第3話 再会
「こんにちは、大阪府警の白水と言います。今朝の事故に関して、お話を伺ってもよろしいですか。あ、いやいや。事件性があると疑っているわけではありませんよ」
豊山幼稚園のインターホンに向かって、白水が話しかけている。執拗に警察が来るので、幼稚園側も警戒しているらしい。無理もない。車への閉じ込め事故には世間の関心が強い。今回は大事にならなかったとはいえ、非難の波にさらされることは明らかだろう。
「あ、ありがとうございます。失礼します」
白水がそう言うと、目の前の通用門から電子ロックの解除される音が聞こえた。何とか話はついたようだ。
改めて幼稚園に入り、葵はあたりを見渡す。今朝は切羽詰まっていてよく観察できなかったので、今度は入念に見る。といっても、かつて自分が通っていた頃と大きな違いは無い。
通用門と正門は横並びになっていて、入ってすぐには広めの園庭がある。葵が通っていた頃は大きなゆりかご型のブランコや高い木の塔のような遊具もあったが、今は普通のブランコと鉄棒、低めのロッククライミングの壁しか見当たらない。けがや事故が多発して遊具が減っている、というのは本当らしい。葵は、どこかもの悲しさを覚えた。
そこから正面に顔を向ければ、二階建ての園舎が見える。一階が年中の教室で、二階が年長の教室だ。年少のクラスは人数が少ないからか、一階の端に二教室ある程度だ。年中の教室と比べると、倍以上の差がある。だが、こちらも夏休みに入ったのだろう。既に園児の姿はどこにもなかった。
そんな風に観察していると、園舎の右隣に見える倉庫の方から大きな物音と悲鳴が聞こえてきた。白水たちがそちらの方に目を向けると、幼稚園の先生らしき人が、荷物をばらまきながら倉庫の前に倒れているのが見えた。三人は慌てて駆け寄り、その先生に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です。この倉庫、入り口にちょっとした段差があるんで、よく転ぶんですよ。お恥ずかしいところを見せてしまって、すいません」
倒れていた先生はすぐに起き上がって膝のあたりを払い、笑顔で答えた。どうやら白水のことを保護者だと考え、こんなどんくさい人に子どもを安心して預けることなんてできない、なんて思われないように取り繕っているらしい。
葵はそんな先生を不憫に思い、荷物を拾うのを手伝ってあげることにした。荷物は運動会の玉入れの時によく見るあの小さい布製の球で、倉庫の外側と内側に転がっていた。
先生は元々玉が入っていたであろうか後を持って、慌てて倉庫の外に転がった玉を集め始めたので、葵は倉庫の内側に転がっている玉を拾おうと思い、倉庫の中に入った。
すると、倉庫のドアの内側にいくつもの凹みがあるのが見えた。この先生が転んで、ぶつかった跡だろうか。葵がそんなことを考えていると、突然背後からその先生に話しかけられた。
「あ、葵さん? あなた、三神葵さんでしょ!」
「え、はい。そうですけど……えっと?」
「あら、忘れちゃった? 私よ私、年少と年中のクラスで担任してた、
しのぶんせんせい。葵にとっては、封印した過去の記憶を思い出させる嫌な名前だ。この女こそが、幼稚園の頃に葵を見捨てた張本人なのである。さすがに十年近く経っているので顔が老け込んでいるが、その嫌味たらしく顔に刻まれたほうれい線は変わっていなかった。
「あ、槍ヶ岳先生でしたか。すいません、全然気づきませんでした」
「あらまぁ、気にしなくていいのよ。当時の私は、今よりもっと不細工だったからね。今はきれいになっちゃったから分からないわよね」
葵は内心、今も昔も変わらず不細工だよと思いながら、笑顔で相槌を打って話を流した。子どもの頃に無視しておきながら、今更話しかけてくる目の前のおばさんに、うんざりしていた。
「お話が盛り上がっているところ、申し訳ありません。私、こういうものなのですが」
忍が矢継ぎ早に話す中、白水が警察手帳をその眼前に出して話を遮った。忍はそれを見た途端急激に失速し、愛想笑いを浮かべながら会話をいなすロボットになり下がった。
「今朝の事故に関してのお話なら、もう警察の方に話すことはありませんよ」
「すいませんね。警察というのは、確認しないといけないことがあると、何度も同じ話を聞かないといけない組織でして。面倒でしょうが、捜査にご協力願えますか」
「そうですか。私は知っていることも少ないですからね。まずは園長先生に話を聞くことをお勧めしますよ。職員室まで案内しますので、一緒に参りましょう」
そう言うと、忍は白水たちに背を向けて園舎の方に歩いていった。一度も振り返ることなく、ただ真っ直ぐに園舎の方を向いて歩いた。葵たちは、違和感を感じながらもその背中に続いた。
職員室の中に入ると、何やら慌ただしく仕事をしている先生と、コーヒーや紅茶を片手に楽しく談笑する先生に分かれている様子が目についた。
「教育現場は忙しいとよく言われますが、こんなにも二極化しているものなんですね」
「まあ、刑事さんもそうじゃないですか? 忙しい部署や忙しい人がいれば、暇で仕事のない人もいる。特に教育業界は、経験年数によって処理能力に大きな差が生まれますから。ここでも見て頂ければわかると思いますが、慌ただしく動いているのは若手の子ばかりでしょう」
「確かにそうですが……それは、ベテランが若手に仕事を押し付けているからでは?」
白水のその言葉で、職員室は一斉に静まり返った。慌ただしく動いていた若手の先生たちは目を丸くして、談笑していたベテランの先生たちは睨みつけるような鋭い目つきで、どちらも白水のことを見据えていた。
「あ、ははは。じょ、冗談ですよ。冗談。はっはっは」
白水が、後頭部を掻きながらバレバレの作り笑いでごまかす。それを見て、職員室はまた騒がしくなった。若手の先生は溜息をつきながら慌ただしく動き、ベテランの先生は談笑を続けた。唯一変わったことは、談笑の話題が目の前にいる何も分かっていない男刑事のことに変わったことだ。白水は、こっそりと葵に耳打ちした。女社会は怖いな、と。
そうして職員室を横断すると、園長先生のいる部屋の扉の前に辿り着いた。忍がノックして来客を伝えると、すぐに中に招くようにと答えがあった。忍が開けた扉をくぐり、葵たちは部屋の中に入った。
部屋の中にはソファが、三人掛けの長めのもの一脚とそれに対するように二人掛けのものが二脚置かれていた。更にその奥には、窓を背にするように園長先生の机が置かれていた。その椅子に座っているのは、今朝のバスの運転手だった。卵に目鼻というにふさわしいような整った顔立ちの女性で、見た目からは三十代前半に見える。
「あれ、あなたは今朝の……」
園長先生が葵に気付き、困惑した様子を見せている。警察と一緒に入ってきたのだから、無理もないだろう。白水が捜査協力の説明をしようと前に躍り出たところ、葵に腕を引かれた。白水は体勢を崩して片足立ちのまま体を斜めにし、その下がった耳元に葵が話しかけた。
「まだ数珠繋ぎ殺人との関連が分かったわけではありません。ここは、私たちの存在をうまくごまかしておいてください」
「え、ごまかすってどうやって」
「それは、自分で考えてください」
「他人任せかよ。分かった。適当に誤魔化すから、もう放してく……」
「それから、白水さん、園長先生が美人だからって鼻の下を伸ばしすぎです」
「え、本当? 分かった、気を付ける。だから、もう放し……」
「それから、私の能力のことは内緒に――」
「もう分かったから! 早く離してよ! この斜めの態勢、結構つらいんだよ!」
白水が大声を上げたことで葵は驚き、思わず手を離してしまった。白水はその突然のバランスの変化に対応できず、あえなく床に体当たりした。しかしすぐに起き上がり、スーツの襟を正してから園長先生に向き直った。
「この女の子、きっと見覚えありますよね。この子たちからも今朝の話を聞きながら、再度お話をお聞かせ願いたいと思いまして」
「そ、そうですか。ま、まあ、お掛けください」
園長先生がソファを手で示す。促されるまま、葵と白水はソファに座った。しかし西田は、園長先生が座っても、尚も立ったままだった。
「あ、あの座られないんですか。刑事さんも、今朝の事故の話を早くしたそうにされていますが……ところであなたは、今朝のことと関係ありましたっけ?」
「園長先生。本当はその事故のことよりも、この刑事に話した方がいいことがあるのではありませんか」
「え、なんのことでしょうか」
「僕は、あなたのその美しい顔が、これ以上曇るのを見たくないんです。あなたのような人が、バスに残った子供を見落とすようなミスを簡単にするとも思えません。なにか目の前の仕事がおろそかになるような、そんな気がかりなことがあるんじゃないですか。お願いします。本当のことを話してください」
西田がそう言うと、園長先生はしばらく考え込んでから、一通の真っ白な封筒を白水に向かって差し出した。封筒は、不自然に盛り上がっている。中に入っているのは、手紙だけではなさそうだ。
「二週間ほど前に、幼稚園のポストに投函されていました」
白水が封筒をひっくり返すと、一枚の便箋と見覚えのあるものが出てきた。
あの、忌まわしい数珠だ。
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