第8話 八年前の事故

 初田和代は写真を仏壇に戻し、三回ほど深呼吸をしてからゆっくりと語り始めた。

「娘は、大川選手の大ファンでした。私もいっしょにオリンピックに出るんだって、嬉しそうに話していました。だから、近所の市民プールで大川選手がゲストの水泳教室があると知った時は、嬉しそうにチラシを持って私に言いました。こんなのがあるよ、絶対行こう!って」

 和代の目に光るものがある。生前の娘のことを思い出して、感極まっているようだ。

「当日も張り切ってた。参加者の中で一番早くプールに来て、まだ水泳教室が始まるまで三十分もあるときからプールサイドに入ってた。職員の人から注意を受けていたけど、そこに居合わせた大川選手が、特別にマンツーマンレッスンを申し出てくれたの。娘にとっては、夢のような時間だったでしょうね。私はそんな時間を邪魔するのは駄目だと思ったから、プールから外に出た。職員さんたちも、大川選手がついているからと安心して、事務所に戻って他の参加者たちの受付を始めた」

 和代の鼻を啜る音が聞こえる。葵ははばかりながらも、その時に事故が起こったのかと確認した。和代は少し間をおいてから、首を横に振った。

「事故は、他の参加者たちも集まってから起こった。合間に休憩時間の号令があったのに、あの子だけプールから出てこなかった。大川選手や職員さんが慌てて飛び込んで探すと、そこに沈んでいたあの子が見つかった。職員さんたちが慌てて心肺蘇生をしていた。でも、私だって看護師をしているんだから、あの子がもう手遅れだってことは分かっていた」

 そこまで話して、和代の目から涙が零れた。それは一滴、また一滴と次々零れていき、和代の座る床を濡らした。

「その後、公子から衝撃的な話を聞いた。大川選手が、精神科で診断を受けているペドフィリアだったってことをね」

 ペドフィリア。類義語で知られるロリコンは医学界で正式に使われているものではなく俗称だが、ペドフィリアはしっかりと専門書に明記されている。大川は病院でその診断を受けていると、初田和代は松本公子から聞いたというのだ。

「それまでは不思議だった。泳ぎが得意なあの子が、どうして溺れたのか。私には分からなかった。でもその話を聞いて、すべて繋がった。あのマンツーマンレッスンの本当の意味も、いざ水泳教室が始まった時にあの子が浮かない顔をしていたのも、ぜんぶぜんぶ、あいつが原因だったんだって。腑に落ちた」

 和代はそこで一度口を閉じ、しばらく涙を流した。そしてしばらくしてから涙を拭き取り、葵の方に向き直った。泣いたままだと葵が話しづらいと思っての配慮だろう。

 葵はもらい泣きしそうになる自分を抑えて、ゆっくりと落ち着いて話した。

「それで、あの数珠を郵送したんですか」

「ええ。ただ私は、自分の復讐心からあんなことをしたわけじゃないわ。あいつが水泳教室を開催すれば、また同じことが繰り返されるかもしれない。もうこんな悲しい思いをする人を増やしてはいけない、そう思ってあれを送ったの。ネット通販で簡単に買えるし、話題にもなったし。あれが送られてくれば、レジャープールの営業が止まるんじゃないかと思ってね」

「じゃあ、あなたは元々大川さんの命を狙うつもりはなかったと」

「あいつを殺したところで、娘に笑われるわ。あんな奴のために犯罪者になるなんて、どうかしてるって」

 和代は笑いながら言った。だがその笑顔からは、どこか哀愁が漂っていた。

 その笑顔を見た葵は、いよいよ感情の抑制が効かなくなってきて、立ち上がって入り口の方に移動した。全員に背を向け、少し感情を吐き出す。そうしないと、身がもたなかった。

 そんな葵の姿を見た金田が、少しの間場を繋ごうと話し始めた。

「それにしても、名は体を表すとはよく言ったものです。あいさんは、和代さんからとても愛されていたんですね」

「あはは。そう言って頂けて嬉しいのですが、母親の前ではちゃんと名前で呼んでほしいです」

「え? ですから、あいさんと――」

「娘はあいと書いて、めぐみと読むんです。初田愛はつためぐみ、それが娘の名前です。まあ、学校の友達なんかにも、皆からあいちゃんと呼ばれていたみたいですけど」

 金田と葵の背筋に、冷たく嫌な予感が走った。

 金田は努めて冷静に、話を続けた。だがその言葉遣いは、さっきまでとは違って明らかにぎこちないものになっていた。

めぐみさんについて、少しお尋ねしてもよろしいですか?」

「え、ええ。どうぞ」

「なにやら大変ご苦労なさっていたようなお話でしたが、具体的にどのようなことがあったのか、お聞かせ願えますでしょうか」

「あ、はい。小学校の友達からいじめられていたんです。相手の名前は愛も言わなかったので誰かは分かりませんが、同じクラスの子みたいです。担任の先生にもお話ししましたが、これといって改善は見られませんでした」

「加害者の子に、誰か心当たりはありませんか」

「いえ、皆さんいい子でした。街中で私のことを見かけると元気よく挨拶してくれるような、礼儀正しい子ばかりで。だから正直、愛から最初に話を聞いた時は信じられませんでした」

 和代は視線を右斜め上に向け、昔を回顧しながら話した。その口ぶりは、とても嘘をついているようには聞こえない。それだけに葵と金田の嫌な予感は、更にその冷たさと激しさを増した。

 その予感を確かめるべく、葵は目のあたりを拭って和代の方を振り返った。

「和代さん。何度も思い出させてしまって申し訳ないのですが、八年前の事故に関してあと二つ確認したいことがあるのですが」

「ええ、あなたになら何でも話すわ」

「先ほどの話には、登場しないといけない人物が登場していないように思うんです」

「登場しないといけない人物?」

「はい、コーチの松本公子さんです。彼女は元々和代さんの同僚、つまりは看護師だったんですよね。そして、大川選手の水泳教室教室なら、当然コーチである松本さんもいた。それなのに、松本さんは救助に参加しなかったんですか?」

「ああ、それなら私と同じ理由ですよ。私も保護者席にいたから、娘の一大事だって時に駆けつけることも出来ませんでした。だって、保護者席はプールを見下ろす形で、二階についているんですもん。公子さんも、そこから言ったところで間に合わないと分かったんでしょ」

「どうして、コーチである松本さんが保護者席にいたんですか」

「それはもちろん、彼女の息子さんが水泳教室に参加してたからよ。――プールサイドにいたら私が助けちゃって、あの子の成長に繋がらない。だから、ここで見るんだ――なんて、教育者っぽいこと言ってたかしら」

 嫌な予感が、更に冷たさを増した。

 葵は、それが真実であることを確信した。

「……白水さん、いくつか調べてほしいことがあります」


 ――白水の捜査結果をすべて聞いた葵は、またどこからともなく幣帛へいはくを取り出し、巫女舞を踊り始めた。

「あの子、人の家で何やってるの?」

「ああ、まあ、大目に見てあげてください。ほら、見世物だと思ってください」

「はあ……」

「あれが三神葵が事件を解決させるときに見せると噂の、三軒茶屋松の間さんげんじゃやまつのまか」

「一ミリも掠っていない間違いなので、それを葵の前では言わないでくださいね」

 巫女舞を初めて見る和代と金田は、その後も様々な疑問を西田にぶつけた。西田はそれに答えながらも、葵の舞が早く終わることを願った。理由は分からないが、今日の舞はいつもより長い気がした。

「天岩戸が、開きました」

 葵のその言葉で、西田は胸を撫で下ろした。

 葵はそんな安堵した様子の西田や興味津々に質問を投げかけてくる金田や和代には目もくれず、白水の方に歩いていった。そしてある人物に連絡を取るよう頼み、白水が話している途中でスマートフォンを奪い取った。

「明日、あの五十メートルプールに午前八時にお越しください。お話したいことがあります。いえ、必ず来てください。はい、よろしくお願いします……最後に一つだけ。あなたはいつ後ろに下がるんですか?」

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