2 エルフの王
「断られた? なぜ?」
心底おどろいた様子で、こちらを見つめる女性。
通りを歩けば十人中十人が振り返るであろう、整った美しい顔立ち。すらりとした、それでいて女性的なやわらかいラインを見せる立ち姿。黄金色の波打つ長い髪が、こちらを向いた動きにつられてふわりとなびく。
そして目立つのは、その長くとがった耳。
エルフだ。
見目麗しいことで知られるエルフ。その中でも、サリナは特にきれいだと、アリステラは思った。
大きな屋敷の一室で、窓から差し込む日の光に照らされるその姿は、部屋の重厚な調度の雰囲気と相まって、一枚の絵画のよう。同性から見ても、ほうっと見惚れてしまう。
だからだろうか。
「マキエ先輩はサリナさんがいるからだめだと」
ぽろりとほぼ無意識で口をすべらせた。
「私のせいですって?」
おどろいたサリナの様子を見て、アリステラはしまったとほぞをかんだ。マキエがサリナのことを危険人物のように言った理由は、よくわかっていない。なのにそれをサリナに知らせてしまえば、真面目な彼女が気にするのは予測できたのに。
「ねえ、アリス」
サリナがアリステラに手を差し出す。アリステラはもう逆らえない。近寄ってその手を取ると、サリナはその上に手を重ねてきた。
しっとりとうるおいのある両の手に包まれる。傷一つないやわらかなこの手が、この街でも有数の冒険者、幾多の危険と荒事を制してきた者のものだとは、誰も信じないだろう。
「私はそんなつもりはなかったのだけど、何か失礼なことをしたのかしら?」
アリステラはぶんぶんと首を振る。
サリナは、自分がちょっと小首をかしげ哀しそうな目で見つめたときの破壊力を、自覚していない。それはアリステラを思考停止に追い込むには十分で、だからついついぽろぽろと、言わない方がいいことが、またその口からこぼれ出してしまった。
「何かしたんじゃなくてマキエ先輩のお世話している子がかわいすぎてサリナさんに手を出されるのが心配だと」
「えっ?」
言ったとたんに思考力を取りもどしたアリステラは口を押さえたが、完全に後の祭り。
「ち、ち、ちがいますサリナさん、あ、いや、ちがわないけど……ちがわないけどちがいますよサリナさん! マキエ先輩はその子のことをびっくりするほど溺愛していて、それで」
アリステラが混乱する頭で必死にひねり出した言い訳は、もうサリナには届いていなかった。事の衝撃が上回っていた。
エルフとダークエルフは一般的に関係良好とは言えないけれど、サリナはそういう差別に加担することはいましめていた。実際マキエとトラブルになったこともないはずだ。なのに彼女に敵視されるのは納得いかない。
しかも、よりによって彼女が面倒を見ている少年に手を出すかもしれないからなんて、ひどい言いがかりだ。人を身持ちの悪いあばずれのように言うなんて。そんな侮辱、受け入れられない。
実際のサリナはその逆で、その美貌で人気は高く言い寄る男はあまたいるけれど、まったくなびくことがない。難攻不落の城として知られているのだ。
これはマキエ本人と話をつけなくては。
サリナは固く決意した。
「こんにちは、マキエさん。お話があって来ました」
「げっ」
のんびりとした昼下がり。それに応じてのんびりと過ごしていたマキエは、来訪者に扉をうかつに開けてしまい、いたく後悔した。
油断していた。
目前にいるのは、今一番会いたくない人物。
思い立ったが吉日。即断即決がモットーのサリナ。見た目とちがい行動派なのだ。
「なぜ私たちの遠征への参加を断られるのです? しかも私を理由の一つにあげたそうですね。なぜ?」
うわ、めんどくさいやつがめんどくさい状態で来ちゃった。マキエは内心で天をあおぐ。
なぜ彼女が来たのか、原因にはすぐに思い至った。自分が、アリステラの遠征へのさそいを断った時に、ぽろりと口をすべらせたからだ。アリステラはリィムの事情を知らないのだから、あれは言う必要がなかった。
サリナは別に悪いやつではない。むしろその逆で、非常に真面目で誠実な、立派な人物と評判だ。そんな人物があんなことを言われたら、そりゃあ承服しかねるだろう。
だけどそんなことより重大な問題がある。とにかくリィムに会わせるわけにはいかない。エルフは絶対にだめだ。早く帰ってもらわないと。
「その件に関してはアリステラに言った通りだよ。面倒を見なきゃいけない子がいるんで、無理なんだ。君の名前を出したのはすまなかった。大したことじゃないので、気にしないでくれ」
とにかく急がなければと、グイグイと押し出そうとする。
「ちょ、ちょっと何ですか! 大したことないとか言って、 これじゃ大有りなあつかいじゃないですか! ちゃんと説明してください!」
だめだ、こんなことではごまかせない。非常に真面目という評判は、裏を返せば頑固で融通が利かないということだ。こうなっては、サリナは絶対に引かないだろう。
「わかった! わかったから! ここじゃちょっと話せないから、表通りの喫茶店で待ってて……」
ここじゃ話せないのは本当だ。リィムに聞かせるわけにはいかない。世にもめずらしいレアスキルの話は、まだ本人には知らせたくない。
では、この話をサリナにしたいかと言うとそれもないなと思うので、何とかこの頑固者が納得してくれる言い訳を考えないと……。
「マキエちゃん、誰かお客様?」
その瞬間。
リィムが玄関で何か人の声がするなと顔をのぞかせた、その瞬間。
本当に、間を置かず、一瞬にして起きた出来事だった。
サリナががくりとくずれ落ちた。
マキエは反射的に抱き止める。
「おい! 大丈夫……」
何が起きたのかとのぞき込んで、気づく。
荒い息。
力なくふるえる脚。
そしてもぞもぞと身をよじる仕草。
これは……。
マキエは サリナの脇に手を入れ、ぐいと上半身を立たせた。
「あ……?」
サリナは力なく反応する。
そこに見えたのは。
上気した頬。
うるんだ瞳。
マキエを見返すとろけた顔。
これはリィムのスキル『魅魔誘引』が直撃しちゃっているのが一目瞭然。
やばい、とマキエはあわてた。何が起きたか、さとられてはいけない。すぐにごまかさないと。
「だ、大丈夫かい? 体調が悪いんじゃないのかね? 今日はとにかく屋敷にもどって、養生した方がいいよ! うん、そうだ、そうしよう! 送っていってあげるから」
マキエはたたみかけるようにそう告げて、半ば力づくで家から連れ出した。通りで馬車をつかまえて、屋敷まで送り届ける。
「あれ、マキエ先輩……えっ、サリナさん? どうしたんですか?」
玄関に対応に出てきたアリステラが、ぐったり動けなくなりマキエに抱えられているサリナを見て、何事かとおどろく。
「ウチに訪ねてきてくれたんだけど、何だか調子が悪くなってしまってね。ゆっくり休ませた方がいいよ」
「は、はい! サリナさん、行きましょう」
「お大事にね」
あやしまれないようにゆったりとした足取りで屋敷を辞したマキエは、門を出たところで一転、待たせておいた馬車にあわてて飛び乗る。
「マキエちゃん、お帰りー。さっきの人、どうしたの? 大丈夫だった……わっ! 何? マキエちゃん?」
家にもどるやいなや、リィムの腕をつかんで奥の部屋へと連れ込んだ。扉を閉めるのもどかしく、リィムのステータスウィンドウを開く。
リィムのステータスは、先日のダンジョン行きでレベルアップを果たした時に一度確認している。けれど、今回はさらに先。あの時はリィムが不安そうな顔をしたので、詳細まできっちり確認することなくウィンドウを閉じた。
タブをたたいてその詳細ページを開く。リィムのユニークスキル『魅魔誘引』。
これはモンスターを引き付けるスキルだ。一般には知られておらず、マキエも聞いたことがなかった、レアなものだった。その内容は相手によって変わる。低知能のモンスターには魅力的な餌に見えてしまうバッドスキル。だが、高知能の相手にはその魅力は高いカリスマ性として作用し、己の主として認識させる。
これはモンスターだけではなく、亜人種にも効くようで、ダークエルフのマキエに効果覿面だった。もともと赤ん坊の頃からかわいがっていたのだが、リィムにこのスキルが発現してからは、それが少しおかしな方向へ驀進している。もう、かわいくてかわいくて、食べちゃいたいし、食べられてしまいたい。必死にこらえて、何とかセクハラ親父のレベルにとどめている状態だった。
そして今回、そのスキルがエルフのサリナにも威力を発揮したということなのだが。
詳細なパラメータを確認して、マキエは思わずうなってしまった。
何だ、これは。
レベルが急激に上がっているのは確認していた。だが今目の前に開示されている数値は、そこから想定したものをはるかに超えた伸びを見せていた。影響をおよぼす範囲、強さとも、レベルが上がるに連れて、比例どころかもっと大きく増えている。
パラメータの伸び方が加速しているんじゃないかとマキエは思い、その行く末に身震いした。
同時に思う。
いや本当に自分はよくこらえている。これだけの影響力があれば、サリナのように腰くだけになるのが正解だ。高次の知性体になればなるほど効果が強くなるとすれば、自分たちエルフの係累はまさにその最右翼なのだ。
リィムはこのままではエルフの王になってしまう。すべてのエルフをその魅力でメロメロにして。
それはまずい。そんなことになったら、その力をねらう人間が必ず出てくるだろう。リィムの力は魔物にしか効かないのだから、人間から見れば、ただの力のない少年だ。自分の言うことを聞かせれば、間接的にモンスターを支配でき、そこから莫大な利益を得ることができる。
「マキエちゃん……?」
リィムが心配そうな声で呼びかけてきた。マキエが深刻な顔でステータスウィンドウを凝視していたからだ。
「ああ、リィム、ごめん。いきなりでびっくりしたよね。実はさっきのお客さんが、ただ体調を悪くしただけじゃなくて、人にうつる何かの感染症かもしれないと心配になってね。リィムにうつってるんじゃないかと確認したんだよ。病気になるとデバフがかかったのと同じだから、ステータスに出るからね」
「そうなの。かかってた?」
「ううん、大丈夫」
「マキエちゃんは大丈夫なの?」
マキエは自分のステータスウィンドウも開いた。これはリィムの手前、確認したけど大丈夫だったとポーズをとるための行動。見なくても大丈夫じゃないのはわかっている。
ポンと開くと警告表示が出る。リィムに気づかれないようにしなければと身構えていたので、目にも止まらぬ素早い操作で瞬時に消す。
まあ、あんなになってしまうなら、『魅魔誘引』もある種の病気みたいなものだ。
この街有数の冒険者が瞬時に無力化されてしまうのだから、本当におどろくべきスキル。
それにしても、サリナはすごい顔をしていたけれど。
もしかして自分も傍から見たらあんな感じに……。
いやいやとマキエは首を振った。
マキエは戦闘職で、パーティを組めば前衛を任される。デバフを食らいやすいポジションなので、過去幾度も経験した結果きたえられ、デバフ耐性がついている。ちゃんと効いているのかはわからないが、一応対抗魔法も自分自身にかけてある。
ただそれでもこらえきれずに、ついついぎゅっと抱きしめたり、すりすり頬ずりしたり、いやがっているのにキスしてみたり、その他もろもろのセクハラに走ってしまうのだが。
それでもあそこまで、不様ではないはずだ。
けれども、このまま加速度的にリィムの誘引パラメータが上がっていったら……。
いつか耐え切れなくなるだろうな。そしたらもう、仕方な……。
自分の思考がいけない方向に進んでいることに気づいて、マキエはその妄想を振りはらった。
我慢、我慢。ひたすら我慢。
それが保護者としてのマキエの責務である。
それから数日、サリナの件はマキエの心配事の一つであり続けた。
あれからどうなったのか、とても気になる。サリナがリィムのスキルにやられてしまったのは明白だ。その後、影響はどれぐらい出て、どれぐらい続いたのか。一時的な体調不良でごまかせたのか。
実は『魅魔誘引』があまりにめずらしいスキルなために、その辺の情報がないのだ。マキエがずっと影響されているのは、いつもリィムのそばにいて効果が更新され続けているからなのか、それとも一度かかると恒常的に影響下に置かれるのか、それもわかっていない。
屋敷に帰ったサリナの体調が回復していれば、効果は一時的だということになる。
だがしかし、こちらから探りを入れると、藪蛇になる可能性がある。なのでマキエにできることはなく、このままなんとなくうやむやになればいいなと願っていた。
けれど、事は往々にして望まない方に進むもの。
そしてそういう時に限って、油断しているものなのだ。
扉をたたく音がした。
その時マキエは他の考え事をしていたため、その可能性が完全に意識からぬけていた。
「はーい」
扉を開ける。
そこにいたのはサリナ。
マキエはあわてて扉を閉めようとしたのだが、前回訪問時の対応から、マキエの反応は予測されていたようだ。その前にするりと家の中に入られた。
マキエの反応速度を上回るとは、さすがはサリナ、手練れの冒険者だ。
しかも、マキエの一般的に見ればずいぶん失礼な態度もまったく気にしていないよ、と言わんばかりの、満面の笑顔。
「このあいだはお手間を取らせてごめんなさい。お礼をしなくちゃと思って」
そう言って菓子折りを差し出す。完璧なお客様ムーブである。
「ご丁寧にどうも」
マキエはすっかり機先を制されてしまった。ここからたたき出す口実は思いつかない。何なら、お土産までもらってしまったから悪いなあ、まである。
しかもこれは、サリナたちの屋敷近くの菓子店の詰め合わせじゃないか。あそこはこの街で一二を争う有名店。リィムがあそこのビスケットが大好きなのだ。ますます突き返して帰ってもらうのは難しくなった。
とりあえず応接間へ案内し、座るようにすすめる。
その間にも、サリナの様子を注視する。顔色はもどっている。歩調もしっかりしていて、デバフがかかっている感じではない。
すると、効果はリィムに会った時のみの一時的なもの……?
それならまだ、ごまかす方法はありそうだ。
「ちょっと失礼。待っててくれるかい?」
一言残してリィムの元に向かう。ちょうど階段を下りてくるところだった。
「マキエちゃん、お客様? お茶用意しようかなと思って……」
「リィム、それは大丈夫、私がやる。秘密の仕事の話なんだ。ちょっと自分の部屋にいてくれる?」
もう一度サリナをリィムと会わせるのは論外だ。二度同じことが起きれば、さすがにあやしまれる。それは防がなくては。
リィムは不審そうな顔をした。
「危ないお仕事なの?」
マキエの身を案じているのだ。自分を見つめる不安そうな瞳。愛おしさがこみ上げてきて、マキエはぎゅっとリィムを抱きしめた。
「大丈夫。私は別に危なくないよ」
「そ……そう。ならいいけど……」
リィムは居心地悪そうにもじもじしている。そんな様子でさえ愛おしくてたまらない。
確かにマキエは危なくない。今危ないのはリィムである。
リィムのスキルを悪用しようとする人間が出てくるというのが、今まで考えていたリスクだ。
だが、今回の場合は、またちがう危険がある。
サリナは真面目な性格だ。真面目がゆえに、リィムを種族全体に対する危険な存在ととらえる可能性がある。
リィム自身を危険人物とは見ないだろう。リィムがそういう性格ではないことは、わかってもらえると思う。だがリィムのスキルが悪用されれば、エルフの一族に大きな影響が出る。そのことが他のエルフに伝わり広まれば、処断すべきという声が上がるかもしれない。悪用される前に消してしまおうというわけだ。
ずいぶん過激な話だが、エルフの中には、保守的で人との関わり自体を快く思っていない一派がいる。そういう者たちであれば、エルフへの悪影響とリィムの命を天秤にかけ、危険の排除を優先するだろう。
これは可能性の話で、必ずこうなると決まったわけではない。けれど、そんなリスクは抱えないにこしたことはない。ここで危険をつぶしておきたい。
階段を上るリィムを見送りながら、さてこの場をどう切りぬけたものかと、マキエは思案した。『魅魔誘引』の効果が一時的なものだったらしいことは幸いだ。となれば、とにかくごまかしの一手である。
マキエは内心の緊張を表に見せないよう、しっかりとにこやかな仮面を装備して、応接間にもどった。
「すまない。待たせたね」
「いいえ。お気になさらず」
席に着いたサリナに、紅茶を注いで、どうぞとすすめる。
「それで、体調の方はもういいのかい?」
「おかげさまで。その節はわざわざお屋敷まで送っていただいて、ありがとうございました」
「いやいや。大したことなくてよかったよ。君たちのところは遠征の準備でいそがしいんだろう? きっと疲れがたまっていたんじゃないかね。遠征前だから、コンディションを整えるのは大切だよね」
我ながら苦しいなあと自覚しながら、マキエは話を進める。ポーカーフェイスを装うのはまだいいとして、こういう駆け引きをするにはあまりに状況が悪い。
間を取るためにカップを取り上げ、紅茶をすする。
「そうですね。確かにコンディショニングには気をつけないと」
サリナも応じて、紅茶に口をつける。
「あら、美味しい。いいお紅茶ですね。どちらの?」
「私はあまりくわしくないんだ。そういうことはリィムに任せていて……」
リィムの名を口にしてしまい、マキエはあわてて口をつぐんだ。それでは余計あやしいと気づいたが、後の祭りだ。
「リィムさん? それはこの間、ちらりとお見かけした少年ですね」
「それは……」
何とか話題をそらすべく口を開こうとして、マキエは異常に気づいた。
声が出ない。
体が自由にならない。
「あの子がマキエさんがお世話しているという子ですよね。確かにかわいらしいですね。置いていけないという、マキエさんの気持ちもわかります」
サリナの口調は落ち着いたまま。これがこの状況の異常さを際立たせる。
目の前のマキエは言葉を発することができず、さらに姿勢を維持するのも難しくなっているのだ。なのにそれを気にする素振りがない。この事態を当然と思っている証左。
つまりこれはサリナが仕掛けた? 毒? 紅茶か? いつの間に、どうやって?
「大丈夫です。ちょっとしびれて身動き取れなくなるだけで、命に別状はありません。しばらくすれば効果は消えて、後遺症も残りません」
サリナはにっこり笑ってそう言うと、手を伸ばしてマキエのステータスウィンドウを開いた。
本人の許可なく開くことはできないはずなのに。毒を盛ったことといい、このハッキングといい、きれいな顔をしてなかなか際どい真似をする。
「あなたにも、デバフがかかっているんですね」
マキエのステータスを確認して、サリナがつぶやいた。
「確かにコンディションには気をつけないといけませんよね。私もそう思ったので、変な感染症でももらっていたのかとステータスを確認したんですよ。そこで何かの術がかけられていると気づいたんです。でもマキエさんが私を追いはらうためにやったのではないとすると……。かけたのはあの子ですね。……でもその方が、この症状の説明がつきますね」
そう言うサリナの表情は一変していた。熱に浮かされるように、紅潮する頬。うっとりとうるんだ瞳は、どこか焦点が合っておらず、危うい感じ。
『魅魔誘引』の症状だ。ふつうに見えたのは彼女の強い精神力のなせる業。影響は解けていない。
『魅魔誘引』は恒常型のスキルだったのだ。
「お屋敷に帰って、おとなしく休んでいたんですけどダメなんですよ。ちらりとお見かけしただけなのに、夢にも出てくるんです。思い出しただけで息苦しくなるし、動悸は激しくなるし……。今もそうなんですよ……。これは何とかしないと、遠征に行けませんよね?」
「何……を、する、気……」
動かない口を無理矢理に動かして、マキエは問いつめる。
サリナは妖しく艶やかに笑った。
「影響のもとを断たないと」
サリナの真面目さが、恐れていたとおり、悪い方に出たのか。マキエは立ち上がろうとしたが、やはり体はうまく動かず、椅子から転げ落ちてしまった。ガタンと大きな音がする。
「あらあら、大丈夫ですか?」
サリナが席を立ち、歩み寄ってくる。
その時、床に倒れたマキエの耳に、聞こえてはいけない音が聞こえた。
階段を降りる足音。
そして扉を開ける音。
「すごい音がしたけど、マキエちゃん大丈夫……?」
となりで膝をつくサリナが、ぶるりとふるえたのがわかった。
「あ……この間のお客様……?」
リィムがその姿に気がついた。
そして次の瞬間、サリナは消えた。
いや、正確には一瞬にしてリィムの背後を取ったのだ。さすが見目麗しいだけではなく、名うての冒険者だ。リィムの肩をつかんでくるりと反転させ、バランスをくずしたところをちょんと足を払って押し倒し、そのまま上にまたがる。
「え……あ……何? どうなってるの、マキエちゃん?」
混乱するリィム。
見下ろすサリナ。
マキエの体は動かない。
「そう、元から断たないとダメですね。どういう術だかわかりませんが、私がご所望なのでしょう?」
そこでマキエは気づいた。サリナの様子。これは、これから人を殺めようという人間の表情ではなく……。
「これが薄汚い中年男性であれば、そんなことはさせないのですが……。こんなにかわいい男の子なら、お望み通り、一度ぐらいお相手して差し上げてもいいですよ……? ずっと体の奥がうずいて仕方ないのですもの。そうすれば術も解けるかもしれませんしね……?」
光の輪がリィムの手足を床に固定する。うっとりとした顔で、サリナはリィムのシャツのボタンに手をかけた。
あれ……? 危ないのはリィムの命じゃなくて、貞操……?
そんなこと、させるわけにはいかない!
だめだだめだ、本当にだめだ。身動き取れなくさせられて、目の前で寝取られるだなんて、そんなプレイの趣味はない。
「ふふ、さすがに若い子はきめ細かいきれいなお肌をしてますね」
あらわになったリィムの素肌をそっとなでると、サリナは体をおおいかぶせるようにして、胸元に口づけをした。
「あ……っ!」
リィムが初めての感触に、短く悲鳴のような声をあげる。
「大丈夫……。優しくしてあげるから……」
そうしてサリナの手は下がっていき……。
などということは、起きていなかった。
それはサリナの脳内で展開した妄想である。
実際のサリナはリィムにまたがり、胸元に両手を重ねた状態で固まっていた。
シャツのボタンに手をかけたところから、ずっと動けずにいる。顔は真っ赤なのに冷や汗ダラダラという、曲芸じみた様子を見せて。
リィムは何が起きているのかよくわかっていなかったが、とにかくこの状態からぬけ出さなければいけない。両手両足とも固定されているのだが、何とか取れないだろうかと、がんばってみた。
そうやって体をよじっていると。
「あっ! ちょ、ちょっとダメ、動かないで」
ぴくんと反応したサリナが、あわてた様子で声を上ずらせた。
「動かないでってば、ちょっと……」
もぞもぞ。
ぴくん、ぴくん。
「だから、それ……」
もぞもぞ、もぞもぞ。
ぴくん、ぴくぴく。
「ちょ……ダメ……あっ……あっ……あああああん!」
「だって仕方ないでしょう!」
涙目で顔を真っ赤にしながら、サリナが訴えている。
ここはサリナのパーティの屋敷。
リィムの上で気絶してしまったサリナを、何とか体が動くようになったマキエが、また連れてきたのだ。
「わ、私、その……男の人と……そんなの初めてなんだから!」
そう。『魅魔誘引』の影響を強く受けたサリナは、リィムを「食べてしまおう」と、マキエの行動力をうばい、リィムを押し倒したのだが、そこまでだった。
サリナは評判通り、身持ちの固い淑女だった。その美貌に吸い寄せられる男は大勢いたが、同時にその高い知性が男たちのみにくい下心をかぎ取って、結局男性と付き合ったことはなかった。
頭の中で妄想することはできても、それを実行するには経験不足で、ハードルが高すぎたのだ。
「それなのに……それなのに……リィム君がもぞもぞ動くから、その……だから……」
サリナは赤く染まった顔をさらに赤くして、うつむいてしまった。
まったく意外などんでん返しだったなあと、マキエは胸をなでおろしていた。
エルフは長寿の種族だ。見た目よりもずっと年齢を重ねている。エルフを高慢だときらう人間がいるが、それは仕方のないことだ。同じような年に見えて、たいがい人間よりずっと年上で経験豊富なのだから、その言葉はどうしても上から目線に聞こえてしまう。
サリナもそういうエルフだったから、男性経験がまったくないというのは考えてもみなかったことで、本当に助けられた。
「それで、これはそのユニークスキルのせいなのね」
しばらく羞恥に打ちのめされた後、ようやく気を取り直して、サリナが確認してきた。
もうステータスも見られているので、ごまかしても仕方がない。マキエはうなずいた。
「体験してなきゃ信じられないけど、本当にすごいスキルね。エルフの里に連れて行ったら、一瞬でエルフの王になれるわよ」
「そうなんだ。それで困ってる」
「私がいるから屋敷には預けられないと言っていたのも、これが理由?」
「そうだ」
「本人は知らないの?」
「自分でコントロールできないスキルのことなんて、伝えられないよ」
「そうね。悪用しようと寄ってくる者もいるでしょうしね。大人ならともかく、小さい子供には話しづらいね」
「だから口外しないでくれると助かる」
「わかったわ」
サリナがうなずく。この辺は知性が高く、察しがよいのでとても助かる。ちょっと説明しただけで、問題の核心をつかんでくれた。
ただ、話はそこで終わらなかった。
「わかったので……」
サリナがおもむろに口を開く。
「だからお願い! リィム君に私のことを取りなしておいてね? 本当にお願い! このままじゃ私、痴女のお姉さんと誤解されたままできらわれちゃうから!」
両の手を胸の前でにぎりしめ、涙目でマキエの方に身を乗り出す。
「どうしよう。リィム君にきらわれたら、私もう生きていけない。すべてをささげてもいいぐらいに思っているのに」
落ち着いていて上品でたおやかと評判だった淑女の、成れの果て。すっかりうろたえて、おかしなことを口走っている。
自分の知っているサリナと同一人物と思えないような変貌ぶりに、マキエはわかっていても確認を取る。
「なあ、一応効いてるんだよな、対抗魔法」
目を覚ます前に、マキエは自分にかけているのと同じものをサリナにほどこしていた。目覚めた時にまたひと悶着が起きないように手を打ったのだ。たずねられたサリナはうなずく。
「うん、効いてる。さっきまでは、もう考えも人格もすべて支配されてる感じだったから、だいぶまし。でもダメ。完全に影響を消すことはできないわ。リィム君のことを思うだけで、胸がときめくの。リィム君、本当にかわいいよね。食べちゃいたい……」
「なっ、何が食べちゃいたいだ! 私だって必死におさえているのに、そんなことを許すわけないだろう!」
「だってもう、仕方ないじゃない。ユニークスキルのせいだし、対抗もできないんだから。そりゃ脂ぎった下品な中年親父だったら、もっと必死で抵抗するけど、でもさっきも言ったけどリィム君だったら……ね? マキエだって、いいかなって思っちゃってるんでしょ? なんなら三人いっしょでもいいよ?」
「それは……だっ、だめ! だめだろ、そんなの!」
マキエは一瞬転びそうになった己の心を、鉄の意志で鎮めた。
サリナはだいぶましと言っているが、それでも十分、人格も考え方も支配されちゃっているように見える。いやまて、もしかしてやはり自分もああなってるんじゃあるまいな。いや、そんなはずは……。でも……。
マキエはそんな悶々とした考えを振りはらった。
サリナは痴女を誤解と言ったが、今言ってることは痴女そのものだ。ただ、そう言っていても、幸いヘタレだということがわかったので、そこは安心だ。その言葉を実行に移すことはできない。また真っ赤になって気を失うのがオチだ。
そして、リィムの敵に回る心配もなくなった。そこも安心。身も心もリィムにささげてしまっているので、むしろリィムの危険を排除するために、頼れる存在となってくれるだろう。
逆に安心できないのは、結局、『魅魔誘引』は恒常型のスキルということが確定した点だ。こうしてマキエの家から離れているのに、スキルの効果が続いているのだ。
効果が一時的なもので、離れれば正気に返るというのであれば、スキルの使い勝手としては微妙になるので、リィムにとってのリスクは減る。それを願っていたのだが、サリナのこの一件で、その希望はついえた。
これは本当に、エルフの王になれてしまう能力だ。
エルフだけではない。多くの高等種族を従えることができる。
そしてそれを悪党が知り利用しようとリィムをさらうリスクは、ますます高まった。
このスキルのことは、とにかく秘密にしておかなくてはいけない。
街の中なら亜人種に出会うことはあまりないけれど、早くコントロールする術を見つけないとなと、マキエは思った。
ちなみに痴女のお姉さんが、リィムの警戒心を解きほぐすまではだいぶ長くかかり、サリナは泣き暮らす日々だったのだが、それはまた別のお話。
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