第9話 真相

 葵にとっては、訪れるのが二度目のレジャープール。しかしそのどちらも、楽しい思い出を作ることはできなさそうである。一度目は憧れの人に幻滅し、二度目はあの人が封印しようとした過去をこじ開けることになるからだ。

 大川栄慧が亡くなった五十メートルプール。そこには、二人の影があった。予定の時刻よりまだ幾分か早いが、葵は話を切り出すことにした。

 白水、西田、金田は、さりげなく移動しながら出口の近くに立ち、退路を断った。

「お集まりいただき、ありがとうございます。ただいまから、今回の大川選手が無くなった事件の真相をお話しさせていただきます」

 葵がそう言っても、二つの影は黙ったままだ。

「最初に、大切なことを話します。今回の事件において、あの数珠は偽装工作の一環として使われたもので、連続殺人を意図するものではありません。ここで私が事件を解決すれば、もう被害者は出ないはずです」

 葵はそう言って二つの影の方を見るが、相変わらず二人に動きはない。片方が片方の影を見つめ、もう一方の影は能面のように表情を変えない。

 葵は軽く溜息をついた後、話を再開した。

「本当は、大川選手の死因を聞いた時に気付くべきだったんです。筋弛緩剤、一般人には入手することも困難ですし、使うなんてことはもっと困難です。それにこれは後から分かったことですが、大川選手は呼吸筋だけが動く状態に調整されて、プールに投げ入れられたようです。まるで、溺れる苦しみを味合わせたかったようにね」

「ま、待って葵ちゃん。まさか、私が犯人だっていうつもりじゃないわよね」

 影の内の一人、初田和代が声を上げた。葵の口ぶりから自分が犯人として名指しされると思ったようだが、葵は首を横に振った。

「本当は違う。犯人は、筋弛緩剤を投与する時に躊躇ためらったんです。自分のしていることが間違っていると分かっていたから……そして、相手がこれまで大切に育ててきた選手だったから……そうですよね、松本公子さん」

 公子は、変わらず能面のままだ。

「あなたが、打ち合わせの合間にトイレへ向かうふりをして大川選手を殺害したんです。黒い数珠も、あなたが荷物に入れたんですよね」

「仮にそうだとして、証拠はあるの?」

「ありません。だから、自供していただきたいんです」

「やっぱりね、そのために和代を呼んだわけだ。分かった、認める。私が大川栄慧を殺害しました。これでいいでしょ」

 公子は能面の如き表情のまま、あっさりと犯行を認めた。

 そのあまりの潔さに、葵と和代以外の全員が面喰っていた。まだ葵は、公子のことを名指ししただけである。犯行を証明したわけでも、証言の矛盾をついたわけでも、物証を提示したわけでもない。まだ言い訳のしようなど、いくらでもあるはずだ。それなのに、あっさりと犯行を認めた。これは一体、どういうことなのだろう。

「公子さん、随分あっさりお認めになるんですね。自分が殺人者であることよりも、何か隠したいことがあるのでしょうか」

「もう分かってるんでしょ。呼び出しの電話の時点であんなこと言っておいて、白々しいのよ」

「それでも、いいんですか?」

「……何が言いたいの」

「大川選手の誤解を解かないままで……和代さんに本当のことを話さなくて、このままにしておいてあなたは本当に平気なんですか!」

「構わない! それが私の決めた道。最初から覚悟はできていた」

 そう言うと公子は白水の方へ歩み寄り、両手を前に差し出した。白水は戸惑い、葵の方を見る。葵は首を横に振るが、公子は更に白水に詰め寄る。その勢いに気圧され、白水は公子に手錠をかけてしまった。

「犯行の際に使った注射器は、私の自宅にあります。そのまま放置しているので、調べれば大川の血液なり体液なり、何らかが見つかるでしょう。大川から盗んだスマホも持っています。これで、十分な証拠になりますよね」

「ええ、それはもちろん。でも――」

 白水が連行を躊躇っていると、公子の背後から声が聞こえた。

「刑事さん、連れて行ってください」

 初田和代の声だった。

「公子、私には何も言わなくていい。ただ、警察にはすべて正直に話して。大丈夫。彼が罪に問われることは、もうないんでしょ」

 その言葉を聞いて、公子が着けていた能面は一瞬で外れた。涙を流しながら和代の方を振り返り、震える声で話した。

「和代……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。私……私……」

「もういいから。泣かないでいいから」

 公子は、和代の胸に抱かれた。和代は公子のことを受け入れ、優しく頭を撫でた。そして公子が落ち着いてから白水の方を向き、無言のまま頷いた。白水はそれに応える形で、公子の肩を抱いて和代から引き離した。

「和代」

「なに?」

「近々、きっとあの子があいちゃんに手を合わせに行くから、その時は……」

「公子、ずっと言いそびれてたんだけどさ。あの子、めぐみだよ」

「……あの子にも言っておくわ」

 松本公子は苦笑いして、初田和代に背を向けた。そしてゆっくりと、白水に連れられて五十メートルプールから外に出た。数分後、パトカーのサイレンが轟いた。

「和代さん、本当に良かったんですか? 松本さんの口から直接真実を聞かなくて」

「あなたが教えてくれたから、大丈夫よ」

 初田和代の家で巫女舞を終えた葵は、確証がなく、憶測の域を出ない話だと断っておきながら、その場で自分の推理をすべて話していた。大川栄慧を殺害したのが松本公子であり、その動機は八年前の事故の真相を隠蔽するためだ、と。

 和代は八年前の事故の真相を聞いたうえで、それでも捜査の協力を申し出た。松本公子は、その事実を簡単に認めない。だが和代がその場にいれば、動機を暴かれたくない公子は大川栄慧殺害を自供するだろう、と言って。事故の真相が明らかになるかどうかは警察に――公子に任せると。そう言ったのだ。

 その思いは、公子にも通じたのだろう。警察の取り調べでは、正直にすべてを話した。


 今回の事件には、八年前の事故が関係していた。初田和代は松本公子から告げられたことによって、大川栄慧がこの事故の発端になったと思っていたが、それは全くのデタラメであった。大川栄慧は確かに若くてきれいな女性が好きではあったが、ペドフィリアの診断など受けていなかった。その恋愛対象は社会的にも許容される範囲内で、現に新しい彼女は現役のアナウンサーをしている橋本桃であった。

 では、なぜ松本公子はそんな嘘をついたのか。実はあの事故の本当の原因は、松本公子の息子・あきらにあったのだ。

 かつて松本公子一家は、初田和代一家の近所に住んでいた。そして、松本晃と初田愛は同じ学校に通うクラスメイトだった。それと同時に、いじめの加害者と被害者の関係でもあったのだ。水泳教室が始まった時に初田愛が浮かない顔をしていたのは、大川栄慧に乱暴されたからではなく、いじめの加害者と一緒にプールに入るのが怖かったのだ。

 そして、その直感は正しかった。初田愛が泳いでいる時に、松本晃は水中から彼女の足を掴んだのだ。もちろん、殺そうとしたわけではない。少し驚かせようとしただけだ。その証拠に、晃は足を一瞬だけ掴んで、すぐに水面に浮上していた。

 だが愛には、水中から足を掴み、意地悪く微笑む晃の姿が、悪魔そのものに見えたのだろう。

 パニックで頭が真っ白になった彼女は泳ぎ方を忘れ、誰にも気づかれることなく、ゆっくりと水の底に沈んだ。何の抵抗もすることなく、静かに。

 そのことを晃から聞いた公子は、この事実を隠蔽しようとした。幸いプール内に監視カメラはなく、事故として片づけることは容易だった。後は和代に事故の発端が大川にあると思わせ、その追及に執心させれば、晃に疑いの目が向けられることはないと考えたのだ。

 事実、そうなった。そして八年の歳月を経て、事故のことは完全に風化したかに思われた。だが、その事故の真相を八年間追い続けていた人間がもう一人いたことに、公子は気付かなかった。いつも隣にいたのに。

 大川栄慧が殺害される一週間前、公子は大川にスマホである動画を見せられていた。それは、八年前の事故があった水泳教室を保護者席から撮った映像だった。当時市民プールに勤めていた職員の一人が、今後の参考にしようと保護者席から映像を取っていたのだ。そこには、事故の瞬間がバッチリと映っていた。初田愛が沈む前に、松本晃が水中に潜っている所も、アプリで簡単に映像を解析すればすぐに分かった。

 大川は公子に対し、この事実を公表することを伝えた。だが公子は、晃が自首するように説得するから、少しだけ時間をくれないかと言った。大川はそれを了承し、一週間だけ待つと最後通牒を突き付けた。そして、その期日に殺害された。

 公子は大川を殺害したうえで、証拠の映像が保存されたスマートフォンを奪った。そのことに目を向けさせないよう、あの数珠まで仕込んだ。少し前に同じプールで起こった事故との関連を疑わせるよう、薬物を用いて溺死させるという方法まで取った。

 これが今回の事件の真相として、松本公子が話したすべてであった。しかし、大川のスマートフォンは公子によって水没させられていて、保存されていた八年前の事故の証拠映像は復元することができなかった。大川に映像を渡した職員も、既に処分していた。

 その上、仮に映像が残っていても松本晃は当時十歳。その責任能力を問うことはできないうえ、その行為が実際に罪に問えるかどうかも怪しいものがあった。

 結局、八年前の事故の真相は闇の中に消えたのだった。

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