第9話 少女は犯人を説得する

 午後五時三十分、葵たちは三度天海家を訪ねていた。

 インターホンを鳴らすと、可愛らしい声での応答がある。天海美月の声だ。白水が名乗ると、兄の幸四郎は出かけているが構わないかとの問いかけがあった。

 その問いかけに、葵が答える。

「用があるのは美月さん、あなたの方です」

 しばらくの沈黙があり、玄関が開いた。美月の目はまっすぐ葵を見つめている。葵も、真っ直ぐ美月を見つめ返した。

「……どうぞ。あと三十分もすれば、お兄ちゃんが帰ってきます。それまでに用件を済ませてください」

 冷たく言い放たれた美月の言葉は、三人のことを歓迎していないことを端的に示していた。だがそれは同時に、美月が用件を理解していることと、覚悟を決めていることを示していた。

 部屋に入った後、三人は美月の部屋へ案内された。葵と美月は昼間の定位置に、白水と西田は気を遣ってか、壁際に立っていた。

「あのお花、活けてくれたんですね。お母様も、喜んでいると思いますよ」

 葵は部屋の角に活けられた、真新しい花瓶と花を指して言った。そこは昼間に葵が、そこに美月のお母さんが立っていると言った場所だった。

「……思いますよ、ね。あんたには見えてるんでしょ。本当はお母さんがどんな顔をしているのか。断言しないってことはつまり、本当は喜んでないってことね」

「私、さっきからずっとすごい形相で睨まれていますから。でもきっと、私たちが来るまでは喜んでいたと思いますよ」

「……御託はいいから、早く用件を済ませて。手短にね」

「分かりました。では、単刀直入に申し上げます。美月さん、自首してください」

 葵がそう告げると、美月はゆっくりと目を閉じた。玄関の扉を開けた時から、美月はこうなることを覚悟していたのだ。だから、何の動揺もなかった。

「どうして私が自首しなきゃいけないの」

「あなたが殺すべき人間は、もういないからです」

 葵の発言に美月が呆然としていると、白水が事情を説明し始めた。

「富田なら、さっき捕まえてきた。二年前の事故のこともあるが、余罪も全て追及するつもりだ。北田の方はまだ逮捕できていないが、富田が証言すれば、犯人隠避で逮捕できるだろう。仮に無理だったとしても、奴は労災の申請書を偽装している。何の罰も下されないことはないだろう」

 白水が話し終えると、美月は昼間と同じように窓際に行ってぬいぐるみを抱きしめた。だが今度のぬいぐるみからは断末魔ではなく、せせり泣くような切ない声が聞こえた。

「もう、全部分かってるんだよね」

「はい。富田さんからすべて聞きました。だからもう諦めてください。私は、もう人が嫌がることを自慢げに披露したくないんです。あなたの口からすべてを聞きたい」

 美月は何度か言葉に詰まりながらも、真実を話し始めた。

「……あいつら。私に事故の真相を話した時に言ったんだ。自首するって、すべての罪を償うために自首するから、警察にはまだ何も話さないでくれって。結果的にお兄ちゃんは助かったし、二人も素直に話してくれた。だから私はその言葉を信じて、警察に何も言わなかった。二人と連絡先も交換した。自首する時に、最後は私と話したいって言ったから。……でも、あいつらは自首しなかった。連絡は何度も来たよ。でも、毎日毎日お兄ちゃんがなにか思い出したかを確認するだけだった。私が何も思い出してないって答えると、あいつらはすぐに電話を切った。私と話すことなんて何もないって、そう言われてるみたいだった」

 ぬいぐるみを抱く力がさらに強くなる。

「事故から半年後、お兄ちゃんが職場復帰するって話になった。私はお兄ちゃんが心配だったことと二人と話したいこともあって、付き添った。そして、二人に聞いたの。いつ自首するのって。そしたらあいつら、あの一件は事故で処理された。もう終わったことだって……そう言ったの。この半年間は、事故処理と証拠隠滅のための期間だった。許せなかった。お兄ちゃんは病気だから仕方ないって割り切れる部分もあったけど、こいつらは何の代償も払わずに、全部無かったことにした。形だけの謝罪、形だけの心配で……私のことを騙し続けてね! ……だから私は、私は……」

 美月はぬいぐるみを窓に投げつけた。ぬいぐるみは、鈍い音を立てて窓に当たり、そのまま力なく落ちた。

「車さんには、幸四郎さんが全部思い出したとでも連絡したんですか。その口封じのためのお金を請求して、あそこで会う約束をした。だから車さんは、五十万円も入った封筒を持っていた。あなたに渡して、幸四郎さんを黙らせるために」

 葵が、美月の言葉足らずの所を補足するように尋ねた。

「あー、本当はすぐに富田も殺そうと思ってたんだけどな。車が偶々鉄パイプに刺さったもんだから、お兄ちゃんが何か思い出すかもしれないって、ちょっと期待しちゃったんだよね。こうなるんなら、殺しとけばよかった。お兄ちゃんも、なんにも思い出さなかったみたいだし」

 美月はそう言いながら、白水の方に歩み寄って両手を差し出した。その時、白水の隣にいた西田が美月に話しかけた。

「幸四郎さんは、全部覚えてると思いますよ」

「はあ? 適当なこと言わないで。お兄ちゃんはなにも――」

「あなたは、幸四郎さんに自分がしたことを思い出したうえで生まれ変わってほしかった。だから昼間のように、わざと挑発的な格好をして幸四郎さんの前に姿を現した。妹のことを、性的対象として見ていたと思い出させるために。違いますか?」

 西田の読みは鋭く、美月の心の挙動を看破していた。美月は兄の幸四郎のことをこの上なく恨みながら、記憶喪失になった姿を見て、一縷の望みに賭けてみたくなったのだ。

 自分の罪を思い出し、それでもなお真人間として、自分を律して生きてくれるのではないかと。彼女は最後まで、兄のことを信じたかったのだ。亡き母が愛し続けた、最愛の兄のことを。

 だが、そのことを素直に認められるほど、美月の人間は出来上がっていなかった。だから、わざと挑発的に答えた。

「そうよ。それがなに? 結局それに反応したのは、あなただけじゃない」

「僕はあの時、葵に踏みつけられていました。視点が他の人より低かったんです。だから見えたんですよ、幸四郎さんの下半身が反応しているのが」

 西田の言葉を聞いて葵は、だからあの時に美月さんに話を聞くべきだと言ったのか、と合点がいった。実は葵のフックが炸裂して、西田が葵に身を預けた際、こっそり耳打ちでそう伝えていたのだ。

「僕には姉がいます。友達からは美人で羨ましいと言われる姉です。でも、姉のお風呂上がりの姿なんか見ても、僕は何も反応しません。姉弟きょうだいだからでしょう。でも幸四郎さんは、妹であるあなたに反応した。これが何を意味するか、あなたの話を葵から聞いて、すぐに分かりました」

「じゃあ、お兄ちゃんは……嘘よ。そんなの信じない」

 美月は両手で耳を塞いで、首を横に振った。西田はその両手を優しく掴み、語り掛けるように言う。

「今から、それを証明します。幸四郎さんが、本当の意味で生まれ変わっていたことを。それを知れば、美月さんも自分の罪と向き合えるでしょうから」

 そう言うと西田は、白水に目で合図を送った。無言でうなずく白水。

 時刻は、まもなく午後六時になろうとしていた。

 白水は美月の部屋を出て、すべての電気を消しながらリビングに向かった。そして一人、真っ暗なリビングの中でダイニングテーブルに腰かけた。

 西田は人差し指を立てて静かにするように美月や葵に指示した後、部屋の電気を消した。

 それから間もなくして、玄関が開く音と同時に、天海幸四郎が妹を呼ぶ優しい声が聞こえてきた。

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