第一話『右十字のアリサ』 その⑤我が家


 築七十年にもなるボロアパート。その錆びた鉄階段を上がり、木製の禿げた扉を開ける。


「お姉ちゃんお帰り~!」


 ああ、これだけでもうどうでもよくなる。

 どっと疲れた今日一日、なんて規模じゃない。全てがもうどうでもよくなるのだ。


「ただいまレオン君。今日も学校は楽しかったか?」


 オレが言うと、レオン君は元気一杯に両拳をグーにして答えた。


「うん! 体育でバスケをやってね! 二回もシュートが入ったんだよ!!」 

「ふふ、レオン君は勉強だけじゃなくて運動も得意だからなぁ。姉ちゃんとは大違いだ」

「違わないよ! お姉ちゃんも沢山頑張ってるもん! 今日もアルバイトお疲れさまー」


 そう言うとレオン君はオレの学生鞄を奪い取って奥の和室へ向かい、数秒して戻ってきたかと思えば、今度はお風呂を追い焚きするねと風呂場へと走って行く。


 やれやれ、オレはまだ靴も脱いでいないというのに、、


「まったく姉ちゃんは幸せ者だよ」


 1Kでバス・トイレ別。ベランダなしで家賃が四万円。こんな狭くてジメジメした場所に暮らしていようが、姉弟二人ならどおってことはないのだ。


「世田谷区にしてはこれでも家賃が安いっていうしな」

「そうだお姉ちゃーん、今月の電気代の紙が入ってたよ。3774円だって」


 オレは風呂場からの声に「んー」とか答えながらキッチン横の四人用テーブルセットの小さな椅子に座り、黄ばんだ天井を見上げながら今月の給料と生活費の引き算を始めた。


(今月もまたギリギリか……)


 今朝に置きっぱなしにしたコップの中の水道水を飲み、風呂場から戻って正面に座ったレオン君を眺める。流石成長期か、そろそろ身長が抜かれてしまうな。


「でさ、お姉ちゃんは学校楽しいの?」

「ん? まあ普通じゃないかな。なんで?」

「だって三年の女子の先輩がお前のお姉ちゃんは元気か? ってよく聞いてくるから」

「おいおい、ちょっかい出されてないだろうな?」

「うん? 先輩はみんな優しいよ?」

「マキ中の女はアホが多いからな。レオン君は特に可愛い顔してるんだから気をつけろよ」

「大丈夫だよ。ボクなんて同じ一年の女の子にも弄られてばっかりだし。なんかさ、隣のクラスの子達にも伝わっちゃったみたいで、毎日からかわれるはで笑われっぱなしだよ」


「…………そうか」


 そういうのをちょっかい出されるっていうんだけどな。でもレオン君は超絶可愛いから群がりたくなる雌の気持ちも分からんではない。だが、許さん。


「今日もお風呂の前に前髪整える?」

「うん、お願い。毎日毎日助かるよ」

「いいよ、だってボクにはこれくらいしかできないから」


 少しだけ寂しそうに言うと、レオン君はゴミ袋で作った散髪用のマントをオレに被せ、真剣な眼差しでオレの右十字をジッと見た。





 両親が家を出てもう四年になる。


 親父は俗に言うギャンブル中毒者で、オレが2月12日に生まれると、


「なんや、ハズレ図柄やないかい」


 とを外れ扱いしたらしい。よくは分からないがパチンコか何かの話だろう。


 そういうツケが諸々重なってか借金取りに漁船に乗せられて、後たっぷり五年は帰ってこないそうだ。

 そして母親は親父が漁船に乗った次の朝、おにぎり4つと手紙をテーブルの上に置いて消えていた。元から家を空けがちだったし、外に別の男がいたのだろう。


 今となってはその時のおにぎりの具も、手紙の内容も特に覚えちゃいない。


 ただ、レオン君がわんわん泣いていたのはよく覚えている。


 だからワタシは大丈夫だよって、一日中レオン君を抱きしめながら言い続けた。


 中学に入りたてのワタシにはこれからどうすればいいのかなんて分からなかった。

 頼れる親戚もいなければ、相談できるご近所さんだっていなかった。


 家を出て施設に入る? 何の知識もコネも力も無い自分達にはその選択肢しかないのか。


 ぼんやりとそんなことを考えながら、腕の中でまだ泣いているただ一人の家族を思った。


「レオン君。そろそろ晩御飯だけど何食べたい?」

「……え?」


 事態を理解していない姉だと思われたのか、その時ばかりは泣き止んだ。


「こういう日くらいはさ、好きなもの食べたいじゃない?」

「…………ハンバーグ。お母さんが作ったハンバーグが食べたい!」


「そんなの全然作ってもらったことないじゃん。……でも、ハンバーグが食べたいのね?」


 ワタシは家中探し回った。

 冷蔵庫の下を探り、ポスターを剥がし、棚という棚の裏側を覗き、和室の畳を引っぺがして、ようやくどちらかが存在すら忘れてしまったのであろうヘソクリ、三万円が入った茶封筒を発掘した。


 日頃から借金取りが出入りしていた家だし、よくお互いに隠している両親を見て育ってきたから、それくらいはまだあるのだろうと確信があったのだ。


 そしてレオン君を家に残して、錆びた鉄階段を急ぎ足で下りているところで、ワタシの視界がやっとのこと歪み始めたのだ。



 惨めだった。

 これまでの生活も、これからの生活も。


 あまりにも惨めだった。



「だからこの三万で今日だけはワタシたち二人が誰よりも贅沢にすごしてやるんだ!!」



 それが終わったら警察にでも行って保護してもらおう。


 情けなくて、ダサくて、何より惨めで、お先真っ暗な人生を呪いながら歩いた。


 だから顔がグシャグシャだったのろう。駅前商店街に着くと、仲良く手を繋ぐ親子連れのガキがワタシの顔を指差して笑ったのだ。それを注意したお母さんすら薄ら笑いで、、



「お前に何が分かる! お前に、お前らにワタシの何が分かるんだよぉ!!!」



 本当はぶん殴ってでも泣かしてやりたかったのに、叫んでせいぜい罪悪感を与えることしかできない自分に、その弱さにどうしようもないくらいにムカついて地面を踏みつけた。



 自分が強ければ世界は変わったのかもしれない。


 そんな的外れで、生まれや育ちとはまったく関係の無い論点が更に怒りを加速させた。


 踏みつけて、踏みつけて、踵が激痛に耐えられなくなり、へたり込んで泣いて、地面をグーで殴って、すぐに後悔して顔を上げた、その時に、、、ソレを見つけたのだ。



 小さな中古スマホショップ。その店頭ワゴン。

 旧型、型落ち、大特価。


 スマホガン。Deusシリーズ初期型 Lighthing 01。


 色各種。本体価格税込みニ万九千八百円。



「……ごめんレオン君。ハンバーグ、また今度ね」

 ワタシは色なんて気にせずに、ワゴンの中の空箱を手に取って店内へと入っていった。





「お姉ちゃん終わったよ」


「……おう、今日も見事な90度だ」


「数ミリも切ってないけどね。でも後ろの毛先が少し荒れてたから良い感じにしといた!」

「うん、流石だなレオン君。絶対プロになれるよ」

「えへへ、そんな毎日言わないでもぉ」


 レオン君は毎回のように照れて、和室へと逃げていった。可愛い我が弟め。



「………………。」


 あの日、スマホガンを手にしてからここまできた。


 施設や警察の世話になることもなく。いや、警察には何回か補導されましたけども。

 とにかく、あの日オレは強くなろうと決めたのだ。


 カツアゲやら、用心棒やら、復讐屋やら、金になりそうな喧嘩には飛びついた。

 家に帰れば練習して、練習して、練習して、喧嘩して、喧嘩売られて、喧嘩を買って。


 相手が小学生だろうと中学生だろうと高校生だろうと母校も他校も関係なかった。


 自然と口調は変わっていった。気が付いたらオレはオレと呼んでいた。


 その間何度も負けたし、何度も汚い手を使って勝った。

 生きるのに必死だったから、その辺は特に気にならなかった。


 食費を稼ぎ、家賃を払うために金を貯め、家にあった物もほとんど学校の連中に売った。


 そして二回目の家賃を大家に払い終えた後、思い出したように様子を見に来た借金取りのおっさんと遭遇し、思い切って銃口を向けて啖呵を切ったところ偉く気に入られたのだ。


 おっさんには色々と子供にはできない手続きをやりくりしてもらったり、払わなくてはならない公共料金などの支払い方なども教わった。あまり言いたくもないが、金も僅かばかりは借りている。親父が払っている利子分でいいと言ってくれているが、いつかは必ず返すつもりだ。


 そういう中なので何かと金も掛かるだろうし、中卒でもいいかと悩んだのだが結局オレは高校に行くことを決めた。何故かと言えば、荒れた中学時代で何をするにしても人との繋がりは大切だと学んだからだ。もの凄く言葉を悪く言えば、金になるし、いざって時に使える人材を作ることができるからだ。その考えは今でも的外れではなかったなと思う。



 そしてレオン君。


 愛しの弟君の人生だけはオレみたいな躓きっぱなしのもんじゃなくて、スキップしながらとは言わないから、せめて不自由なく真っ直ぐ歩いていけるようなものであって欲しい。


 なんでも将来は美容師になりたいそうだ。素敵な夢を持ってくれて姉ちゃんは嬉しいぞ。


「美容師学校の学費が二百万ちょい……あと二年はあるし、まぁ無理な額じゃないよな?」


 コンビニのバイトでコツコツ貯めて、オレが卒業して丸一年働けば貯まる。はずだ。



「関君マジギレしてたんだけどっ!!」

「ぬわぁ!? びっくりしたあ!!」


 ボロアパートの扉は蹴り開けるなよなぁ!? 現れたのは部屋着なクラスメイトの優妃。


「あんた何したの? まともにレジ打ちすらできないならクビにするわよ!!」

「そんな殺生な……。無人レジじゃないコンビニなんて今どき難し過ぎるんだよ」

「ふざけんな! うちは確かにチェーン店じゃないし無人レジじゃないけど客入りと売り上げは町内1なの! でも誰かさんのせいでネットのレビューに☆1が増えてんのよ!」


 もう珍しくもない優妃のマジギレにオレは「どうどう」と声に出しながら慰め、水道水の入ったコップを手渡すとマジビンタされて水をぶっ掛けられた。


「あ、優妃さんいつもありがとうございます」


 レオン君が絶妙なタイミングで和室から顔を出して挨拶する。慣れているからこっちも動揺はない。でも優妃が美人だからか、いつまでもどこか恥ずかしそうで。


「はいどうもってキミからも言ってあげてくれない? レジ打ちすらできないなんて親族としても恥ずかしいでしょうに」


 君のお姉ちゃんはとっても無能なんだよ? って感じの呆れ顔を披露してくる。


「で、でもボクはアルバイトしたことないし、お姉ちゃんに食べさせてもらっているので」


 もうレオン君大好き! ってときめいていると、優妃の顔がさっきより一層怖くなった。


「お姉ちゃんに食べさせてもらっているのでぇ?? キミたち姉弟はうちから出た廃棄のお弁当を毎日食べて生きているのよ??? 特にキミのお姉ちゃんは学校でさへもお昼にアタシが作ったお弁当まで食べさせてもらってねっ!!」


 それを言われると我々姉弟は優妃に何も言えなくなり、松島家の家畜以下の存在となる。


 レオン君も言葉を選び間違えてしまったと、深く反省した。と言うよりションボリした。


「で? 今日の弁当は?」


「で? 今日の弁当は? じゃねえつってんだろ!!」

「ぐぼぁ!?」


 ボディブローを一発。対男子用マーシャルアーツのせいで若い女は誰でも本格的な打撃を叩き込めるから困る。しかも優妃はその成績が凄く良かったと聞いているし、納得だ。


 前屈みになりながらレオン君を見ると顔を真っ青にしていた。こんなに可愛い弟ですら何回も実験台当番になったのだから、それだけで女男再平等政策はクソだと言ってやる。


「ま、いいわ。でも次に問題起こしたら今度こそクビにするから。それから今まで以上に感謝してお弁当食べなさいよ? 今日は持ってきたけどいつでも廃止してやるんだから」


「「はい、ありがとうございます。」」


 二人して頭を下げる。優妃のおかげで食費が毎日ほぼ0円なのは事実なのだから。


 でも、この関係は一方的なギブではない。

 その事にオレも、レオン君も気が付いているが決して口にはしないのだった。


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