愛猫

山猫拳

 原因不明の頭痛が、二週間前から続いている。夜眠れないせいか、このところ記憶に曖昧あいまいなところが多い。仕事でも、何度も同じことを聞き返してしまっているようだし、一緒に暮らしている猫のミューにもご飯をあげたかどうか忘れてしまう。


 僕はまだ二十六だし、認知症にんちしょうなんてわけはない。ただ、一日に何回かひどい頭痛が起きて、普段なら覚えている筈のことが、上手く思い出せなくなる。仕事にも影響するし、何よりもミューの世話に支障が出始めている。ご飯用の皿をどこに仕舞ったか全く思い出せず、探しても出てこないので、新しく買う羽目はめになった。


 病院に行って、何か薬を処方してもらおうと思った。症状を伝えたところ、原因が分からないので、詳しく検査した方が良いと言われた。僕は有給を二日ほど取って、検査入院をすることにした。


 二日間、家を空けることになる。そのことで一番に心配したのは、ミューの世話だ。信頼できる誰かにお願いしなくてはいけない。二人の友人の顔が浮かんだが、一人は既に犬を飼っているし、もう一人は動物の世話には向いてない性格だと良く知っている。僕は近くに住む母にミューの世話を、お願いすることにした。


 僕のお願いに母親は驚き、躊躇ためらったようだが、検査入院のことを告げると、症状や信頼できる病院で検査するのかなど、色々と事細かに聞いてきた。


「あぁ、それなら心配ないよ、母さんも知っている。僕が昔お世話になった病院だよ。このところ仕事が立て込んでたから、疲れてるだけだと思うけど」

「そう……あそこなら、良い先生ばかりだものね。そうね、ミューのことは心配ないわ。私も病院には顔を出すから」


 僕は断ったが、母はがんとして譲らなかった。僕は高校生の頃に、風邪かぜこじらせて脳炎になり、長期間入院したことがあった。生死の境を彷徨さまようぐらい症状が重く、かなり心配をかけた。母は入院と言う言葉に、過去の思いを引きずっているのだろう。僕は検査のスケジュールを教えておいた。



 二日の休みを取るために、前日は遅くまで仕事をしていた。そのせいか検査着に着替えて横になっていると、眠くなってきた。さすがにMRIの轟音ごうおんの中では目が覚めたが。


 翌日の内臓検査のために、点滴を入れながらベッドに横になっている。僕の症状は頭痛なのに、なぜ内臓まで調べるのだろうと不思議に思うが、眠くて仕方がない。もし母が顔を出しても、話相手をしてあげられないかもしれない。ミューの様子ぐらいは聞けるだろうか。そう考えながらも、僕はいつの間にか眠りに落ちてしまった。


――――――

 話し声が聞こえる。けれども身体は動かない。もしかしたら夢を見ているのか。ベッドに横たわる僕の傍に、先生と母の気配がある。


「先生……泰史やすふみは、どんな状態なんでしょうか? またあの子に何かあったらと思うと、心配で」

「頭痛や記憶が曖昧になるなどの症状があるそうなので、記憶に関する検査と合わせて、MRIまで今日は終わったところです。器官は正常です」


 なんだ、やっぱり何ともないのか。少し疲れていたのかな。有給はほとんど消化できていないから、旅行に行ってのんびりするのもいいかもしれない。一人暮らしだし、何も心配はない。いや、違う。家には猫が……そうミューがいる。


「では、この子の言うように、少し疲れていただけなんですか?」

「いや、実は彼のような子には、たまに起きる症状です。海外の事例では、自己認識が保てなくなって、解離性障害かいりせいしょうがいを起こしてしまった例もあります。早めに対処しましょう」


「まぁ……何てこと! 実は、泰史やすふみからミューの……猫の話をされて、驚いていたところだったんです。泰史がとても可愛がっていた猫で……。けれどミューは、あの子がここに入院しているときに、亡くなったんですから」


 ミューが死んでいる? 大変だ、寝ている場合ではない。僕にとって彼女は、生きる支えだ。彼女のためだから、辛いことも頑張れるのに。僕の膝の上で眠るミューの、ふわふわの毛の感触。試験勉強で遅くまで起きているといつも……。どうしてこんな昔のことを思い出しているんだろう。昨日まで一緒にいた筈なのに、昨日は何をして過ごしたんだっけ?


――――――

「なるほど……そうだったんですか。記憶というものは、大脳や海馬かいばの中だけに存在するものではない、と言うことが分かっています。これは臓器移植でも多数証明されています。つまり、細胞の中にも情報が、引き継がれているということです。恐らく、彼の細胞の中に蓄積ちくせきされている、オリジナルの記憶が、混乱を起こしているのでしょう」


 何だか、難しいことを言っている。きっと大事なことだと思うのだが、僕は上手く考えられない。ミューのことも確かめたいのに、起き上がることはできず、意識はとぎれとぎれになる。


「そんな! このままだと、その……海外の症例の方のように、なってしまうんでしょうか?」

「大丈夫です。記憶をもう一度制限して、バイアスをかける治療法が近年進んでいます。明日はその治療を行います」


 治療? 僕は検査をするだけの筈だ。何をするんだ? だがこれ以上、意識を保っていられない。


「先生、お願いします! もう一度泰史を失うなんて……私、とても耐えられそうにない」

「大丈夫ですよ。クローン体の記憶障害は、私は既に数例完治させていますから。おそらく、その……猫が亡くなったこと、入院中に教えなかったのではないですか?」


「ええ、ええ……そうなんです。そんな状況ではなかったし、話せば気落ちしてしまうのは分かっていましたから」

「なるほど。分かりました。執着が強い思い出だったのに、オリジナルの泰史君の記憶と齟齬そごがあったためでしょう。明日の治療の後も少し通院してもらって、徐々に記憶を統合していきましょう」


「ありがとうございます。こんなことなら、ミューのクローンもお願いしておけばよかった」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛猫 山猫拳 @Yamaneco-Ken

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ