第13話 スカウト

 日も沈んでしまった森の中。川で捕まえた魚に塩をまぶして焼いただけというシンプルだが美味しい食事を済ましてしまうと、今日することはもうない。

 食後、私は焚火を灯りに読書に勤しんでいた。

 読んでいるのはエレナからもらった魔術学校の教科書だ。もらった三冊は全て一通り目を通しているが、魔術についての本というのは新鮮で何度読んでも楽しいものである。


 今読んでいるのは、魔術の歴史本だ。

 身に覚えのない功績が私のものになっていることは心苦しいが、どのようにして魔術が発展し、誰でも使えるような技術に昇華していったのかを知るのは面白い。また、懐かしい名前を見れるのも良かった。


 大魔術師ノア――魔術の開発に貢献した者としてその名を連ねている人物だが、実は私は彼を知っている。

 そう、ノアは前世で私の弟子だった。彼は魔物によって街を滅ぼされ行き場を失くした流民るみんの少年で、その魔術の才能を見込んで私がスカウトしたのだ。

 常人よりも魔力保持量が多く、賢いノアは優秀な弟子だった。

 私以外に使うことができなかった術でも彼なら幾つか扱うことができたし、なんならそれをアレンジさえしてみせた。

 教科書には、ノアがどういう功績を挙げたかまでは詳しく書いておらず残念だったが、きっと私の死後、彼は才能は魔術の発展に大いに寄与きよしただろう。それは想像にかたくない。


「才能のある子だったものなぁ」

 魔力保持量なら私の方が勝っていたが、それ以外ならノアの方が上だったんじゃないだろうか。

 例えば、呪文をつくる才能――私の長く無駄の多い呪文を、ノアはできるだけシンプルに改良していた。また、私の呪文をベースに別の物を生み出したこともあった。

 『変身トランスフォーム』の術なんてまさにそうだ。

 ノア自身は『変身トランスフォーム』を使うことはできなかったが、そこに手を加えて新たな術をつくった。

 それが『模倣イミテーション』だ。

 『変身トランスフォーム』が対象者の姿かたちや身体能力をコピーするものなら、『模倣イミテーション』はその技術や癖を真似るものだった。

 もしこれらの魔術を組み合わせることができたのなら、それは完全な分身アバタ―を生み出すことになるのではないか――なんて、ノアと語り合ったのを懐かしく思い出す。


「あの子は幸せな余生を送れたのかな」

 なんだかしんみりとした気持ちになって、私は本を閉じた。今日はもう寝ることにしよう。



 さて。少し気にかかるのは、この森に魔物が多いことだった。それほど強い魔物たちではないが、油断大敵だ。

 こういう時、複数人なら交代で見張りもできるのだが今の私は独り。だからと言って、不眠で過ごすというのもいただけない。

 そこで、私は周囲に罠を張った。消費魔力コストを考えて、結界のような大げさなものではなく、誰かが近づくと強風と共に大きな音が鳴り響くという術――『警報アラーム』だ。

 これで何か異変があれば目を覚ますことができる。そう思って安心し、瞼を閉じた瞬間――


 ピィィィィィィッ!!


 笛のような高い音が辺りに鳴り響き、私はとび起きた。すぐ近くに置いてあった剣を手に取って、臨戦態勢をとる。

 辺りを探ってみれば、森の暗闇の向こうに、確かに何者かの気配があった。


 魔物か……?いや、違う。それはどうやら人間のようだった。

「誰?」

 私が問うと、その人物はゆっくりとこちらに近づいてきた。最初はぞくの類かと思ったが、向こうは一人のようでおまけに殺気もまるでない。


 月明かりの下、現れたのは十代半ばの少女だった。

「えっと…」

 私は言葉を失う。こんな夜の森の中で、まさか女の子に出会うことになるとは思いもよらなかったからだ。しかも、少女の格好も非常に不自然だった。


 少女は素足で、身に着けていたのは薄汚れた寝間着だった。癖の強い長い髪はぼさぼさ、そんないで立ちでゆらゆらと森の中を歩いている姿は幽霊と見間違いそうだ。

「あの……大丈夫?」

 私がそう尋ねると、

「……っ」

 ドサッ――少女はそのまま草むらに倒れこんだ。

 あわてて駆け寄ると、どうやら彼女は気を失ってしまったようだ。その体はちゃんと温かく、呼吸や脈も正常で、生者であることを物語っている。


「これは……面倒ごとかな?」

 ぽつりとつぶやいた私の声は、夜の闇に消えていった。



 朝日が昇り、鳥たちが鳴き始める。

 少女をそのまま放置するわけにはいかず、結局私は彼女の面倒を見るはめになった。おかげで寝不足である。


 怪我がないかどうか、少女の体を確認すると頭に殴られたような傷があった。しかし傷自体は治りかけで、かさぶたができている。その近くの髪の毛が血で一部固まっていた。

 予想外にも少女の体には、それ以外に目立った傷はない。足には多少の擦り傷ができていたが、それくらいだ。こんな魔物の多い森に一人でいて、よく無事だったなぁと思う。

 また、彼女は結構いいところのお嬢さんのようだった。

 寝間着は土で汚れ、所々ほころんでいたが元々は高そうな生地だ。裕福な暮らしをしていたのが想像できる。

 それなのにどうしてこんな所に一人でいるのか、謎が深まるばかりであった。


 まぁ、事情は本人から聞いてみるしかないだろう。そう考えていた矢先、少女は目を覚ました。

「おはよう。気分はどう?」

 そう聞けば、

「あ……えっと…?」

 ほうけたような返事が返ってくる。まだ完全には覚醒していないのだろうか。

 とりあえず私は作っていた朝ご飯を彼女にふるまうことにした。

 普段は携帯食の固いパンで簡単に済ませるが、この日はそれにドライトマトと干し肉入りのスープをつけた。私としては豪華な朝ご飯なのだが、果たしてお嬢様の口に合うかどうか。

 そう心配したが、少女は素直に器を手に取るとスープに口を付けた。

「おいしい…」

 ほっとしたような表情で微笑む。良かった。どうやら喜んでくれたようだ。

 少女はお腹を空かせていたらしく、スープもパンも全て平らげた。


「ありがとうございました」

「どういたしまして。さて、自己紹介をしようか。俺の名はギルベルト。君は?」

「ジェイダと申します」

「ジェイダか。ところでジェイダはどうして森の中をさまよっていたんだい?しかも、そんな格好で」

 ジェイダは困ったような表情で首を振った。

「それが……覚えていないんです」

「えっ、覚えてない?」

「はい。気づけば森の中をふらふら歩いていて…。どうしてそうなったのか――覚えていないんです」

「そう言えば君、頭を怪我しているよね?」

「えっ?」

 指摘すると、慌ててジェイダは自分の後頭部に手をやり「本当だ」とつぶやいた。

「その怪我をしたときの衝撃で記憶が混濁しているんじゃないかな?もしかしたら、おいおい思い出すかも」

「そうだと良いのですが…」

「とりあえず、君を家まで送って行こう。家の場所は分かるよね?」

 これで自分の家まで忘れていたらひどく面倒くさいことになるぞと冷や汗ものだったが、幸運にもその辺りの記憶は問題なかったようだ。


 この森には村があって、ジェイダはそこに住んでいると言う。朝ごはんの片づけを済ませると、早速私たちは村に向かうことにした。

 ジェイダの道案内で私たちは森の中を進む。

「この道を右に行くと村はもうすぐそこです」

 そう指示を出すジェイダの体は、ぷかぷかと宙に浮いていた。

 彼女は今、巨大なシャボン玉の中に入っていて、地面から十数センチ上を浮遊しながらゆっくりと移動している――浮遊術の一種だ。

 さすがに裸足の彼女をそのまま歩かせるのは忍びなかったので、この手段をとった。


 ジェイダに言われるがまま歩いて行くと、森の中に村が見えてきた。思ったよりも立派な村で、周囲を木の柵で囲われている。それは単なる獣除けではなく、魔術が施されたものだった。

 こんなに魔物の多い森の中で普通の人間がよく暮らせるなと思っていたが、色々と工夫をしているらしい。そう言えば道中、ちらほらと魔物用と思しき罠があった。


「おい!あれ!ジェイダお嬢様じゃねぇか!?」

 誰かがそう叫ぶのが聞こえた。



 私は村にある集会場に通されていた。

 怪しい旅の男が寝間着姿の少女と現れたのだから、多少の誤解を受けるかもと覚悟していたが、早々にジェイダが「この方は森でさまよっていた私を保護してくれたの!」と大声で宣言してくれたおかげで、事なきを得た。

 ジェイダは機転の利く、中々賢いお嬢さんらしい。ちなみに現在彼女は、医者に体を診てもらっている。


 一方で、私は――

「娘を助けていただいてありがとうございました!」

「本当にありがとうございます」

 ハリス氏とその夫人から熱烈に感謝の言葉を述べられていた。彼らはジェイダの両親だった。

 父親の方はジェイダと同じく癖の強い巻き毛。一方で、母親は真っすぐな髪質だった。ジェイダは父親に似たのだろう。

 ハリス氏――ジェイダの父親――が事の次第を説明してくれた。


 話によるとジェイダはなんと7日も行方不明だったらしい。もはや生きては会えないのではないかと、ご両親も気が気ではなかったようだ。

「実は最近、この地域に人さらいが出るという噂がありまして。ジェイダも彼らにさらわれたのではないかと危惧きぐしていたのですが」

「なるほど」

 ニジェルシティでデュークが言っていたことをちらりと思い出す。確かにここはリンジー領の領境で、お隣はスプートニクス領だ。

 私はジェイダと出会ったときの状況を彼女の両親に話した。

 彼女が朦朧もうろうとした状態で森の中をさまよっていたこと―そして、最近の記憶を失っていることも。


「もしかしたら人さらいから逃げ出してきたのかしら」

 ハリス夫人がそう言った。

「だってあの子は旦那様の子、魔術師の卵だもの。あ、旅人さん私たち――ハリス家はね、魔術師の家系なの。代々、この村を守ってきたの」

 そう言えば、この村はハリス村と呼ばれている。ハリス夫妻に対する村人の態度からうすうす感じてはいたが、どうやら彼らはこの村でかなりの権力者らしかった。



 ジェイダを助けたお礼にと、私はハリス家に招待されることになった。この村には宿屋がなかったため、私はありがたくその申し出を受ける。

 ハリス家の屋敷はとても立派だった。美しい中庭を囲むように建てられたコの字型の屋敷は、とても森の中にあるものとは思えない。玄関のちょうど真上、三階部分にある大きなバルコニーが目を引いた。


 私が通された応接室にはすでに一人の男がいた。年のころは二十代半ばくらい、明るい茶髪の、どこにでもいそうな青年だった。

 彼は私を見ると、人好きのする笑顔で話しかけてきた。


「あなたがジェイダお嬢様を保護したという旅人さんですね。僕はシオンと言います」

「ギルベルトです。どうして俺のことを?」

「この屋敷の使用人さんたちが話していましたから」


 シオンと名乗ったその青年はすでに四日ほどこの屋敷に客人として逗留とうりゅうしているとのことだった。

「実は僕、グローディア帝国で魔術学校の先生をやってまして……この屋敷に素晴らしい魔術の才能を持った娘がいると聞き、はるばるやって来たのですよ」

「そうなんですか」


 グローディア帝国はティルナノーグ聖王国に隣接する国で、長年敵対関係にあった。しかし、百年前にエドワルド王の取り計らいで、魔王という共通の敵のため和平が結ばれた。

 魔王の脅威がなくなれば、また険悪な仲に戻っているのではないかとも思ったが、シオンの言葉を聞く限り現在も普通に国交があるようだ。


「しかし肝心の素晴らしい才能の持ち主――ジェイダお嬢様が行方不明になっていると聞き、ほとほと困っておりました。ギルベルトさんがお嬢様を保護してくださったと知り、ホッと胸をなでおろした次第です」

「はるばる帝国から聖王国へ、生徒のスカウトに来たのですか?」

 そう聞くと、シオンは大きくうなずいた。

「帝国は現在、魔術分野の発展に注力しています。ご存じの通り魔術の祖はかの有名な勇者ルキアでしたが、聖王国に負けじと帝国も頑張っているのですよ。そのためには優秀な人材の確保は絶対に必要なのです」


 おそらく、グローディア帝国が魔術に力を入れているのは本当なのだろう。それはシオンという目の前の魔術師が物語っていた。かなり優秀な使い手であることが見てとれる。

 さて。なるほどなるほど、と私が納得していると、シオンはとんでもないことを言いだした。


「そういうわけで、どうでしょう?あなたも我が校へいらしてはくれませんか?」

「はぁ?」

 思わず椅子からずり落ちそうになる。

「どうしてそんな話に?シオンさんは、ジェイダさんをスカウトしに来たのでしょう?」

「僕の役目は優秀な人材の確保です。見たところ、あなたは素晴らしい才能の魔術師のようだ。共に帝国で最先端の魔術を学びませんか?」

 お世辞なのか本気なのかよく分からない口ぶりだ。私は混乱したが、しかし少し考えれば、これがお世辞だろうと本気だろうと、答えは決まっている。


 答えはノー、だ。


 最先端の魔術というのは非常に魅力的な響きだが、今のところ一所に留まるわけにはいかない。いつあのエドワルド王が追ってくるかもしれないのだから。


「いえいえ、俺なんて大したことありません。シオンさんのような優れた魔術師に褒められるなんて恐縮してしまいます」

 そうお茶を濁したところで、タイミングよくノックの音がした。ハリス夫人と七、八歳くらいの男の子が共に部屋へ入って来る。

「こんにちは。シオン先生」

「こんにちは。ハリス夫人。そして坊ちゃん」

 男の子はハリス夫妻の子供で、つまりはジェイダの弟にあたるようだ。父親に似ているジェイダに対して息子の方は母親似で、目鼻立ちが夫人とそっくりだった。

 そうこうしている内に、ハリス氏とジェイダも応接室に入って来た。ジェイダは薄汚れた寝間着姿ではなく、今は簡素だが綺麗なドレスを身に着けている。


 ジェイダを見て、シオンがかしこまってお辞儀をした。

「お嬢様、初めまして。僕はシオンと申します。グローディア帝国国立魔術学院で教師をしております。ご体調はいかがですか?」

「遠路はるばるお越していただいたのに、こんな騒動で申し訳ありません」

 大人びた表情でジェイダはお辞儀を返した。

「また、重ね重ね恐縮ですが、まだ体調が本調子ではありませんので、今回の入学の件は一先ひとまず見送らせていただけないでしょうか?」

 ジェイダの言葉を引き継ぐように、ハリス氏が続ける。

「娘はどうにも誰かに殴られたらしい。それらしい傷が頭にあった。そのせいで未だ記憶が混乱しているようなんだ。だから学院への入学は待っていただけないだろうか?」

「そうですか…。それは大変残念です」

 あからさまにがっかりした様子で肩を落とすシオンに、

「それでしたら息子の方はどうでしょう」

 ハリス夫人がそう言って、息子の背中を押した。

 周りの視線が少年に集まり、当の本人はきょとんとした顔をしている。

「まだ、八歳ですがこの子は大変賢い子なんです。きっと将来有望な魔術師になりますわ」

 力説するハリス夫人。どうやらジェイダの代わりに息子を帝国の魔術学校に入学させたいようだ。

 シオンはじっと少年を見つめ、それから静かにかぶりを振った。

「坊ちゃんはまだ幼いので」

 笑顔だがはっきりとした拒絶が込められたシオンの言葉に、ハリス夫人もそれ以上食い下がることはできない。


「ジェイダお嬢様はご快復しましたら、ぜひとも我が校にいらしてください」

「ありがとうございます。体の方はそれほど悪くはありませんの。記憶の方も、少し時間が経てば戻る可能性が高いとお医者様がおっしゃっていました」

「それは何よりです」

「それとギルベルト様」

 急に名前を呼ばれて、私は「え?」と声を上げる。

「本当に助けていただいてありがとうございました。あなたが私を見付けて下さらなかったら、今頃どうなっていたか分かりません」

「いえいえ。それにしてもお嬢様はご立派ですね。危険な目にあったというのに、こうも落ち着いてられて」

 本当にしっかりした子だなぁ、と私は感心する。それはハリス氏も同じようで、

「ははは。私の自慢の娘です。帝国への留学から帰ってきたら、しっかりこの家を継いでもらいますよ」

 鼻高々にそう言った。



 夕食の用意が整うまでの時間、私はなぜかシオンに屋敷を案内されていた。勝手知ったる他人の家とばかりに、彼はあれが食堂、あれがゲストルームと教えてくれる。

 案内をしながらシオンは帝国の魔術学校がいかに素晴らしいかを話してきた。


「というわけでギルベルトさん。我が校に入学する気はありませんか?」

「それ本気だったんですか?」

「もちろん、本気ですよ」

 なんと、本気のスカウトだったらしい。ならば、きっちり断っておこう。

「光栄ですが、俺には学校に入る気は全くありません」

「えー!どうしてですか?」

「どうしてと言われると…」

 前世の上司エドワルドに追われているから一カ所に留まるのはまずいのだ――なんて言えるはずもない。私が口ごもっていると、

「わが校に留学したとなれば、魔術師としてはくがつきますよ」

 まるで商品を紹介する商人のような口調でシオンが言う。


「我が校は実力主義です。生まれなど関係ありません。優秀ならば注目され、皆から認められます。有名人になれるかもしれません」

「はぁ」

「卒業生には宮廷魔術師になり、爵位までたまわった人もいます。貴族のような豪華な暮らしができるかもしれません」

「はぁ」

「ギルベルトさんは顔が良いから、女の人も放っておかないでしょう。どんな女性もより取り見取り――ハーレム状態も夢じゃないかもしれません」

「はぁ」


 地位や名誉、財産が得られる可能性をシオンは語る。だが、正直どれにも興味がない、惹かれない。もちろん、女性にモテても仕方ない。

 そうやって気のない相槌を打っていると、シオンは表情を曇らせた。

「おかしいな。富や権力は人間誰しも好きなはずでは……?お金持ちになりたい、偉くなりたいって思いません?」

「んー、人それぞれですよ。お金はないと困りますけど、たくさんあっても私じゃ使いこなせないでしょうね。あと、偉くなるとその分責任も大きくなりますし。良いことばかりじゃありません」

「えー!ギルベルトさんには欲がないんですか?」

「まさか」

 私は笑った。そんな聖人のような人間ではない。

「欲ならありますよ。ただ、それがお金や権力じゃないという話です。強いて言えば、自由……ですかね」

「自由……?」

「そうです。俺は自由でいたいんです。誰にもとらわれず、こうやって無責任に旅がしたいですよ」

 自由こそが前世の私が渇望し、最期まで得られなかったものだ。不相応にも勇者という役柄を演じ、力尽きてしまった。今世では、そんなしがらみとは無関係に生きたい。


「なるほど。自由ですか」

 自由、自由とシオンは思案顔でぶつぶつつぶやいている。その時――

「一体、何をやっているの!?」

 鋭い叱責の声が聞こえた。食堂の方からだ。私とシオンは思わず顔を見合わせる。

「どうしてそうグズなのよ!さっさと、支度なさいっ!」

 高い女の声だ。しかし、この声は……

「ハリス夫人ですよ」

 シオンが言った。

「奥様、ですか?」

「おそらく、使用人に怒鳴っているのでしょう。ここじゃぁ、日常茶飯事のようですよ」

 客人である私には丁寧な物腰だったハリス夫人。それなのに、こんなヒステリックに声を荒げるとは。

 もっとも、使用人や自分より身分の低い者に対して横柄な態度をとる人間はけっこういる。前世でもさんざん見てきた。ハリス夫人も表裏の顔を使い分けるタイプの女性なのだろう。

 ハリス夫人の叱責はまだ続いていて、甲高い声が響いてくる。怒られる使用人が不憫ふびんだなと思っていると、


「お母さま、落ち着いてください」


 ジェイダの声がした。

 彼女はハリス夫人をなだめ、使用人をかばう――その様子が漏れ聞こえてきた。


「これじゃあ、どちらが女主人か分からないですね」

 シオンがそうささやいて、

「たしかに」

 私もうなずいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る