第7話 笑顔の仮面はなにを隠す

 金田の予想通り、初田和代は逃げなかった。

 白水たちを笑顔で迎え入れ、冷たい麦茶とオレンジジュースまで用意してくれた。対応だけ見れば、とても歓迎されているように見える。

 ただそれが上辺だけ取り繕われたものだということは、すべてのカーテンが閉められて暗い雰囲気になっているリビングとすべての棚に乱雑にかけられたランチョンマットのような布が、証明していた。その乱雑さから考えて、普段から埃などの予防のためにかけられているものではなく、余計な物を見られないようにと急遽かけられたものであることが間違いなかった。カーテンが閉められているのも、何か不測の事態が起こっても対応できるようにするためだろう。

「あら、こちらのかわいらしいお嬢さんはどちらさま? なんだかとても緊張されているようだけど」

 和代の言葉と優しそうな笑顔に、葵はむしろ恐怖を覚えた。和代はまるで、自分の中の何かを隠すために笑顔の仮面をつけているようだった。これまでの事件で様々な人間の裏の顔を見てきた葵は、無意識の内に悪い想像をして、思わず身構えてしまった。

 葵が無言だったため、白水が事情を説明した。その声色はどこか上ずっているようで、白水も何か不穏なものを感じていることは明らかだった。

「それで? なにをお話すればいいのでしょうか」

「えーと、そうですね。まずは、田中歩たなかあゆむという男性を知っていますね」

「ええ。友だちの子どもですね。それがなにか」

「昨日、警察から取り調べを受けていたんですよ。ある不審な郵便物を出した疑いで……心当たり、ありますよね」

「……ないと言ったら、歩くんはどうなりますか」

「そうですね。対応する刑事によって変わるかもしれませんが、私なら再び取り調べを行い、本当のことを話せと厳しく追及するでしょうね。そうなれば、彼の人生に傷を作ることになる可能性もありますが」

「お話はよく分かりました。認めます。歩くんの証言したことは、すべて真実です。私があの数珠を郵送するように頼みました」

 和代はすんなりと認めた。そう、あのレジャープールに郵送された数珠は、初田和代が用意したものだったのだ。

「日本の警察は優秀なんですね。こんなにも早く分かるなんて思いませんでした。それにしても、どうして分かったんですか」

「歩くんというのは、きっといいお育ちなんでしょう。彼はあなたから受け取った郵便物を見て、送り主の住所や名前が抜けていることに気付きました。しかし、彼はあなたの名前は知っていても、詳しい住所までは知らなかった。だから何らかの手違いで返送されてもいいように、自分の名前を住所を書いたんですよ。そのせいで、殺人犯の疑いをかけられるとは思っていなかったでしょうがね」

「そう。悪いことをしちゃいましたね。でも、まさか歩くんが自分の名前や住所を勝手に書くとは。驚きました。まあ、大川選手が本当に死んだことの方が驚きましたけどね」

「あなたは殺害していないと」

「私が殺したのなら、とっくに逃げてますよ。娘が死んだあの日から、私にはもう失うものはありませんから」

 そう言って和代はおもむろに立ち上がり、リビングに隣接する両開きの扉を開けた。中は和室になっていて、大きな仏壇が置かれていた。仏壇には、大川のコーチである松本公子から見せられた写真に写っていた女の子と、中年の男性が写った写真が、それぞれ一枚ずつ置かれている。

 それを見た葵はすぐに立ち上がり、仏壇に手を合わせた。次に西田がそれに続き、白水、金田の順で部屋に入って、仏壇に手を合わせた。

「お嬢さん、見かけによらずしっかりしてるのね。本当は成人してるのかしら」

「いえ、まだ十三歳の中学一年生です」

「え、中学生!? あ、え、それはその。思ってたよりも若かったわ」

「家が神社なので、立ち振る舞いが子どもっぽくないのはよく言われます」

 葵が和代に優しく微笑みかける。西田は内心、子どもっぽくないやつがムカついて金的なんてするか、と思っていた。

「ねえ、三神さん。この世界に、神様っていると思う?」

「え、どうしたんですか、突然」

「八年前の事故で、私は愛しい娘を亡くした。その四年後には、夫まで先立った。私に残されたのは、日常という名の虚無な時間と、家族のことを思い出させて私を苦しめてくるこの家だけ。その時に思ったの。神様なんていない。良い行いをしていれば良いことが起こるなんてこともない。この世界は、絶望に満ちているんだって」

 和代は虚ろな目でそう言いながら、娘と夫の遺影を抱きしめた。

「私は子どものころから、神様はいるって教えられてきました。だから、子どもの頃は無条件に信じていたんです。でも小学生くらいの頃には、もう、神様なんていないと思っていました。あなたと同じです。私も、生きているのが嫌になったことがあります」

 葵の言葉に、和代は目を丸くした。白水と西田も同じ反応だったが、金田だけは特に反応を示さなかった。まるで、既に知っていたかのような顔をしている。

「私はまだ、答えが出せていません。でも、和代さんはもう答えを出しているんじゃないですか? 神様はいるって」

 葵はそこで言葉を止め、チラリと視線を金田の方に向けた。金田は何も言わず、ただゆっくりと頷くだけだった。

 和代は葵が言いたいことの要領がいまいち得られず、目を丸くしたまま首を傾げた。

「私はこれまでの捜査の中で、人間の嫌な部分をこれでもかと見てきました。昔の私なら、人間不信になって家に引き込まったことでしょう。でも、こうして信じられる人にも出会えました。この人たちと一緒なら、私にもまだできることがある。生きていようって、そう思うんです」

「いい人が見つかってよかったね。私にはそんな人……」

「歩さんは、中身の知らない不審な郵便物を出してくれたじゃないですか。それも自分の名前まで書いて。それは、あなたのことを信用していたからでしょう。歩さんのお母さんだって、あなたのことを大切に思っているんじゃないですか」

「そう、だね」

「あなたにも、生きる活力を与えてくれる人がいます。それにあなたも、天罰を下す神様のことは信じているじゃないですか。でないと、あの黒い数珠は送らないでしょう?」

 葵が悪戯っぽくそう笑うと、和代も呼応するように笑顔になった。

 和代の中で、何かが少しだけ変化していた。

「あなたを見ていると、娘のことを思い出すわ。あの子も優しくて、人の話をよく聞く子だった。クラスの皆からも頼りにされて、でも、それを嫉妬する子もいて。まだ子どもなのに、大変な思いをたくさんしている子だったな」

「大人よりも、子どもの方が残酷な時もあります。だから、子どもだからこそする大変な思いだってあるはずです。わたしには娘さんの気持ちが少し分かりますが、そんな時は側にいてくれる人が自分の思いを分かってくれていると思うだけで、気持ちが楽になるものです。きっと、娘さんは和代さんに救われていたと思いますよ」

 葵の言葉を聞いて、和代は二人の写真を強く抱きしめながら俯き、激しく涙を流した。その脳裏には、家族の楽しい思い出がよぎっていた。


 娘が産声を上げた時、お産に立ち会った夫がおっかなびっくりに抱きかかえて、娘にも負けない声量で泣き出し始めたこと。

 娘が、初めて立った日。ハイハイをせずに、座りながらお尻を擦って進む姿を見て、この子の将来が心配になることもあった。

 初めて自分の方を向いて、『ママ』と言ってくれた日。初めて話す言葉はママかパパかと言い争っていたけど、結局初めて話したのは『ブーブー』だったな。車でお出かけばかりしてたからかな。

 小学校の入学式。とてもお姉さんになった娘の姿を見て、なんだか途端に自分たちの手から離れていくような気がして、少し寂しかった。そのせいで、流した涙が嬉し涙なのかどうか分からなくなっちゃった。

 笑顔での登校。涙を流しながら下校してきた娘の話を聞いた日々。お友達とのトラブルはたくさんあったけど、その分嬉しかった話もたくさん聞かせてくれたね。

 百点のテストを嬉しそうに見せてきたあの日。飛び跳ねながら玄関を入って、靴も脱がずにリビングまでやってきて、私、怒鳴っちゃったね。あなたの、顔をくしゃくしゃにしてなくその姿がとてもかわいかった。また見たいな。


 すべてが愛おしかった。

 だからこそ、そんな日々を奪ったあの男を許すことはできなかった。何故なら――

「娘はあの水泳教室の時に、大川選手から乱暴されたんです。それで心に深い傷を負って、プールで溺れるなんてことに……」

 和代はゆっくりと、八年前の事故について話し始めた。

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