過去との決別

第1話 終業式の日

 七月末。蝉の合唱が本格的になり、うだる暑さにも腹立たしくなるこのころは、多くの子どもたちにとっては嬉しい時期だ。そう、間もなく夏休みが始まるのだ。

 三神葵も、今日が終業式だった。小学生の頃は、嫌な学校にしばらく行かなくて良いと伝えてくれる終業式が大好きだったが、今となっては何の感情もない。それに、度重なる事件の捜査で、葵の精神は参っていた。

 特に、自分が事件を解決することで救われるのがである、というその事実にだ。この行いは、正しいことなのか。答えは、まだ出ていなかった。

 あれから何度かあった白水からの呼び出しも、すべて断った。父親に頼んで、門前払いしてもらっていた。その上、西田も極力話さないようにしていた。西田と白水が繋がっていれば、何か不用意な話を聞きかねないからだ。

 だからしばらく、葵が父親以外の誰かと話したことはほとんど無かった。今の自分が突発的な病気で声が出なくなってしまっても、しばらくは気付かないだろう。そう思えるほどに、葵には声を発する機会が無かった。

「よっ、葵。そろそろ俺を無視するのも飽きたでしょ」

 だが話さなくても、西田は葵の側から離れなかった。いつも通学路のとある場所で待ち伏せしては突然現れ、隣でなにやら内容の薄い話を延々と一人で話している。こちらの反応を窺うような素振りをすることもあるが、それでも何かを尋ねたりすることは無い。

「それでさ、お姉ちゃんに言われたんだよ。葵が突然話さなくなったのは、あんたが家に泊めた時に無理やりなんかしたからだろうってさ。ひどいよな。それでも血の繋がった――」

 この西田の登場は、今何も話したくないという意味では邪魔だった。でも、それ以上にありがたいことでもあった。西田がいつも現れるのは、小学生の頃にいじめの主犯格たちを見捨てた、あの冷たい目で睨みつけてくる二人のいる交差点だったからだ。一人で通るにはあまりに心細いが、通学には必ず通る必要のある場所だ。誰かと一緒に通るしかない。

 中学の転校生である西田はそんなこと知らないはずだが、何故かそこに現れていた。きっと、これまで何度も通学する中で、この交差点を通る時だけ葵の体が強張ることが分かったのだろう。相変わらず、気付いてほしくないことにはよく気付く観察眼の持ち主だ。

「お、幼稚園のバスだ。若いっていいよな。俺たちはもう、あのころには戻れないもんな」

 西田がそんなことを言った。まだ十代なのに何を言っているのかと思い、葵が呆れた目を西田に向けようとしたところ、視界の端に幼稚園の通園バスを捉えた。そしてそこに乗っている人たちの上には、血染めの手が視えた。

「駄目、待って。そのバス止まって!」

 葵は声を張り上げたがバスに乗る人たちにその声が届くはずもなく、無情にも走り去ってしまった。葵はそのまま無我夢中でバスを追いかけ始めた。

「おい、葵! 学校は!?」

 後ろで西田がなにやら言っているが、今の葵には取るに足らない些細なことだった。なんとしても、あのバスに乗る子供たちを守らなければいけない。その使命感に突き動かされていた。

 走りながらも、葵は懸命に考えた。あのバスに何が起こると言うのか。一瞬だったからはっきりとは分からないが、バスに乗っている複数の人間に血染めの手が視えたように感じた。つまり、複数の人間が同時に災厄に見舞われる可能性もあるということだ。となると、最も可能性の高い災厄は事故だろうか。そうだとしたら、葵一人の力で防ぐことは難しいかもしれない。

 他の可能性も考えてみよう。あのバスに乗っている間ではなく、降りてから何かあるのでは。そうだとしたら、葵にできることは何もないだろう。いくら自分が過去通っていた幼稚園だからと言って、今の自分が入ればただの不審者である。あのバスから無事に全員降りれば、自分はすべて忘れて学校に向かおう。後は、幼稚園の先生たちに任せるしかない。

「はい。みんな、気を付けて降りてね」

「は~い。先生、おはようございます」

 そうこう考えているうちに、通園バスは幼稚園に入っていった。バスから続々と園児たちが降り、眩いばかりの笑顔と礼儀正しい挨拶をしている。端から見れば、微笑ましい光景だろう。

 だが、葵にとっては違った。園児がバスから降りて、笑顔で挨拶をする度に、葵の表情は曇っていった。全員の上に、血染めの手が視える。それだけではない。挨拶をしている先生にも、バスの運転席から降りてきた園長先生らしき人にも、自転車で我が子を送りに来た保護者にも、全員血染めの手が視えた。

 一体この幼稚園で、何が起ころうとしているのだろうか。

「幼稚園の子どもたちなんて眺めて、一体どうしたんだ? 俺が変なこと言ったから、あの頃に戻りたくなったのか?」

 後から追いかけてきた西田が、隣でバカなことを言っている。でも今の葵には、そんなことにツッコミを入れている暇はなかった。何か見落としていないか。それを考えるので頭がいっぱいだった。

 しかし、葵の心配は杞憂に終わった。園児の挨拶が途切れたところで、運転手がバスに鍵をかけたからだ。どうやら車内からは園児が全員降り、その全員の無事が確認できたようだ。

「……心配、しすぎだったのかな」

「お、久しぶりに葵の声を聞いた気がする。ていうか、何を心配してたの?」

「なんでもない。独り言だから、一々反応しないでよ。気持ち悪い」

 そう言って葵は、幼稚園に背を向けて歩き始めた。

「あれ? 今バスの中に誰かいなかったか?」

 だが、西田のその一言を聞いて歩みを止めた。葵は再び振り返り、通園バスの方に目をやる。しかし、無人であるようにしか見えない。そもそもバスにはかわいい動物たちの絵がプリントされており、その合間からしか車内を確認することができない。そのため、そのプリントに隠れる形で人が乗っていても気付かないだろう。

「どのあたりにいたの?」

「あのキリンとウサギの間で、何かが動いたように思ったんだけど……気のせい、だったのかな。ま、いいや。早く学校に行かないと遅刻だ」

 西田はそう言って学校に向かおうとしたが、葵は反対に幼稚園の方に向かった。そして誰も居ないことを確認して、幼稚園の敷地内に侵入した。

「馬鹿! 葵、なにしてんだよ」

 西田が外から声を張り上げるが、葵がその歩みを止めることは無かった。確実に安全であると保障されるまで、葵は行動するつもりだった。見捨てたらどれほど後悔するかは、これまでの人生の中で痛いほど分かっていた。だから、もうの災厄を見逃すことはしないと心に誓っていた。

 やがて葵はバスの側に近づき、西田の言っていたキリンとウサギのプリントの間から車内を覗き込んだ。そこには、座席に横になったまま動かない園児が一人いた。葵は血相変えて声を張り上げ、バスの窓を力強く叩いた。

「コラッ、なにをしているんだ!」

「中に、中に子どもが残されているんです! 早く開けてあげてください、今ならまだ間に合います」

 園長先生は慌ててバスを開錠し、車内に飛び込んだ。そして一人の子どもを抱えて飛び出し、大急ぎで空調の整った職員室へと連れ込んだ。念のため救急隊も呼ばれたが、葵が早期に発見したことによって軽傷で済んだようだった。五分程度。そんな短時間でも、気温の高い夏場では、車内が灼熱地獄となる。

「あと十分遅れていたら、命の危険もあったでしょう」

 その救急隊員の言葉が、何より重く感じられた。

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