第8話 刑事は犯人と対峙する

 時刻は、午後六時を回ろうとしていた。天海幸四郎が自宅に帰ると、部屋の中はすべての電気が消えていた。妹の美月が家に居るはずなのに、だ。天海は不審に思いながらもリビングに歩を進めて、電気のスイッチを押した。

「ただいまー。美月、夕飯の買い物行ってきたぞー」

 明るくなった室内を見てみると、ダイニングテーブルには、昼間に家を訪ねてきた刑事が座っていた。一緒に連れている子どもはもう帰ったようだ。

 天海は出来るだけ動揺を悟られないよう、努めて昼間と同じ態度に見えるように笑顔で話した。

「あれ、刑事さんどうされたんですか。僕に、また何か用ですか」

「要件は、わざわざ言わなくても分かると思いますが」

 白水がその冷たい光の宿った目を天海に向けると、天海は美月の部屋の方へ視線を移した。

「妹さんのことなら、ご心配なく。あなたも昼間お会いしたあの子たちと一緒に、今頃楽しいひと時を過ごしているころでしょうから」

「そ、そうですか。それならよかった。それで、私に何のよ――」

「もう全部分かっているので、取り繕うのは止めていただけますか。本音を話しましょうよ」

 白水の言葉を受け、天海の顔から笑顔が消えた。いつか葵に向けられた、あの威圧感と魔力を持った目が、今は白水に向けられていた。

 天海は三つの買い物袋を台所のカウンターに置いた後、白水に正対する位置の席に座った。

「どうして分かっちゃったんですかね。ま、大体の見当は付きますけどね」

「ええ、あなたの予想通りです。富田さんが話してくれましよ。あなたの記憶喪失は嘘だと、わざわざ証拠までつけてね」

 そう言うと白水は机の上にボイスレコーダーを置き、音声を再生し始めた。それは、富田と天海の通話を録音したものだった。


「おい、天海。車が殺された。お前みたいに、鉄パイプに串刺しになって……お前、まさか関わってないよな。この事件に、お前は無関係だよな」

「……」

「お前が記憶を取り戻して、あの事故の復讐のために車を殺したわけじゃないよな。お、俺たち友達だもんな。たくさん悪いこともしたし、秘密もたくさん共有してるし、それに美月ちゃんのことだって――」

「お前、喋りすぎだ」

「え?」

「近くを通りかかった人に聞かれたら、どうする気だ。俺たちは、ただ罪がバレてないだけの犯罪者なんだぞ。それにしても、あの鉄パイプは重かったなー」

「お前……まさか……」

「それと、もう一つだけ言っておこう。俺はあの事故の後、優しいお兄ちゃんを演じて美月の信頼を回復したんだ。あの時のことは、事故の後遺症で忘れたことにしてな。だから今の状況は、俺にとって物凄く都合がいいんだよ。あいつを、ずっと家で飼ってられるからな」

「やっぱり、お前が車を」

「人の話は最後まで聞け。とにかく、俺はこのまま記憶喪失になっている方が都合がいい。だから、美月に余計なことを話そうとするな。事故のことは忘れて、俺や美月のことも忘れて生きろ。でないと……」

「でないと……なんだよ。おい、なんなんだよ。早く言えよ」

「次は、お前が串刺しになる番だ」


 通話はそこで終わったようだが、録音にはその後も富田の嗚咽が残されていた。相当の恐怖を感じたのだろうか、過呼吸気味に聞こえるその呼吸音は、三十秒以上も続いていた。

「記憶喪失は嘘。それは妹さんとの過去にあった事件をうやむやにし、関係をリセットするため。この録音を私なりに解釈するとこうなりましたが、何か間違っている所はありますか」

「ふふ。間違ってるも何も、それ以外解釈のしようなんてないでしょう。ただ一つあるとしたら、最初は本当に記憶喪失だったんですよ。でも、事故から半年ほどたったころに、職場復帰も兼ねてあの工場に行ったところ、すべて思い出したんですよ。それで、都合の悪いことを知っている奴らから離れようと、仕事を辞めたわけです」

「富田さんと車さん、二人はいわばあなたの悪友だった。あなたがどんな悪さをするときも、あの二人が一緒だった。ただそれは、あの二人も同様に犯罪思考の持ち主だったわけじゃない。常にあなたが話を持ち掛けて、二人に無理やり協力させていた。それに嫌気がさした二人は、とうとうあなたに反旗を翻した。それがあの事故――いや、事件だったわけですね」

「本当に全部分かってるんだ。ガキなんて連れてるから無能だと決めつけてたけど、腐っても刑事。さすがだね」

 天海が鼻で笑った。

「一つだけ、まだ分からないことがあります。車さんを殺害した理由です」

「簡単な話だ。あいつが美月に本当のことを話すと言った。だから殺した。それだけだ。鉄パイプで突き刺せば、富田は俺の犯行を疑うだろう。見せしめのために殺すんだから、それぐらいは凝ったことしないとな」

「確かに、そう考えるのが自然です。ただ、よく考えると不自然なことがたくさんあるんですよ」

 さっきまでにやつきながら話していた天海の顔は、白水のその言葉を聞いた途端に硬くなった。

「まず第一に、あなたは車さんが美月さんに真実を話そうとしたことをどうやって知ったのか、です」

「それは当然、あいつから連絡をもらって――」

「それが自然。しかし、車さんの携帯電話は我々警察が回収して、既に調べています。当然、あなたに電話をかけていないことも自明です」

 天海の表情が、更に硬くなる。

「そして、あの鉄パイプ。確かに、考えようによってはあなたから富田さんに向けられたメッセージに見える。自分はすべて思い出していると。ただ、それならなぜ貫かれたのがお腹だったのか。あなたのメッセージなら、頭に突き刺すべきでは」

「そんなうまく狙えるわけねえだろ。どれだけの重さがあると思ってるんだ。そもそも、あれで人のことを貫けただけでも奇跡――」

「鉄パイプは、床に固定されていましたよ」

「え?」

「鉄パイプは、器具で床に固定されていました。垂直に。そこに二階から落ちた車さんが、お腹から刺さったんです。それも、あの鉄パイプは前日に働いた人が残したもので、犯人が用意したものではなかったんですよ」

 天海は、遂に口を噤んだ。

「あなたは自分が犯人だと思わせるために、色々な人間に芝居をした。だがそのせいで、現場の状況がほとんど分からなかった。だからあなたは想像したんでしょう、自分の事故現場と同じだったんではないかと。あの事故では車さんが鉄パイプを持ち、富田さんがあなたのことを突き飛ばした。だから同じように、犯人も鉄パイプを持って車さんのことを貫いたんだろうと。だから、電話の時に鉄パイプが重かったと言った。だがさっきも言った通り、鉄パイプは犯人が用意したものではない。犯人が持っていないはずのものを、あなたは重いと言った。それは――」

「何もかも違う! 犯人は俺なんだ。余罪だって山ほどあるぞ。俺を逮捕すれば、あんたは大手柄だ。どれがいい? どれが知りたい。まだ表沙汰になっていない窃盗事件だってあるぞ。それとも、性犯罪の方がいいか。美月を襲ったことはもうバレてるんだし、後は路地裏で――」

 その時、天海の言葉を遮るように大きな音を立てて、美月の部屋の戸が開いた。

「もういい! お兄ちゃん止めて!」

「美月、お前何でここに。あの子たちと一緒に出掛けてるんじゃなかったのか」

「そんなことはどうでもいい。お兄ちゃん、全部覚えてたんだね。もういいの。もう私のために嘘をつくのは止めて」

「やめろ美月、それ以上何も言うな。俺は折り紙つきの悪だ。俺が捕まったところで、誰も悲しむ人間なんかいないんだ。お前だって、俺が捕まったほうが嬉しいだろ」

「嬉しくないよ。冤罪で捕まったって、何も嬉しくない。捕まるなら、自分の罪を全部正直に告白して、ちゃんと償うために捕まって。私は私の罪に向き合うから、お兄ちゃんはお兄ちゃんの罪に向き合って」

「駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。俺にはもう、過去を償うことなんてできないんだ。お前に幸せな未来を用意することしかできないんだ。他の被害者たちだってそうだ。記憶喪失の間に、何度あったか。突然道端で殴り掛かられたり、入った喫茶店でウェイターに水をかけられたことが。でも、それは当然の報いなんだよ。俺は……俺は……うわああああ」

 天海幸四郎は、声の限り泣いた。その姿はかつての悪人から本当に生まれ変わり、自分を律し続けた男の仮面が剝がれた姿だった。すべてを覚えていながら、すべてを忘れたふりをして被害者に償う。それは、叶わない夢だった。

「刑事さん。私が車さんを殺して、黒い数珠を置きました。今度こそ、逮捕してください」

 美月は両手を差し出しながら、白水に告げた。

 黒い数珠のことは公表されていないため、これは犯人しか知らない事実、いわゆる秘密の暴露に当たる言葉だった。

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