追憶・君のこと


 鴨川トシキが好きだった。


 女性に対して恋愛感情を抱いたことはなかったが──まあいずれは周りと同じようになるのだろうと漠然と思っていた僕にとって、彼への初恋は全ての伏線回収だった。

 そもそもが違うのだ。

 僕は自分がそういう人間であると、鴨川トシキというクラスメイトの存在で気がついた。

 当時よくつるんでいたグループのリーダー的存在だった柿崎に、彼女を作らないことをしつこくからかわれたから、内緒にしてくれるという約束で「僕は男性が好きだ」と白状した。

 すると柿崎はお前ホモかよと大声を出し、男子連中はみんな伊狩に狙われているぞとふれ回った。

 笑いものにされ、ただ用事があっただけでも男子生徒に話しかければ茶化された。

 逆に女子生徒には同情的か、あるいは好奇心を持つ人が多く、よく話しかけられるようになった。

 鴨川トシキは──トシキくんは、学級委員長で、写真部の活動では何度か賞を取っていて、みんなの人気者で中心人物というよりは「困ったら鴨川を頼れ」というふうに、誰からも信頼されているたぐいの生徒だった。

 日直の仕事が一緒になったときがあって。

 机を並べて学級日誌を書いていると、鴨川、伊狩に襲われないように気をつけろよと通りすがりのクラスメイトに笑われた。

 咄嗟に睨むと、ああ、あいつ俺も狙ってるよと下品な笑い声が響いた。

「失礼だね。あんなこと言う人、誰も恋人に選ぶわけないのに」

 トシキくんがきっぱりした口調でそう言った。

「……ありがとう、鴨川くん」

「トシキでいいよ。僕はああいう人は嫌いだ。傲慢チキで、自分の存在が他人に影響をもたらしていると信じて疑わない」

「い、言い過ぎだよ。……合ってるけどさ」

「ふふふ」

 控えめに目を細めて笑って、トシキくんは首を傾けて僕の顔を覗き込む。

「男なら誰でもいいわけないじゃんね」

「え」

「僕らにだって選ぶ権利はあるんですうー」

「と、トシキくんも、そうなの?」

「うん。今どき珍しいものでもないでしょ。だからもう、伊狩くんのことぐちゃぐちゃ言う人にイラつくのなんのって」

 学級日誌にはトシキくんの綺麗な筆跡で当たり障りのないことが書かれている。

 差し込む西日により全体的にオレンジっぽい色の教室で、トシキくんもオレンジ色をして笑っていた。

「──……あ、あのね」

 あのね。

 僕はトシキくんが好きだ。

 そう言いかけて怖気づいた。ここまでお膳立てされてなお振られることが恐ろしくて、鴨川トシキに選ばれないことを想像すると何も言えなくなった。

「うん?」

「……いや。その、学級日誌、残り僕が書いとくよ」

「いいの? ありがとう。……あのさ、僕、仲のいい友達なんか居なくて。この話を知っているのも、この世で君ひとりだけなんだよ」

「え? い、居るでしょ。みんなトシキくんのこと好きだよ」

「みんなが好きなのは、面倒事を押しつけても許してくれる便利な学級委員長だけだよ!」

 あはは、と乾いた笑い声をあげて。

「ねえ、わがまま言ってもいい?」

 と、僕を見る。

「些細なことでいい……そうだな、あだ名がいいな。他の誰も呼んでないあだ名で、伊狩くんのこと呼んでもいい? ちっちゃくていいから、君の唯一を、僕にくれないかな」

「……」

 どうしてか胸が張り裂けそうになった。

 苦しくて泣きそうになりながら、僕は何度も頷いた。

「……うん。もちろんいいよ。なんでも、どう呼んだっていいしさ、これから、仲良くしようよ。これからたくさん!」

「ありがとう。伊狩くん、みんなから敬太って呼ばれてるよね。じゃあ苗字から取っちゃお」

 ──いーちゃん。

 彼が僕をそう呼んだ翌日、トシキくんは居なくなった。

 父親が逮捕されて、母方の故郷へ引っ越したとのことだった。

 トシキくんの父親が暴行罪で逮捕されたと連日テレビで報道され、僕はトシキくんが居なくなって初めて、彼の父親が暴力団の組員だったと知った。

 ……と言っても末端の末端で、この逮捕は警察にとって暴力団を牽制する目的があったそうだ。

 ただの牽制。ただの足台。

 それで鴨川トシキの人生はめちゃくちゃになった。

 それで、僕は人生から、鴨川トシキを奪われた。


 その頃から、なんとなく、心に黒いものが住むようになった。

 きっと僕に人を殺させたのは、そいつだ。

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