危機回避

 エレベーターに乗っていてふと思った。もし今この箱を吊り下げている紐みたいなのが切れたとしたらどうしよう。今八階にいる。八階というのも単に表示が出ているからそう思いこんでいるだけで実際はもしかしたら五階だったり十一階だったり空に飛びだしたりしているかもしれないが、とにかく今は表示を信じて八階だ。そこから真っ逆さまに落ちる。いや、エレベーターが逆さまになりようがないから真っすぐに落ちる。たぶんひとたまりもなく僕は死ぬ。ところが、ここで地面にぶつかる瞬間にジャンプしたとしたらどうだろう、衝撃の来る時、僕は地球上にいないわけだ。完全に無傷。ということを考えていたら一階に着いたので僕は帰る。

 家に帰ったら誰もいない。いるわけがない、僕は一人暮らしの大学生だ。ここが僕の安らぎの場所というわけだ……僕はベッドに寝転んだ。だが、もしこのちょっとぼろめのアパートが急に崩れたらどうだろう。またジャンプするか? なんかそうなると面倒くさいなと思った。だっていつも立ってるわけじゃなく、今みたいに寝っ転がっているかもしれないから、寝たままの姿勢でジャンプはちょっと厳しい。だいたいジャンプしても上が崩れ落ちてくるからどうにもならない。そうなったらもう生き埋めになってしまって死んでしまうがまあそれもいいかな。やるなら窓から飛び出す方がいい。でもここは二階だから別の危険が出てくる。……痛いのは嫌だな。今日は寝ることにした。

 翌日、大学に出てきた。大きな部屋で講義を受けている。もしもここにテロリストが侵入してきて……っていう妄想は実にありがちで、いまさらだ。そういう時は抵抗しないのが一番いいのだ。それより先生の話を真面目に聞くことが肝心。あとで内容がわからなくなって単位を落としたら大変だから。近くばかりを心配するより遠くも見なくてはダメだと思う。講義が終わり、ノートができた。みんなはホワイトボードの写真を撮っている。僕も撮る。まあ、いろいろな方法で残しておくにこしたことはあるまい。先生が退出してからもしばしぼんやりしていると、隣から話し声が聞こえてきた。

「お前、Twitterでなんであいつにいいねなんかしたんだよ」

 苛立ちながらそう問いかける相手に答える側もいくぶんかいらついていた。

「知らないよ、手が当たったのかな、意図してやったわけじゃない」

 細かい話だなあ……って思った。人のいいねなんかをいちいち見てるのか、っていうのもあるけど、何をいいねしようが勝手じゃないか。というよりもそこが不自由になるぐらいなら友達とかそういうたぐいのものはいらない!と思う。


 同学年の女子大生が話しかけてきた。倉田といって、高校からの付き合いで、といっても別に深い関係ではなく、どういうわけかたまたま大学も一緒になったのでお互いその縁で多少の話をする程度でそれ以上のことは別にない。まあ女友達といえば当たっているだろうか。でもあちらがどう思ってるのかはわからない、というよりたぶん僕のことが好きなんだと思う。なぜってやけに声かけてくるし、あと僕は自分のことをそこそこ顔がいいと思っているし頭もいい。ただそれはうぬぼれかもしれないので口には出さないし、なるべく考えないようにしている。まあそれはいい。

 倉田が持ち掛けてきたのはなんでもないような授業の話とか日常の話題だった。

「あ、これおいしい」と急に倉田が言い出した。

「それ何? よくそんな変わったのを飲むね」

 僕たちは学食の椅子に座り、それぞれ自販機で飲み物を買ってきている。僕はいつもと同じコーヒーを飲んでいるが、倉田はよくわからない新発売の緑色っぽいのを買っていた。個人的にはそういう挑戦は気が知れないのだが、人がやる分には口を出すつもりはなかった。今はつい余計なことを言ってしまったが……。

「だって、飽きない? あんたなんて毎日同じのじゃん」

 この自販機はあんまり儲けを考えていないらしく他で買うより二十円ぐらい安い。なのでだいたいここで買うことになる。

「他にいいなと思うのがなくてね……そんな、どこのメーカーかもよくわからないのは嫌だな」

「何事も挑戦よ。外れたって損はたいしてないわけだし。それにこれはおいしいってネットで見たから」

「ああそういうことか。じゃあ今度は僕も試してみるよ。憶えていたらね」

「まあだまされたと思って。っていう言い回しよく聞くけど、なんなんだろうね」

「だまされたつもりでやってみろってこと……?」

「普通に考えたらだまされてると思ったら余計やる気が失せるというか……」

「それはわかる。俺を信じて試してみろとか言われるならまだわかる。それで失敗した時は信頼失うけど。結局、それが怖いから責任逃れしてるんじゃないかな」

「そうとまでは言わないけど」倉田は苦笑いをした。

 気になったし考える時間が無駄に思ったので僕はスマホでさっさと調べてみた。

「どうやら期待するなってことみたいだ。やってみたけど失敗しただまされたっていう感情を最初から持ったつもりでやってみろ、そうすると逆に案外うまくいった時に喜びが大きい……みたいな」

「迂遠だなあ。伝わらないよ。でもあなたもそうだよね。どう見ても変な、変わり者というか、偏屈ものに見えるけど、案外話しやすい、みたいな」

「えっ、僕が偏屈もの? よくも本人に向かって、まあそれでもいい。悪くない」

「悪くないじゃねえよ! 困るでしょ! それじゃあんたずっと一人だよ、私がいなかったら」

「でも実際にはいるわけだから一人じゃないわけじゃん……」

 少し恨めし気にそう言うと、彼女は照れたように怒った。

「ゼミとか始まったらグループで研究しなきゃいけないでしょ、そん時どうすんの!」

「別にそうなったらそうなったで必要ならうまくやるよ。何にも心配することなんか」

「心配なんかしてないけど、別に。確かにうまくやるでしょうね、あなたはずっとそうだったから。そういえば今度、高校の友達と遊ぶんだけど、一緒にどう?」

「また急な話だな。でも、いいよ、行くよ」

「いいよですって?」

「ぜひ行かせてください」

 そういう話をしたら次の講義とかが始まるので彼女とは別れた。しかし何の集まりか聞いてなかったな、Lineでもやっていたのかもしれないが、僕は入ってない。いや、そもそもスマホになったのが大学に入ってからだったから……それに女子がいるグループに入るのも忌避感がある。これはなんとなくの感情でしかない。もうひとつは機械を持ってるかどうかで友達がいるかいないか変わるなんて嫌だ!人間は機械になんて支配されない!と思うけど、昔からゲームを持ってるかどうかで友達が増減するなんてよくあることだったな。

 倉田さんはかわいいと思う。黒い髪も綺麗だし元気がよくって(確か運動部に入っていたっけ)。ただ、いつも引きずられてるような気がするからちょっとそこが苦手なんだ。でも、うん、まあ、かわいいかな。客観的に。


 空が暗くなるのが早くなった。家に帰る電車に乗った。空いている席はあるが、座ると立ち上がるのが面倒なので、立ったままで財布の中身をちらと見た。

 それにしても遊ぶとなるとお金がかかる。普段ちょっとでも安いところに行って食材を買ったりしていながら、パッと遊ぶと何千円も一息で飛んでいく。どうかしてるんじゃないかと思うが。バイトをすべきかな。来年からは大学が忙しくなると思うから不安でもあるけど。まあ、いざ大変になったら辞めてもいい。そういう逃げ道を作っておくのはいつだって重要だ。あえて逃げ道をふさぐという考え方もあるけど……そこまで生きるか死ぬかの状況じゃないから、別にいいだろう。優先するのはあくまで大学で……バイトじゃないし。

 倉田さんから言われてはいはいと受けてしまったが、そもそも誰が来るのだろう。女子ばかりだったらどうしよう? 自分は男だから、そんな心配しないでもいいとは思うが。自分は酒が飲めるようになったが、同級生だとまだ飲めない年齢のやつらもいると思う。飲み会にならなければいいのだが。あんまり賑やかなのは好きじゃない。賑やかというと表現が良すぎるだろうか。要するにバカ騒ぎに巻き込まれたくない。人の感情に引っ張られたくないのだ。

 家に帰る道の途中で工事をしていた。前の建物は人が住んでいるのかすらよくわからない家だったが、そこが取り壊されて何ができるのか楽しみにしていた。が、どうやらマンションのようでがっかりしている。面白い店だったらよかったのに。この近くは食べる場所が少ないような気もするし、それでなくてもなんだろう、なんでもいいんだが、立ち寄れる場所ができたらよかった。だけど、土地が狭いから大変なのかもしれない。電車を降りて十五分の場所だ。決して悪い立地じゃないと思うが、車はやっとすれ違えるくらいの道だから、やっぱりあんまりよくないな。いわゆる閑静な住宅街というやつだ。事件といったら時々道に犬のフンが落ちているくらいのものだ。これのせいですっかり下を向いて歩くのが癖になってしまった。どこのどいつが……まったく……人間様に影響を与えるのは実に簡単なことなんだ。犬のとは言ったが、もしかしたら猫かもしれない、猫がそういうのを道端でするというイメージが僕の中ではあまりないが、ただ野良猫を見かけこともあるのでその可能性はなくはないと思う。犬と猫のそれの違いは僕にはわからないし……ここまで考えたところでそんなのどっちでもいいってことに気がついた。そんなことより人間は前を向いて歩くべきだったのに、小さなことを気にして小さくなって生きるのが嫌だ。そう、小さいことと断じ切ってしまって、いっそ踏んでいけばいいのに、それができないのが僕という人間で……そこを直せる気があまりしない。だけど直す必要なんてあるのか? 直すなんておかしな話だ、これが僕だ。僕は乗り越えていく。


 倉田さんと約束した日が来たので、僕はその夕方に備えて先に家の近くの美容院へ行った。普段はそこまで注意しないのだが、なんとなく僕は浮かれていて、色々と整えていこうと思った。気候も良くて鼻歌でも歌いたくなるような気分だった。街へ出て、人ごみに紛れながらも、自分は特別なんだという気がしてきた。街中を歩きながら、もしも乱射魔がここで現れたら、と思った。身近にあるありとあらゆるものを、通りすがりの人間も含めて武器と盾にして、そいつに近づき、倒してやる。そこへ見知らぬ中年の女性が近づいて、声をかけてきた。

「核兵器反対の募金をしております。よろしければ話を聞いてもらえますか」

「あ、結構です……」

 僕は断ったつもりだったが、声が小さかったのか、チラシを手渡され、アメリカがどうのという話を聞かされた。僕はなし崩し的に千円を払うことになった。払うことになったというか、自分で払ったのだ。おまけに署名まで求めてきたが、それは個人情報を出すことになるので嫌だった。お金を出すよりもそっちの方が嫌だったので、つまりリテラシーが高い自分ははっきりと断ってその場を離れた。お金は何に使われるか知らないが、核が頭の上に落ちてこなくなるのならいいことだろう。さすがにそうなるとどうしようもないから。けど名前は出したくない。名簿が変に流れて悪の組織に渡ってにらまれるのは嫌だ。全体的には良いことをしたのではないか? チラシはコンビニで捨てた。


 時間ぴったりに待ち合わせ場所に来ると、倉田と、もう一人見覚えのない女がいた。おそらくは同年代で、倉田ほどにはかわいくはないが、おとなしめでそのしぐさは品が良くて自分たちより大人びた感じがした。

「田住くん、この子のこと憶えてる?」

 倉田が尋ねてきたが、僕は戸惑った。

「ごめん、憶えてない。学校が一緒だったとかでしたか……?」

「高校の同級生だったのに! でも、全然気がつかないでも不思議じゃないくらい変わったでしょ、高校の時はもっと地味だったから。大内さんよ! 思い出せたでしょ?」

「ああ、わかったよ。本当にずいぶん変わったね。びっくりした」

 本当はわかってなかったが、わかったということにした。大内の表情がパッと明るくなった。

「田住くん、久しぶりです、本当に」

 僕に話しかけてくる大内は緊張した様子で、外見は垢ぬけていても内気な性格が透けて見えるようだった。

「あと誰が来るの?」

「これだけだよ」

 えっ、と内心驚いてしまった。もっと集まるのかと思っていた。だけどその驚きは胸に隠して、ただ「そうなのか」と答えた。

「じゃあ、行きましょうか」

 言って倉田は歩き出し、すぐ後ろを大内が裾をつかむようにしてついていった。僕はやや考え込みながらもその後を追った。人通りが結構あって……考えがまとまらない。ふたりが何を考えているのか、よくわからない。僕がいる意味とは?

 居酒屋というより小料理屋という趣のお店に入った。僕の隣に大内が座って、その向かいに倉田が座った。非常に気まずい状態。何を話せばいいのやら……料理のメニューは多国籍で意外と安い感じだった。色々と頼んだが(主に倉田が)、どれもおいしかった。それだけで話は意外と進んだ。

 大内は大学は別だが、どこの大学でもいるような教授の話とか、バカな学生の話とか、そういうので意外と楽しいし、なぜか僕の趣味を知っていて、興味津々で聞いてくれた。お酒も進み、機嫌はよくなった。そのまま会食も終わって、遅くなるといけないそうなので、早めに解散しようとなった時に、僕はつい余計なことを言ってしまった。

「今日は楽しかったよ。僕はてっきり、話が始まったら絵は好きですかとか言われるかと思った。高い絵をさ」

 これはあくまで酒が入ったことによる軽口であって、まじめに言ったわけではないのだが、聞いた大内は表情を暗くし、慌てたように倉田が口を挟んだ。

「私も何にも教えなかったから、びっくりしたでしょ! でも、ふたりが今日来てくれて嬉しかったよ、私の友達だから!」

 友達……友達か。その言葉にちょっと引っかかったが、表には出さない。Lineを交換しようというので、そうした。三人のグループができた。名前はまだない。

 僕はひとりで、意味もなく道路の白線を絶対踏まないようにしながら家路を歩いた。今日の会食の意味を、僕はなんとなく察してはいた。だが、それを確信する勇気がないようだった。高校時代に何かあったかな、と思い出してみてもわからない。

 メッセージが来て、読むと倉田が「空が綺麗だよ」と言っていた。立ち止まって見上げると、確かにほぼ丸い月が出ていて、雲が静かに流れていた。大内からも綺麗ですねと返事が来ていた。僕は言うことがなくなってしまったので、少し考えてから、「写真に撮ったよ」と返した。実際には撮っていなかったので、送ってから撮った。我ながらなんとまずい写真だと思った。

「よかったら見せてください」

「い、いや、見せるほどのものじゃないよ、あんまり上手に撮れなかったからさ。それより今のを見た方がいいよ」

「そうですね、私たち、一緒の空を見てますもんね!」

「でも僕はまだ歩いてるから、もう歩くよ」

 ポケットの中でスマホが何度も振動して彼女たちのやり取りがまだ続いているのを知らせてくる。

 ようやく家についたら、シャワーを浴びて、パソコンをつけてネットの情報をしばらく見てから寝床についた。

 寝る前に画面を見ていたら眠りにくくなるらしい。だが、そういう理由とは別でなんとなく今日は眠れなかった。たぶん僕は浮かれていたのだ。

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短編集 こしょ @kosyo

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