第5話 天海幸四郎の話
「ようこそいらっしゃいました、中にお入りください」
鉄工所から車で約十五分、天海幸四郎宅に着いた。応対してくれた天海はとても愛想が良く、低姿勢で、物腰も柔らかくて、如何にも好青年といった雰囲気を醸し出していた。
白水が失礼しますと言って入ったのに続き、葵と西田も部屋に入った。部屋の中はきれいに整頓されていて、家具の配置は採光のことまで完璧に考えられていて、まるでモデルルームのようだった。
「お座りください。今、コーヒーをお入れしますね。あ、お子様の分はジュースにでもしましょうか? 妹が買っているジュースが、いくつかありますから」
そう言って天海は、三人が座るダイニングテーブルに数本のジュースを並べた。そして優柔不断に迷う西田に眉一つ動かさず、選ぶまでじっと待っていた。ようやく西田が選んだ頃には、さっきまで音と蒸気を上げていたコーヒーメーカーが大人しくなっていた。
「最近は働き方改革も進んだんですね。刑事さんも育児をしながら働けるようになったなんて、実に素晴らしいことです。双子さんですか?」
キッチンのカウンターで飲み物を入れながら、天海が話す。白水は少し照れながら事情を話し、同行の許可を天海に求めた。天海は子どもが捜査協力ということに驚きながらも、二つ返事で快諾し、三人に飲み物を振舞った。
「早速ですが、事故のことについて話してください」
白水が話を切り出すと、天海は頭を抱えて悩み始めた。
そしてしばらく考え込むように唸ったのち、短くこう答えた。
「覚えてないんです」
思いがけない答えに、三人は思わず面喰った。だが、これが捜査の突破口になりうる最後の希望だと思われたので、そう簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
「何でも構いません、何か覚えていませんか。どんな些細なことでも結構です。何かを見た気がするとか、聞いた気がするとか、そんな曖昧なことでも構いませんから、とにかく何か話してみてください」
「ご期待に添いたいのはやまやまなのですが、あいにく答えることはできません。お医者さんの話では、脳を貫通した鉄パイプの影響で記憶障害が起こっているとのお話でした。だから正直言って、事故の時とそれ以前のことは一切覚えていないんですよ。申し訳ありませんが、お答えすることはできません」
三人は、大きく肩を落とした。この数珠繋ぎ殺人を未然に防ぐためには、被害者候補の警護よりも、犯人の確保のほうが確実だった。だが、その犯人を特定するための証言は得られず、容疑者筆頭だと思われた人間も記憶喪失であることが判明した。
記憶喪失が本当なら、事故に起因する怨恨で車さんを殺害することなどありえない。ましてや、続けざまに富田と北田を狙う必要など皆無だろう。
捜査は、ふりだしに戻った。
三人が落胆し、絶望したその時、玄関の開く音と共にかわいらしい女性の声が聞こえてきた。
「ただいまー。あれ、お兄ちゃん? 誰かお客さんが来てるの? めずらしいね」
声の主はリビングに顔を出し、その場にいた全員の顔を見回した。
声の主は見たところ二十代で、全員が天海幸四郎の妹であることを瞬時に理解した。その服装はかなり薄着で、胸元が大きく開かれていた。そんな服装で上体を下げて見回すものだから、よりその豊満な胸元が露わになっていた。
「おうふ、エロイ。でかい。」
西田がそう声を上げると、声の主は恥ずかしそうに胸元を押さえ、上体を起こした。葵は西田の後頭部を力一杯はたき、床の上にダウンさせた。その上踏みつけながら、罵詈雑言を浴びせた。
「初対面の女性になんて失礼なこと言うんだ。セクハラ魔王、変態紳士、死ね! 死んで、ナマコに生まれ変われ! 地球の自然環境に少しは貢献しろ、この酸素無駄遣い二酸化炭素製造機め」
「少しひどすぎやしませんかね。僕だって、我慢しようとしたんですよ。でも年頃ですから、そういうことには否が応でも反応してしまうわけで、そう意味で言うと、私が悪いわけではなく、こんな風に人間を作った神様が悪いというか」
「今ここで、死体が一つ増えることになるよ」
「本当に、申し訳ございませんでした」
西田は葵に踏みつけられながら、謝罪の弁を述べた。
「あ、いや。気にしないで。年頃だし、そういうのに反応しちゃうのは仕方ないから」
「甘やかさないでください。こいつは一つ許すと十の罪を犯し、百の嘘をつきます。こいつを人間として扱ってはいけないんです」
「扱いがぞんざい過ぎませんか、葵さんや。しかし、この踏みつけられているのもまたこれは……」
「あと三センチくらい踏みつけると、息もできなくなるかしら」
「さっきから言動が探偵のそれじゃないよ、どっちかというと殺人鬼だよ」
「はっはっは。愉快な子たちだ。美月、これじゃあ男の子が可哀そうだ。着替えてきてあげなさい」
「いいよ、お兄ちゃん。私、自分の部屋にいるから」
葵と西田のやり取りに笑った天海に背を向け、美月はリビングの手前にある自分の部屋に入っていった。
「今のが妹さんですか」
「はい、天海美月。今は写真家を目指しているみたいで、芸術大学の写真学科に通っています。今年で卒業するので、徐々に就職先を意識し始めたのか、ピリついた空気感を出すことも増えてきました。今日は靴でお客さんに気付いたから、余所行きの対応ができたんでしょうね。いやはや、あれでもお恥ずかしいところを見せずに済んだと、安堵している自分がいます。今回の事件のことは妹には一切話していませんので、くれぐれも内密にお願いします」
天海は小さく笑い、口角を上げた。だが葵には、それがどこかぎこちなく見えた。美月が帰ってくる前の自然な笑顔とは、何かが違う。そう感じた。
「ところで、その男の子は本当に大丈夫ですか?」
天海が葵に向かってそう言うと、葵はハッと我に返り、足元に転がるそれに目をやった。微動だにしないそれは、葵が本当に過ちを犯してしまったと思うのに十分だった。
「勘二郎! 駄目、生き返って」
葵は西田を力づくで起こし、強く抱きしめた。その目には、一筋の涙が見てとれた。
「なるほど。葵は俺が死んだと思ったら、強くハグする、と。いやー、中々のご褒美ですな」
「え? 西田。あんた、まさか死んだふりしてたの?」
「オフコース! それより葵、俺のこと下の名前で呼んだよね。これはつまり、結婚相手を俺に決めたということだよね」
「本当に死ね!」
葵のフックが西田の横っ腹を的確にとらえ、その意識を確実に遠のかせたことは、言うまでもないことだ。
西田は葵に体を預け、完全に脱力していた。
「白水さん、後はこいつをお願いします」
そう言って葵は、突然西田を床に投げ落とした。
「えっ、ここまでやっておいて丸投げ? てか、葵さんはどうするの」
「私は……」
言葉の途中で、葵は美月の部屋の前まで移動した。それと同時に、天海が葵に呼びかけた。
「葵さん、と言いましたか。先ほどの話を理解されていないようですね。妹は事件のことを何も知らないから、そっとしておいてくれ。そう言ったはずですよ」
「はい、ただの女子会をするだけですよ。安心してください」
そう言って葵は、天海の返事を待たずに美月の部屋の戸をノックした。
「美月さん、お話ししてくれませんか。中に入れてください」
少し間をおいて、部屋のドアが開いた。
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