第2話「三日前」

「まったく。使えないわねっ!」


 アンジェは水の入ったコップを手に取り、前に勢い良く振った。制服を着た女子生徒がそれを一身に浴びる。恐怖で青白くなった顔は下を向き、唇をきつく噛み締めている。


「私、何か難しいこと言った? 「次の授業の教材を取って来て欲しい」。それだけなのに。どうしてあなたは手ぶらで戻ってきてるの?」

「も、申し訳ございません、アンジェ様。ただ、教材が見当たらず……」

「当然でしょう」


 カフェテリアの椅子に座っていたアンジェは指を鳴らす。荷物持ちの男子生徒が鞄を持ってくる。


「遅いわ」

「も、申し訳────」

「喋らないで。息が臭い。豚みたいな男ね、本当」


 アンジェは愚痴りながら鞄から教材を取り出した。女子生徒が目を丸くする。


「ここにあるもの」

「え……え? なんで」

「まだわからない? 下級貧乏貴族のあなたを人形にして遊んでただけよ」


 ボスコール子爵の娘に当たる女子生徒は頬を真っ赤に染め、再び地面に顔を向けた。

 

「もういいわ。消えて。鬱陶しい」

「で、でも、アンジェ様」

「あとで私のお父様に伝えておくから。ボスコール家のご令嬢は非常に生意気で、私に立てつく身の程知らずだって」

「そ、そんなことをされたら、私、学園にいられなく」

「それでもいいでしょう? いてもいなくても変わらない存在なんだし」

「ゆ、許してください! なんでも、なんでもしますからぁ……!」


 女子生徒は頭を下げた。


 楽しい。人が頭を下げる姿はなんと滑稽なのだろう。


 アンジェは高笑いして自慢の銀の長髪を靡かせると、カフェテリアを離れた。


「アンジェ様、相変わらず容赦ありませんね」


 ついてきたシルフィー・ソムナスは声を弾ませながら声をかけた。

 彼女はこの学園で唯一、アンジェの友人ともいえる生徒だ。


「ただの遊びよ。それよりシルフィー。今夜のダンスパーティーだけど」

「承知しております。アンジェ様とギルフォード様のダンスを邪魔する者はおりません」


 ギルフォードは、ナルガンディア王国の第一王子にして、アンジェの恋人だ。

 王族とレイクアッド公爵家との歴史は長い。幼い頃から会っている二人が恋仲になる機会などいくらでもあった。


 すでに────両家の間にしか知らされてないが────婚約状態でもあるため、アンジェの人生は”勝ち組”の道を歩くことを確約されている。


「生まれが全てね。何不自由ない生活を送れる者、屋敷ひとつ持てない者、日々の食事にすらありつけない者、獣の餌になる者」


 学園の廊下を歩きながら喉奥を鳴らす。


「さっきの。ボスコール家の女。あの顔見た?」

「はい」

「家だったらお腹を抱えて笑ってたわ。あんな風にはなりたくないわね。けど、もし機会があるなら1日だけ底辺の生活を体験してみようかしら。下々の生活を知るのも王妃になる私に必要な知識だと思わない?」


 アンジェは肩越しに、半歩後ろを歩くシルフィーを見た。


「立派な心掛けだと思います。アンジェ様は本当に優しく、聡明な方です」


 シルフィーの、薄い橙色のミディアムヘアがふわりと動いた。




ααααα─────────ααααα




 今日はアンジェが通うセラフィム魔術学園の創立記念日だ。剣と魔法が蔓延るこの世界において、セラフィム魔術学園以上に魔法を学べる場はないだろう。


 記念日の夜は毎年、学園の象徴である研究塔オベリスク上層の広間でパーティーが開かれる。


 アンジェの心は弾んでいた。今夜会場でギルフォードと踊り、告白と共に指輪を渡され、婚約を正式に発表する。

 2年前から計画していたのだ。きっと上手くいく。


「ふん~。ふふ~ふ~ん。ふふ~ん」


 鼻歌が零れてしまう。はしたないと思うが止まらない。


「うっ」


 そこで息が詰まった。コルセットが食い込んだのだ。アンジェは目に角を立てる。


「ちょっと!! 痛いんだけど!」

「も、申し訳ございません」


 屋敷から出張しているメイドが頭を下げた。5人がかりで身だしなみを整えており、他の4人のメイドは顔を逸らした。


「使えないメイドね。クビにしようかしら」

「えっ!?」


 アンジェはふっと微笑む。


「なんてね。冗談よ」


 即座に、ギロリとした目付きでメイドを睨む。


「ただこれ以上私の気分を害したら、殺すから」

「……は、はい」


 ナイフのような鋭さを持つ切れ長の目で睨まれたメイドは委縮した。

 ”殺す”という言葉に一同は顔を青くした。冗談ではないのだ。

 彼女が死ねといえば、従者は死ぬ。死ななければならない。


 誰もが彼女を恐れていた。そんな彼女に軽く声をかけられるのは王族と家族と、


「アンジェ様ぁ!」


 シルフィーくらいのものだ。

 アンジェが目を向けると、彼女は手に持っていた香水の蓋を開けていた。


「それは?」

「この日のために買っておいた香水です。ギルフォード様が好きなシトラスの香り。使いますか?」


 大切な友人からの申し出だ。アンジェは頷く。


「ええ、お願いしてもいい?」

「では」


 手首と首の後ろに付けられる。

 キツい柑橘系の香りだった。好きな匂いではない。むしろ苦手だ。

 アンジェは舌打ちしそうになったが笑みを浮かべる。


「……いい香り。準備万端ね。行くわよ、シルフィー」


 アンジェは顔に花を咲かせ、シルフィーは口角を上げた。


 パーティー会場に入る。10分遅れでの入場だった。


 細い体型に長身。見事な美貌と流れるような銀髪を併せ持つアンジェは、会場内で目立っていた。

 すでに中に入っていた生徒や貴族たちがアンジェに声をかけ機嫌を取る。レイクアッドの名の強さを再確認する。


「ごきげんよう。はい、ごきげんよう。通してちょうだい」


 アンジェは女性陣が集まる場所に足を動かす。

 集団の近くに着くと、


「通していただけるかしら?」


 優しく。優しく声をかけた。

 集まっていた女性陣は小さく頭を下げて花道を作る。


 その先にいるのは、誰もが平伏する王子、ギルフォード・ユービックだった。


「ああ、アンジェ。今日も綺麗だね」

「ふふ。あなたも。とても素敵よ、ギルフォード」


 美しい金色の髪と瞳を持つ、端正な顔立ちのギルフォードが手を差し伸べる。


「一曲。踊っていただけますか? お嬢様」

「……ええ。もちろん。私の王子様」


 手を取った。

 その時だった。


 アンジェの視界が揺らいだ。


「え」


 次いで襲ってきたのは吐き気と頭痛だった。

 アンジェは差し出した手を自身の口許に当てる。


「あ、ぐ、あぁあああ!!」


 痛みが顔全体に広がる。頭を抱えて蹲る。


「────!!」


 ギルフォードが、誰かが叫んでいる。だが何を言っているかわからない。

 痛みが全身を駆けている。


「アァァアアアアアァァアア!!!」


 視界が真っ黒になりアンジェは叫んだ。自分の声ではないような、別の生き物の咆哮を上げる。


 口に固い何かが当たる。次いで生温かい水が口内で踊る。

 すると視界に色が戻ってきた。


「……はぁ……はぁ……!!!」


 荒い呼吸を繰り返す。痛みは治まっている。

 いったいなんだというのだ。蹲っていたアンジェは周囲を見回す。集まった者たち全員の視線が集まっていた。


「も、申し訳ございません。私はいったいなにを……」




「バ、バケモノ……」

「魔物……!? 魔物だ!!」

「獣人が現れてる!!」

「兵を呼んで来い! 女子供を逃がせ!」




 全員の叫び声が耳に届く。


「なんということだ。レイクアッドの令嬢は魔物だったのか!?」


 アンジェは困惑する。何を言っているのだ。この衆愚は。

 いったい、なにを、言っているのだ。


 アンジェは正面に目を向けた。

 ギルフォードが右肩を押さえてながら立っていた。怯えた瞳を向けながら。


「あ、アンジェ、様? なんですか、その姿は」


 誰もが距離を取り恐れる中、近づいてきたのはシルフィーだった。

 彼女の手には手鏡が握られている。


「え……? し、シルフィー? 私、え? いったい?」


 シルフィーが鏡を向けた。

 そこに映っていたのは口許を真っ赤に染めた狼の顔。


 プルプルと震える手を上げ、自身の顔を触る。


 指先が狼の毛に埋まった瞬間。


 アンジェは、国中に響くかのような絶叫を発した。

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