避けられない死
第1話 その目に映るもの
関西一円建設会社の役員、
ただ、今の自分が置かれてる状況が決して良いわけではないことを、四肢を拘束する縄が教えていた。そして、それ以上の絶望を目の前の壁が伝えていた。
冴島の目の前には今、何の固定もされずにただ積み上げられているだけのブロック塀がそびえ立っていた。そのうち一番上に積み上げられたブロックは、明らかに意図的な形で斜めに置かれていた。冴島が逃げようと体をくねらせ、少しでもその壁に触れれば、それらのブロックはすべて冴島の下へ落ちてくるだろう。冴島の逃げ延びようという気力は、目覚めて五秒で消え失せた。
詳しいことは何も分からないが、塀の後ろから物音がすることを考えれば、何者かが自分の命を狙っていると考えるのが自然だ。後はその犯人に命乞いをし、見逃してもらう以外の選択肢はない。
意を決して、冴島は叫んだ。
「おいっ、そこに誰かいるんだろ」
声が大きすぎた。斜めに置かれたブロックが、グラグラと揺れている。もしこのまま叫び続ければ、犯人との交渉前に自分で手を下してしまうことになりかねない。
「ようやく起きましたか、冴島さん」
冴島はひとまず安心した。犯人は話の通じそうな相手だと。
「私のことを知っているんだな。なら、君の目的は金だろう。大手建設会社の役員ともなれば、たんまりと稼いでいる。脅して命乞いさせて、金を毟り取ろうという算段だろう」
「金を毟り取る、だと?」
犯人の声色が変わった。冴島は地雷を踏んだと思い焦り、大急ぎで取り繕った。普段は口下手だが、やはり命の危機に瀕していることもあって、脳みそも本気で活動しているのだろう。今は言いたいことや相手の喜びそうな言葉がすらすらと出てきた。これが普段もできれば、冴島は愛する妻や娘に愛想をつかされることもなかっただろう。
「表現が悪かった。これはビジネス、商談だな。私が自分の命にいくらの値をつけるかという話だ。そうだな……二億円でどうだろう。サラリーマンの生涯年収だ。君の年齢については知らないが、それだけあれば、一生遊んで暮らせるだろう。悪い話じゃないはずだ。だからどうか、どうか命だけは助けて――」
冴島がそこまで言いかけたところで、ブロック塀の向こうから大きな笑い声が聞こえてきた。そして斜めに積まれたブロックの内、最も爪先側にあったブロックが、塀の向こうの何者かの手によって弾き落された。
冴島は悶絶した。ブロックは冴島の爪先に直撃し、その足の骨たちを複数本、確実に粉砕した。だが冴島は、決して悲鳴を上げなかった。悲鳴を上げたり、もんどりうったりすれば、塀が崩れて、更なる被害に遭うことは確実だったからだ。唇を噛み、懸命に堪えた。
そんな冴島に向かい、尚も塀の向こうにいる者が冷たく言い放った。
「お前は、自分の命に二億の値をつけるのか。他人には、あんな端金をよこしておきながら」
そこまで言われて、冴島は塀の向こうの人間が、どんなことを言われても自分を殺すことを止めないと気づいた。そいつの目的は金ではなく、自分の命を奪うことにあるのだと、そう気づいたのだ。
関西一円建設株式会社。それは関西圏で近年稀に見る急成長を遂げた、新興企業である。その急成長ぶりは凄まじいものがあり、経団連会長等から未来の日本を引っぱっていく存在になると言われるほどだった。国内だけでなく海外でも多くの施工実績があり、その信頼度と株価は鰻登りだった――数年前までは。
数年前。大阪府で起こった局所的な地震により、とある建物が倒壊した。その地震は朝の通勤通学時間と重なったこともあり、倒壊した建物の残骸で多くの人が被害に遭った。中には一名、死者も出ていた。
事故当初は、規格外の直下型地震が引き起こした悲劇として、責任の所在を追求する動きなどなかった。だが、事故の調査が進むにつれ、その雲行きは大きく変わることとなった。
施工した関西一円株式会社の、耐震偽装が発覚したからだ。今まで非の打ち所がないと思われた企業の、あまりにも大きすぎる汚点。世論は、大きく燃え上がった。大規模な調査も行われ、余罪が次々と発覚した。その急成長の源は、様々な偽装工作によって膨れ上がった利益だったのだ。
だが、会社は潰れることが無かった。今この会社に潰れてもらっては甘い汁を吸えなくなると分かっている国内外の数多の政治家が、強い圧力をかけたからだ。噂によるととある国の偉い人は、国交断絶まで持ち出して会社の存続を訴えたらしい。
だが、それでも世間が許してくれるわけではない。そこで会社は、形だけの損害賠償を行うことにした。まずは被害者救済を大きな声で訴える弁護士を、裏から手を回してこっそり懐柔し、こちらからの不当な損害賠償を受け入れさせた。
その結果、重軽傷を負った人々には一人当たり五十万円、死亡した被害者の遺族へは、五百万円が支払われて示談が成立してしまった。
被害者たちはその結果を不服とし、更なる声を上げることにした。当初は会社側の損害賠償があまりに不当すぎるとして、多くの弁護士が力を貸そうと名乗りを上げた。しかし、そうして名乗りを上げた弁護士たちはことごとく不幸な目に遭い、遂には不審死を遂げるものまで現れてしまった。
そうして、名乗りを上げる者はいなくなり、動きのなくなった事件の報道をマスコミが取り上げることもなくなった。もちろんマスコミに関しては、気心の知れた政治家たちに頼み、圧力をかけたことは言うまでもない。
そんなこんながあり、やがて世間はそのことを忘れてしまった。被害者たちの声は、芸能人のゴシップネタに上書きされて、闇に消えた。
冴島は、そんな昔のことを思い返していた。そう、冴島が今役員の立場を得ているのは、この火消しをうまく遂行することができたからだ。上層部の意向や指示も受けたが、それを実行する役目は、ほとんど冴島が引き受けていた。
今、その報いが来たのだ。
冴島はそう考え、覚悟を決めた。
「お前は、人の痛みを知らなければいけない。貴様が足蹴にしてきた、小さな声の持ち主たちのな!」
また、上からブロックが落ちてくる。今後は脛の辺りを直撃した。当然骨は折れ、冴島には激痛が走った。
「お前は自分の出世のために、事件を利用した」
次のブロックは、腹の辺りに直撃する。先ほどまでとは違う痛み、きっと内臓がダメージを受けたのだろう。それでも冴島は、声一つ上げない。
「お前の出世などというくだらないもののために、どれだけの人間が犠牲になったと思っているんだ!」
塀の向こうにいる者は、激昂しているらしい。ブロックを落とす手際も雑になり、同時に三個のブロックが冴島へ降り注いだ。
一つは縛られた両手の先を、一つは胸元に当たり肋骨を、一つは顎の骨を砕いた。もう、自由に話すことなどできない。それどころか冴島には、もう意識をこの場に留めること以外のことは何もできなかった。
生きる気力。
生への渇望。
そんなものは、もう消えた。
いや、ひょっとしたら、とっくの昔に消えていたのかもしれない。愛する家族に愛想をつかれたあの日から、正義を捨てて自分の立場を追い求めたあの日から……あるいは、もっと前から。
これまでの記憶が、冴島の脳内をよぎる。いわゆる、走馬灯というやつだろう。その走馬灯が一閃の間に過ぎ去ると、冴島の視界は再び現実の世界を見据えた。
そこには、眼前に迫るブロックが――避けられない死があった。
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