第3話 バイトを始めて芽生えた感情

 長く感じた午後の授業を終えて私はバイト先に向かった。


 パティスリーフランに着いて店内の奥のロッカールームでピンクベージュ色のブラウス、白のパンツに着替えてブラウン色のサロンエプロンをつけて店内に入る。


「茜ちゃん、今日もよろしくね」


「はい。よろしくお願いします」


 彩公さんにあいさつした後、朝比くんが顔を出した。父のようなパティシエを目指している彼は私とは違いコックコートを着ている。


 接客だけではなくパティシエ見習いとしてお菓子を作ったり、父である大輔だいすけさんの補助をしている。


 今店内に顔を出したという事は今日は接客をするのだろう。


「母さん。父さんが呼んでる」


「何かしら。ちょっと行ってくるから後のことはよろしくね」


「はい」


「うん」


 厨房へ向かう彩公さんを見送って店内には朝比くんと私の二人だけになった。


 さっきまで厨房にいたからか、朝比くんから甘い匂いがした。何度か厨房でお菓子を作る彼を見たことはある。


 普段学校で見る姿とはまったく異なる表情に胸の奥が騒いだ。


「さっきまでお菓子作ってたの?」


「うん。クリスマスケーキの試作の手伝い」


 十一月を過ぎてからはクリスマスの準備が始まる。洋菓子店はこぞってクリスマスケーキの事前予約を開始していた。


 ここパティスリーフランも例外ではなく、今日も何件か予約が入っている。


 お店の窓とレジの横には今年のクリスマスケーキの写真と値段、予約方法等が書かれた広告が貼られている。


 今年はブッシュドノエル、定番のショートケーキ、ミルフィーユの三種類にしたらしい。


 たまにケーキショーケース内にあってお客さんたちは実物を見ながらどれを予約しようか悩んでいるのをよく見る。


 子どもたちはケーキの上にちょこんと乗っているサンタにくぎ付けだ。


 あれの名前がメレンゲドールだと教えてくれたのは朝比くんで、彼もメレンゲドールを作っていた。


 少しブサイクなサンタさんが出来上がると少し不満そうな顔をしていたことを思い出して自然と笑みがこぼれる。


「今年も美味しそうだね。去年のケーキも美味しかったんだけど、同じのは作らないんだね。少し残念だな」


「宇草は去年のケーキが良かったのか?」


「うん。って、去年は労いで頂いたんだった。なのに要望を言うなんて図々しいよね。ごめん!」


「いや。図々しいとは思ってないよ。そっか。去年のケーキが良かったのか……」


 朝比くんは考え込むように人差し指を顎に添えた。彼の表情は心なしか嬉しそうに見えてよほど自分家のケーキの感想が嬉しかったんだろうな。わかる。


 私もここでバイトを始めてお客さんから笑顔と美味しいの一言で自分のことのように喜ぶことがあるから。朝比くんも同じなんだろうな。


「あのさ、宇草」


 朝比くんが言いかけてすぐ、店のドアが開いた。来店したのは一人目が仕事帰りのOL。何度か店に足を運んでくれる常連で名前はたしか鈴木さん。


 次いで彼女の後ろから女性二人組が入ってきた。鈴木さんは私を見つけると沈んでいた表情を明るくした。


「茜ちゃん!」


 少し涙声の鈴木さんは仕事で辛いことがあると必ずここに寄ってお菓子を買って帰る。今日もなにかあったんだろう。


 詳しくは聞かないけど、目元が少し赤いから泣いたあとなのは分かる。


「鈴木さん。いらっしゃいませ。今日は何にしますか?」


 彼女の隣で声をかけると、鈴木さんは顔をケーキショーケースから離して私をジッと見る。私が案内できるのは今日のおすすめケーキくらいだ。


 ちょうどクリスマスケーキの見本をかねて切り分けたケーキがまだ数個残っている。


「クリスマスケーキの見本をかねてショートケーキとミルフィーユがあるんですよ。サンタさんは乗ってないんですけど」


「茜ちゃん個人のおススメは?」


「どっちも捨てがたいですけど、ミルフィーユでしょうか。キャラメリゼされたサクサクのパイ生地にバニラビーンズの効いたコクのあるカスタードクリーム、そこに酸味のあるイチゴが加わってすごく美味しいんです!」


 つい力んで解説してしまい、我に返ると鈴木さんはポカンとしていて次第に肩を震わせて笑い出した。


 顔が熱くなって手で仰いでいると朝比くんから視線を感じた。


 彼の方をチラ見すると鈴木さんと同じで肩を震わせて笑っていた。ますます顔が熱くなるのを感じる。


「じゃあ、茜ちゃんの力説するミルフィーユを買って帰ろうかな」


「ありがとうございます! 他には良かったですか? 焼き菓子もクリスマス仕様なんですよ」


「宣伝上手め。そんなこと言われたら買っちゃうでしょ」


 鈴木さんはそう言いながらも手には雪だるまとサンタのアイシングクッキーが握られていた。


 会計と箱詰めを終えて鈴木さんに渡そうとしたところで女性二人組が朝比くんに話しかけている声が届いた。


「お兄さんカッコいいですね。ここの店員さん?」


「お兄さんのおススメはなんですか?」


 ピタリと動きを止めてしまった私に鈴木さんが声をかける。我に返って笑顔で店のロゴ入りの箱を鈴木さんに渡した。


 今は接客に集中しないと、と自分に言い聞かせる。


「鈴木さん、お仕事お疲れ様です。ミルフィーユもアイシングクッキーもすごく美味しいので食べて癒されてください」


「あぁー。そう、これ。茜ちゃんの顔見るだけで元気出るわ」


 鈴木さんは箱を受け取りながらしみじみとこぼした。疲れていた顔も今では笑顔に変わり店を出て行く。


 ここに勤めて何度も見るお客さんの笑顔だ。この顔を見るのが好きで続けているのも理由の一つ。


 もう一つは……私は朝比くんを盗み見た。


 女性客からの質問に真摯しんしに答える彼を見て胸が高鳴る。朝比くんとの会話をしながら女性たちはお菓子を選んでいく。


 女子大生だろうか、大人びて見える二人は私にはないものを持っている気がする。朝比くんもああいう女性がタイプなんだろうか。


 考えだしたら今度は胸がズキンと痛くなる。こんな感情冴木くんには芽生えなかったのに。


 会計をしている間にも彼を見つめる女性たちの横顔を見て少し複雑な気持ちになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る