第17話「人狼令嬢」

 鼻腔を擽る柑橘系の香り。

 シルフィーは目を見開き、その顔を強張らせ、


「あああああああああああああ!!!」


 絶叫した。両手で顔を隠す。

 来る。痛みが、変化が。恐ろしい体毛が顔を包み込む。頭に獣の象徴が生えてしまう。

 短い悲鳴と共に手をしきりに動かす。のたうち回り騒ぎ続ける。


 痛みはない。だが油断はしない。アンジェの時は若干のタイムラグがあった。シルフィーは身を震わせながら亀のように体を丸くする。


 だが、いつまで経っても痛みは来なかった。

 明らかにおかしいと思いながら顔を上げると、アンジェが立ち上がっていた。自分の首元に香水を吹きかけている。


「やっぱり、あんまり好きじゃないわ、この香り。ゼクスはどう?」

「くっさ! もっとこう落ち着いた香りがいい!」

「臭いって言うんじゃないわよ、女性に向かって」

「アンジェ先生臭いわ~」


 アンジェの蹴りがゼクスの尻を強襲した。少年の叫び声が木霊する。

 シルフィーは状況が飲み込めずにいた。


「やっと落ち着いた? ただの香水よ。苦労したわ、記憶を頼りに同じデザインの香水手に入れるの」


 心の中で買ってきたビルに感謝する。


「だいたい獣人になってから全然余裕無かったんだから。学園中のゴミ漁ったり集めるわけないでしょう。ちょっと考えればわかるのに。本当馬鹿ね、シルフィー。残ったのは己の行いを自供しただけの哀れなあなただけ。馬鹿ね。本当に馬鹿よ」


 アンジェの声に寂しさが混ざる。


「不満があるなら言って欲しかった。けど、そうならなかったのは……友達じゃないから、かしら」


 シルフィーは怯えた目を地面に向けた。


「……友達と思ってたのは私だけだったのね」


 香水をその場に捨てギルフォードに近づく。ゼクスは警戒しながらもアンジェに続く。


「久しぶり、ギル」

「あ、アンジェ……」


 大切な存在に二度も裏切られた気分だろう王子は顔面蒼白だった。

 肩越しに、親指でシルフィーを差す。


「”愛する奥さん”の言葉、ちゃんと聞いてあげなさい。裏も表も根掘り葉掘りね。その上で決断しなさい。呪いを使って人に取り入ろうとする魔女に対して、どんな処分を下すか」


 未練がないわけではない。もしここでギルフォードが腕を取ろうものなら、決心が鈍っただろう。

 すれ違う。これが最後のチャンスだった。


 ギルフォードが動く。駆け足で、シルフィーに近づいた。


 アンジェは鼻で笑い、最後に残った男の前に立つ。


「お久しぶりです。お父様」

「……アンジェ」

「長話はできません。なので手短に、まずはお礼を申し上げます」

「え?」

「気付きました。お父様が、私を助けようとしていること」


 ビルたちを連れて来た時は、父が殺そうとしているのだろうと思っていた。だが徐々にそれは違うと理解した。


 ビルに魔法を放った時から違和感があった。会合時、魔法を放つ前に彼の剣は届いていただろう。だが彼は体重を移動し、アンジェに剣が当たらないようにした。

 戦闘に負けた後もおかしい。生きているならさっさと兵士を連れて戻ってくるか、もう一度襲ってくるはずなのに、彼らはそれをしなかった。


 そもそもの話、最初から殺す気なら傭兵など雇わず兵士を引き連れるはずだ。


 つまりラスティはアンジェを逃がし守るために傭兵を雇ったのだ。


「……そうか、気付いてしまったか」

「はい。感謝しております。お父様とお母様の力があったからこそ、私はまだ生き恥を晒すことを許されてます」

「アンジェ。もう一度戻ってこれるはずだ。呪いをかけられたことが証明されている。ギルフォード王子は彼女を庇うかもしれないが、罪を隠蔽するような方ではない」

「いいえ。私がここで戻っても、失った信頼は戻ってきません。万が一もあります。なので……ギルフォード王子!!」


 声を上げた。ギルフォードがアンジェの背を見る。

 アンジェは、自分の右目に指を入れた。

 ラスティが息を呑んだ。


「あ、アンジェ!!? 何を!!」


 痛みはあったが奥歯を噛んで堪える。

 そのまま目玉をえぐり取る。ゼクスは眉間に皺を寄せながら、それを見守る。


 空気が強張る中、取り出した魔眼をラスティに差し出す。


「アンジェの瞳には夜空が広がっている。輝く月も星も浮かんでいる……少し手を伸ばすだけで、月を掴めるようだ。お父様の言葉、心に刻まれてます。ですがここには美しい愛はありません。哀れな娘の思いだけを込めて置いて行きます」


 ラスティが口を開ける。掠れた息しか出てこない。


「受け取ってくださいませ。私の思いですわ、お父様」


 おずおずと手を出した。そこに魔眼を乗せる。

 限界だった。

 アンジェの顔が、獣に変わる。


「……アンジェ……!」

「……私はアンジェ・レイクアッドではない。名が同じだけの、他人でしょう」


 漆黒のドレスを翻す。

 片目から血を流し続ける狼の顔が、ギルフォードに向けられる。


「私の名はアンジェ。白銀の人狼、アンジェ。レイクアッド公爵の娘になりすまし、王子を殺そうとした魔物。しかとその心と瞳に刻み付けていただきますよう、お願い申し上げます」


 ギルフォードはアンジェを見つめながら、静かに頷いた。

 再びラスティに向き直る。


「魔眼の無い私はもう、僅かな魔法しか使えない獣人間です。たいした危険もありません。それを見せつければ退治したといっても過言ではないでしょう」


 アンジェは笑みを浮かべた。


「これにて私の復讐、完遂です。それでは」


 駆け出す。


「待ってくれ! アンジェ!! なぜこんなことを! 逃げればよかっただろうに!」


 ラスティが声を荒げた。跳躍し門の塀に降り立つ。


「決まっているでしょう! 愛する人がムカつく女に取られそうになってる。だから邪魔してやっただけですよ!!」


 楽しげにそういい放つと、二匹の人狼は闇夜に溶け込むように、その姿を消した。

 星のように輝く白き体毛も、やがて見えなくなったところで、ラスティは膝を折った。


 そして手の平に残った瞳を、両手で大切に包んだ。

 指の隙間から零れ落ちないよう。


 砂のように、零れ落ちないよう。


 華のように、大切に握りしめた。

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