第5話 一人目の容疑者

 豊山幼稚園に投函された脅迫状には、消印が押されていなかった。つまり、何者かが直接ポストに投函した可能性が高いということだ。この考えが正しいとすると、過去の事故の関係者で最近大阪に来たか、大阪に住んでいる人が最重要人物となるだろう。

 調べてみると、候補者はあまり多くなかった。まず一人目は、当時の俵屋がやっと手いた顧問弁護士、達臣龍神たつおみりゅうじんだ。この男は俵屋と幼馴染で、大人になってからは大阪で弁護士事務所を立ち上げていた。昔の名残で顧問弁護士を引き受けたが、例の事故によって事務所のイメージは最悪になり、一時は廃業寸前になるまで経営が悪化したそうだ。事務所の住所は、豊山幼稚園の隣の市だ。

 二人目は、息子の武富敦たけとみあつしが事故の被害者である武富不二彦たけとみふじひこ。俵屋の態度に腹を立てて、マスコミに情報を流した張本人だ。三か月前から単身赴任で大阪に来ている。現住所は、豊山幼稚園から直線距離で一キロほどしか離れていない。

 どちらにも俵屋に恨みを抱いている可能性の高い人間だが、武富敦は近場でいつでも立ち寄ることが可能なので、白水たちはまず達臣龍神に会いに行くことにした。

「ようこそ、達臣法律事務所へ。私が代表の達臣龍神です」

 歓迎……というよりは、営業スマイル全開だった。余計なことを話さないようにと、笑顔の仮面でもつけているかのような態度だ。

「お電話でお話しした通り、今日は三年前のあの事故の件についてお尋ねしたいのですが」

「ええ。伺っております。ひとまず、こちらの応接室へどうぞ。あの話は、私としても他の人間に聞かれたくないものですので」

 そう言って、達臣は三人の先頭を歩いて応接室まで案内した。葵と西田の存在にも気づいているようだが、特に言及することは無かった。

「それで、お聞きしたいこととは何でしょうか」

「当時の理事、俵屋賢心についてです。彼は今――」

「隣の市で、また幼稚園の理事長をやっているそうですね。知っていますよ」

 あまりにあっさり話したので、白水は呆気に取られてしまった。頭が真っ白になり、次の言葉が浮かんでこない。たまらず葵が切り出す。

「俵屋さんとは、今も仲がいいんですか?」

「いえ、あの一件の対応中に縁を切りました。というより、切られました。火消しのできない消防士に給料を払うバカがいると思うか、そう言われてね」

「随分ひどい言われようですね」

「まあ、確かにあの時の私の対応はまずかったですから、言われて仕方のない部分はあります」

「それでも、本当にまずいことをしたのは俵屋さんじゃないですか。あの噂、きっと本当ですよね?」

 少し唸る達臣。

「本当と嘘が入り混じっている、と言っておきましょうか。すべてが本当というわけではありません」

「被害者家族の前で大あくびをしたというのは?」

「あくびではなく、しゃっくりでしたね。前日の夜に飲みすぎたようです」

「酒を飲んでから被害者家族にあったんですか」

「まあ、真意は彼にしか分かりません。良心の呵責から、酒でも飲んでいないとやっていられないと思ったのかもしれませんからね。お酒を飲んでいたから、イコール彼に反省の意思がないとは言えませんよ」

 さすが弁護士だ。あれだけのことがあっても、依頼者のことを悪く言わない。それだけでなく、葵が押した最低人間の烙印まで払ってしまった。強敵だ。感情に流されて失言するタイプじゃない。葵はそう肝に銘じて、更に質問を続けた。

「あの事故の対応がきっかけで経営が悪化したと聞きましたが、本当ですか」

「ええ。一時は廃業寸前まで追い詰められましたが、地道に案件をこなして、信用を回復していました。正直、かなり無茶なスケジュールを組んだので、体が何度壊れそうになったか分かりません。両手の指では足りないでしょうね」

「それは大変だったでしょう。俵屋さんに負の感情を持ったのでは?」

「正直に言うと、当時はかなり恨みました。自分はこんなに大変な思いをしているのに、あいつは幼稚園を閉めて、とっとと雲隠れしましたからね。成功報酬の契約だから、私は貧乏くじを引かされただけになった。恨まない方が、無理があるでしょう」

「今は?」

「信用を取り戻した今、むしろあいつと関わる方が、私にとってはリスクが高い。恨みが無くなったというよりは、遠く彼方に捨てたと言うべきでしょうか。だから、彼が理事長を務めている幼稚園に行ったことはありませんよ」

「そうですか」

 葵まで黙ってしまった。この会話ぶりから、かなりのやり手弁護士だという感じがひしひしと伝わってくる。顔はどこかひょうひょうとしているのだが、その裏に確かな知性があることは、話せばすぐに分かった。

「それにしても達臣さん、僕たちのことをすんなり受け入れるんですね」

 次は西田が話し始めた。別の角度から攻めようとしているのだろうか。それとも、特に何の考えもなく雑談しようとしているのだろうか。

「すんなり受け入れることが、なにかおかしいですか」

「いや、これまでそこまですんなり受け入れられたことなかったので。大抵みんな、白水さんの子どもかって尋ねてきました。まあ、こちらはいちいち説明が面倒だなと思っていたので、受け入れてもらった方が有難いんですがね」

「ふふ。君は正直な子だ。よく余計なことでも言って、墓穴を掘ることはありませんか」

「あ、なんで分かったんですか。そうです、よくそれで怒られるんです。なんとかなりませんかね。俺、素直だからアドバイスにだけはしっかり従うんですよ」

 達臣が満面の笑みを見せた。それは弁護士としてではなく、一人の人間として接している時の顔のように思えた。

「そうですね。アドバイスとしては、誰かに秘密にしないといけないことがあるときは、聞かれたこと以外話さないことです。質問があるまでは、ただじっと待つ。自分から話せば、ボロを出しかねません」

「なるほど。だから今、達臣さんは僕たちの存在について質問しなかったのですね。

 達臣の顔が、急激に険しくなった。その顔は、再び弁護士としての顔に戻っていた。それも、今にも異議申し立てでもしそうな、きつい顔だ。

「油断しましたよ。君にはめられるなんて、思いもしなかった」

「それで、僕たちに何を隠そうとしているんですか」

「君は、子どもの頃の私にそっくりだ。道化を演じながら人を油断させ、その油断を見逃さずに急所を刺してくる。実に狡猾。君、将来は弁護士になったらどうかな」

「次は話を逸らす作戦ですか」

「私は本気で進めているんだけどね。それに、私があなたたちに隠す必要のあることなんてなにもありませんよ。怪しいと思うなら、いくらでも調べてもらって構いませんよ」

「じゃあ、指紋を調べさせてください」

「いいですよ。封筒の指紋と照合するのですね」

「封筒って、何のことですか」

「……私としたことが、こんな簡単な罠にはまってしまうなんて、ね」

 達臣は背もたれに体を預け、完全に脱力した。そしてしばらく天を仰いでから、ゆっくりと話し始めた。

「正直に言うと、今も俵屋とは繋がりがあります。表向きは顧問契約を結んでいませんが、実質的には顧問弁護士のようなものです。ですから、あの脅迫状のことも今朝の事故のことも、詳細に知っています」

 達臣がそう言うと、西田が肘でつついて話すように促してきたので、再び葵が話し始めた。

「どうして、それを最初から話さなかったんですか」

「彼との関係が切れている方が、私にとっては都合がいいですから。ただ、彼は金払いがいいのでね。完全に離れるのは、これまたもったいないんですよ」

「ということは、この事務所を立て直したのも」

「一部は、彼のおかげということです。認めたくはないですがね。というわけで、私は脅迫状の犯人ではありませんよ。せっかくの金づる、手放すわけがありませんからね」

「それでは、知っていることをすべて話しいただけませんか」

「知っている情報は、あなたたちとあまり変わりませんよ。強いて言うなら、あの手紙は一度開封されて、別の封筒に入れ直された可能性があるとことでしょうか」

「どうしてそう思われるのですか」

「よく見ないと分かりませんが、あの便箋を正しく三つ折りに戻すと、薄く幼稚園の名前や住所を書いたような跡がついているんです。きっと便箋を封筒に入れた後に、封筒に幼稚園の情報を書いたのでしょう。しかし、園長が受け取った封筒は真っ白の封筒でした」

 これ以上は揺さぶっても何も出てこなさそうだったので、葵たちは事務所を後にした。

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