴が、僕を呑み込んでいく。


『うわっ。うわわっ。――これはきついな。しばらく助けてあげられないけど、頑張ってね!』


『雨降らぬ大地の種のごとく耐えよ』


『根性みせろや!』


『川はいつか海に通じますからねー』


 精霊たちの姿は、エールと共に掻き消えた。


「タクマさああああああああああああああああん!」


 ミリアの絶叫が響く。


「本質を証せよ。汝の、ヒトの、生の」


 内臓がひっくり返るような浮遊感の中、意味深なトグロ様のアルカイックスマイルが、静かに僕を見下ろしていた。

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