第9話 悪いのは……

 故意に仕掛けられたバスへの閉じ込め事故。すり替えられた脅迫状。そしてあの忌まわしい黒い数珠。すべてが、豊山幼稚園で行われている虐待を外に訴えるために仕組まれたことだった。


「私が虐待に気付いたのは、去年の秋だった。隣のクラスの旧門司きゅうもんじ先生がクラスの子どもをあの倉庫に閉じ込めて、そのままにした。私も鍵を持っていたから開けて助けてあげたから、最初はそれで済んだと思った。偶然の事故だと。でも、私の見ていないところでまた、同じことが繰り返されていた。そのことに気付いた時には、もう冬になっていた。旧門司先生のクラスの子にやけに霜焼けの子が多いことが気になって、注意して見てたの。そしたら、またあの倉庫に子どもを閉じ込めてた。真冬に、暖房も明かりもない倉庫の中にだよ。虐待なんて言葉じゃ生ぬるい。あれは、もはや殺人未遂事件よ」


 全てを仕組んだ槍ヶ岳忍先生は、涙ながらに語っていた。彼女がこの幼稚園で見たもの、起こした行動、そのすべてを克明に話していた。


「私はまたその閉じ込められた子を助けて、旧門司先生に直談判した。でも、あの人は悪びれもせずに言ったの。あの倉庫に子どもを閉じ込めているのは私だけじゃない、ってね。目の前が真っ白になった。その次の日には有休をとって、一日幼稚園の倉庫が見える位置から観察した。いざ外から観察しようと思ったときに初めて気付いたけど、倉庫が見える場所がかなり限られてるのよね。私みたいにしっかり見ようと思わないと、まず見えることは無い。それは園舎からも同じ。横並びの園舎からは、倉庫が見えにくい。だから気付かなかったんだろうね。五人の先生がこの倉庫をお仕置き場所として使ってたなんて、知らなかったよ」

 そこで忍は言葉を止めて、思いっきり空を見上げた。太陽の光が反射し、忍の目元がキラキラと輝いている。

「だから私は、園長に報告した。あの倉庫のこと、虐待のこと、私の知るすべてを……でも、その返答は意外なものだった」

「黙りなさい、忍さん。これ以上話すなら、私だって黙っているわけにはいかない」

 葵の呼び出しに応じて倉庫に集まり、始終静観していた園長の高松那々が、遂にその口を開いた。その表情は能面のように固く、声には凄まじい邪気を孕んでいた。あの園長室で対峙した時とは明らかに異なる雰囲気を放つ那々を見て、白水の顔には困惑の表情が浮かんでいる。

 これまでの虐待の事実は、俵屋にとっての災厄。ここからは、白水にとっての災厄になるだろう。葵は、そう確信した。

「高松園長、これまで黙って見守っていたのに、どうして大切な独白のタイミングで口を挟むんですか」

「そんな分かり切ったことを訊くなんて、あなた、見かけによらず性格が悪いのね」

「それはこちらのセリフですよ」

 那々が右の口角だけを上げて、葵の方を見ている。その顔つきは、明らかに殺気立っていた。

「いい、忍さん。私は虐待の事実について、今初めて聞いたの。あなたが正義感で暴走してあんな手荒なまねをせずに私の所へ来てくれていれば、すぐに解決できた話だったのにね」

「なに言ってるんですか! 私は園長に全て報告しました。それなのに園長は、加害者の先生たちに何もしなかったどころか、私から倉庫の鍵を取り上げだじゃないですか。二度と助けられないように、むしろ加害者の方を後押しした」

「そんな事実はありません。現に、あなたは倉庫の鍵を持っているじゃありませんか」

 那々は忍の右ポケットを指さした。忍は首を何度も縦に振りながら、ポケットからゆっくりと倉庫の鍵を取り出して言った。

「長期休みになったから返してくれとばかり思っていましたが、こうなることを見込んで先手を打っていたって訳ですか。してやられましたね」

「何の話か分かりませんが、一つだけ言えることがあります。私は園長として、従業員のことを正確に把握していなければいけません。もし仮に、何か悪いことを企むような人間がいたら、すぐに気付きますよ。例えば、あの事故の裏に何が隠れているのか、とかね」

 那々は満面の笑みで、忍に優しく、諭すように言った。だがその優しさは、本当の意味での優しさではない。見捨てられた人間に向けられる、哀れみだった。

 忍は泣き崩れ、地面に伏せた。


「那々ちゃん、聞きたいことがあるんだ」

 白水が倉庫の入り口からゆっくりと那々に近づき、片手を伸ばしながら言った。

 葵は、その行動に見覚えがあった。自分が死者の存在を教えた時に見せる、被害者遺族たちがとる行動と同じだった。隠鬼の島の時の見えない奥さんのことを知った日向、串刺し事件の時に見えない母の存在を知った時の美月。その二人が見せたのと、同じ反応だった。

「いきなりちゃん付けで呼ぶなんて心底気持ち悪いですが、一応聞いてあげます」

「――あなたは、この仕事に誇りを持っていたんじゃないのか。子どもたちのためにその情熱を燃やし、懸命に職務に励んできたんじゃないのか。少なくとも、初めて園長室であった時のあなたからは、その情熱が感じられましたよ」

「きゃはははは。臭いこと言わないでください。ちゃん付けに続いて、気持ち悪いポイント加算です。あなた、刑事の癖に人を見る目がありませんね」

 そう言うと那々は、自ら白水の方に歩み寄っていった。そして人差し指を一本だけ立て、白水の周りを歩きながら話し始めた。

「いいですか、刑事さん。私がこの仕事に誇りを持っていることは間違いではありません。でも、それは子どもたちのためじゃない。お母さんたちのためです。今の日本は本当にクソみたいなところで、父親がごみしかいない。育児に参加すると言っても、そのやり方は母親が手鳥足取り教えてあげないといけないし、一回で覚えることも出来ない。応用も効かない。要領も悪い。結局多くのお母さんがその煩わしさに嫌気がさして、ワンオペ育児を始めることになる。そんなことでは、女性の社会参加なんて夢のまた夢なんです。それではいけないと思いませんか」

 那々は白水に同意を求めるように顔を覗き込んだが、白水は茫然としていて何も言葉が出てこなかった。

「ほらっ、それです。そうやって判断を迷っている間に、小さな子供にはたくさんの危険が付き纏うんです。あなたたち男は、押しなべて優柔不断で育児に不適格。だから、幼稚園は女性の社会進出を進めるうえでの最後の砦。ここで子どもを預けることができなくなれば、日本社会に大きなダメージです。悪いのはこの日本社会。そして育児するうえでの何の役にも立たない癖に、快楽だけ追い求めて種をまき散らすクソ日本男児ども。そして――その子どもですよ」

「女性の社会進出を進めるためには、子どもが犠牲になっても構わないと?」

「そうは言っていません。それは曲解というものです。子どもがいないと、この日本社会はいずれ衰退することは自明。ですから、子どもは大事です。ただそれ以上に大事なのは、既に社会進出を果たして役割を全うしている世のお母様方。そして! なにより私たち女性職員ですよ」

 そこからも、那々は一人で演説を続けた。社会進出を果たして後進国である日本に明るい未来をもたらそうとしている女性を悩ませる子どもは悪だとか、すべては女性を受け入れない社会が悪いとか。何やらずっと似たようなことを言っていて、堂々巡りだった。

 ただ一つ分かることは、那々が日本社会や日本男児を相当恨んでいることだけだった。

「それで子どもが死んだら、どうするつもりだったんだ」

 ようやく白水が言葉を紡ぎ、那々の独りよがりの演説に横槍を入れることができた。

「当然、私が責任を取ります。そのために、私がいるんですから」

 那々が張った胸をドンと叩くと、白水がその胸倉に掴みかかった。

「ふざけるな! 人が死んだ責任をとれる人間なんて、この世にいるわけがないだろ! どうせ責任取って辞めるなんて、そんなこと考えてるんだろ。そんなの責任を取ったなんて言わない! ただ逃げてるだけだ。自分の犯した罪から、何の責任も果たさずに逃げてるだけだ!」

「な、なによ。急に頭がおかしくなったの? 他にどんな責任の取り方があるって言うのよ」

「責任ってのはな、何かあってからとるものじゃねえんだ。何かある前からとるもんなんだよ! あんたは事故が起こる前に、虐待が起こる前に、職員がストレスでおかしくなる前に、それを防ぐ仕組みを作らなければいけなかったんだ。そして誰も悲しまない、誰も苦しまない幼稚園を作る。それがあんたの責任だろ! 自分のことを棚に上げて、その責任と役目を子どもに押し付けておいて、偉そうな顔をするな!」

 白水に投げ飛ばされた那々は、地面の上にうつ伏せになって倒れた。それ以降、警察に連行されるまでそこから動くことは無かった。

 警察に連行されるときの那々の顔は、なぜか一回り大きくなっているように感じられた。

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