第4話「出会い」

「しまっ────」


 考え無しの行動だった。魔法も使ってないのに4階から落下したら無事ではすまない。もう魔法を使う暇もない。

 瞳を恐怖に染めながら、アンジェは両足で着地した。


「……あれ?」


 痺れも衝撃もない。階段を一段飛ばして降りきったくらいの軽いものだった。

 困惑していると耳に話し声が届く。


『娘は4階にいます。なるべく静かに歩いてください』

『わかってますよ旦那。なるべく穏便に済ますんで』


 ラスティと男の声。後者は先ほど話していた傭兵だろうか。

 アンジェは小さな悲鳴を上げ駆け出した。大地を蹴飛ばすと一気に加速する。

 駆け抜ける速度は一陣の風になるかの如くだった。アンジェは自身の速度に驚愕する。


 獣人の足の速度は人では絶対に追いつけない。それどころか馬すら凌駕すると聞かされていたが、これほどとは。

 チラと後方に視線を向けるとみるみるうちに家が小さくなり見えなくなった。


 人目につかないよう公道を外れ森の中に入る。


「はぁ……! はぁ……!」


 必死に足を動かす。木々が、アンジェを避けるように後方に流れていく。


 皮肉だった。醜いと罵っていた魔物バケモノの力が、アンジェを救っていた。

 アンジェはその事実を認めないようにしていた。


 認めたら、体だけではなく心も獣に堕ちるような気がしたからだ。




ααααα─────────ααααα




 あてもなく走り続けて森を抜け視界が広がる。


「あっ────」


 眼前に広がった光景に息を呑む。


 巨大な湖が広がっていた。天上に浮かぶ星々と月が水面みなもに浮かんでいる。

 地面に新たな夜空が広がっているかのような幻想的な光景だった。


 アリメルだ。あまり大きくもなく、小さくもない湖。少し山奥にあるという立地の関係で観光地にすらなれない場所だ。


 レイクアッド邸から馬を使って二日ほど。天候によってはそれ以上かかるほど距離が離れているというのに、わずか数時間で到着するとは。アンジェはたまの休暇、ここで穏やかな時間を過ごしていた。


 アンジェはこの場所が好きだった。現世から隔離されたような静かなこの空間が。


「こんな……格好で……ここに来るなんて」


 喜ぶ気力も余裕もない。

 湖に近づく。穏やかな水面は、相変わらずゴミひとつ浮かんでいない。


「綺麗……」


 まるでアンジェを招くように水面が揺れた。一歩踏み出せば、足のつかない底無しの地面が彼女を出迎える。


 ────身を投げてしまおうか。アンジェの脳裏に言葉が過ぎる。

 どうせこれ以上生きててもしょうがない。この湖は美しい。醜い私すらも包み込んでくれるだろう。


 いや、拒否するだろうか。

 せめてここだけは、自分を受け入れて欲しい。

 一縷いちるの望みを胸に抱きアンジェは足を上げた。




「あのさ。自殺なら他所でやってくんない?」




 アンジェの耳に、凛とした、それでいて燃えるような力強さを感じる声が聞こえた。

 顔を上げて右に視線を向ける。


 木製の釣り竿を手に持つ少年がいた。

 歳は13、くらいだろうか。真っ黒な髪の上には狼の耳が生え、腰からは黒く、長い尻尾を生やしている。


 肩を出した奇抜な服に身を包んだ少年は顔を向けた。垂れ目が目立つ精緻せいちな顔立ちをしてた。白い肌は女性のアンジェが嫉妬しそうなほどだった。


「わかるだろ? 今釣りしてんの。魚が驚いて逃げちゃうでしょうが」


 少年が睨む。

 人間の顔に獣人の特徴。彼は、世にも珍しい半獣ミックスだった。


「……ほっといてよ」


 だからなんだというのだ。

 苛立ちを露にするように、アンジェはベールに脱ぎ捨てた。走っている間も脱げなかった代物が地面に転がる。


「みんなに嫌われて! 恨まれて! 殺されかけて! このうえバケモノに文句言われるの!? もうたくさんよ!! こんな、こんな辛い世界で生きていくなんてっ!!」


 アンジェは胸元を押さえ叫んだ。大粒の涙を零しながら。

 少年は肩をすくめた。


「うるせぇ奴だな」


 アンジェが「うっ、うっ」と鳴く。

 それから十数秒後。


「……慰めなさいよぉ!!」

「うぉっ! ビックリしたぁ! なんなんだよあんた! 初対面の相手になに求めてんだ!?」

「うるさい! 獣人でも人間でもない半端者のくせに!!」

「あぁ!?」


 少年が歯を剥き出しにした。鋭い犬歯が姿を見せる。


「さっきからうるせぇんだよ! 何があったか知らねぇけど、見ず知らずの他人に当たんじゃねぇ!」


 激昂する少年に対し、アンジェは目を丸くする。


「だいたいそんな元気があるなら自殺なんか考えねぇで頑張って────」

「ちょ、ちょっと」

「なんだよ!」

「つ、釣り竿!」

「え?」


 少年が釣り竿を見た。三日月の如くしなっていた。 


「うぉお!? やべぇ! かかってるかかってる!!」


 腕に力を込め必死に引く。ミシミシと竿が音を立て、ピンと張った糸は今にも切れそうだった。


「は、腹減って力でねぇ……くそっ! おい、あんた! 手伝って!」

「え!? 私!?」

「早く!! あんたにしか頼めねぇんだよ!」


 困惑するアンジェは頭を振りながらも少年に近づき釣り竿を握る。


「……なにしてんの、私……」

「ほら! 引いて!」

「ああ、もう! なんなのよ!!」


 もはやヤケクソだった。目尻を上げたアンジェは怒りをパワーに変え竿を引く。


「どいつもこいつも、ふざけんなぁっ!!」


 二人同時に思いっきり竿を引いた。

 途端に水面から巨大な魚が飛び出した。空を揺蕩たゆたうように身を動かす魚は、そのまま地面に自由落下した。


「よしきたぁ!」


 少年は右手を振り被る。一瞬で肥大化し、体毛が生え、五指が巨大な爪に変わる。

 そのまま振り下ろした。ザクッという音と共に、爪が魚に突き刺さった。


「よっしゃぁ!! 今日の夕飯ゲットォ!!」


 少年は獣化じゅうかを解くと、アンジェに向き直り、左手を上げた。


「ハイタッチ!」

「は?」

「ほら!」


 おずおずと手を挙げた。少年はアンジェよりも頭ひとつ分小さいため、小さくジャンプして平手を当てる。


「あんたがいてくれてマジで助かったよ。さて、お魚お魚~」


 少年は鼻歌を奏でながら帰り支度を始めた。

 アンジェは黙ってそれを見つめ続ける。少年は釣り竿を抱え、魚を手に持つ。


「んじゃ。俺はもう帰るんで。あとはご勝手に」


 そのまま背を向け歩き出した。が、数歩進んで、止まった。

 肩越しに未だ立ち尽くしているアンジェを見る。


「……あのさぁ」

「……なによ」

「家、帰れば?」

「……無いわよ。帰る家なんて」


 沈黙が流れる。

 先に声を出したのは少年だった。


「……手伝ってくれた礼に、話くらい聞くけど、どうする?」


 アンジェは柳眉りゅうびを逆立て、プイと顔を背けた。

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