第1章 仕事を探して

第一話 ヤケ酒

 犬の吠える声で眼が覚めた。

 うす眼を開けた利奈は、自分がどこに寝ているのか、わからなかった。

(窓が頭の上にある……私の部屋じゃない……)

 やがて、自分がベットで逆さまに寝ているのに気付いた。

(どうしたのだろう)

 どうしたわけでもなく、酷く酔って帰ったからだ、とすぐに気づいた。壁に貼られたブリンスのポスターがいつもと同じうす笑いを浮かべている。

 ——「Cパワー」廃刊記念を称して、上野直美と利奈がヤケ酒を飲み始めたのは、大久保のカフェバーで、それから、大塚、田端、三河島、北千住と飲み歩いた。ゆうべのことなのに、何年も前のような気がする。

 上野直美があれほど歌が好きだとは知らなかった。しかも、「バットマンのテーマ」などというわけのわからない歌をうたい、私たちはバットマンとロビンなのよ、悪と戦わなきゃ、と利奈に言った。バットマンとは何なのか、さっぱりわからぬ利奈も、この世の悪を滅ぼしたい上野直美の気持ちは理解できた。しかし、二人のどちらがバットマンで、どちらがロビンなのかは見当がつかなかった。

 最後のバーで「イエローマリン音頭」などといううたを何度もうたった上野直美はほかの客の怒りを買って、店を追い出された。夜空の星空に向かって、二人で「せーの、お星様のばか!」と叫んだのははっきりと覚えている。

それにしても、杉並区のボロアパートまで、どうやって帰ってきたのだろうか。

 利奈はベットを抜け出した。

 形だけのキッチンがついた四畳間は小型ベットを置くと三分の一が埋まってしまう。あと、机、椅子、本棚、洋服ダンス、冷蔵庫、古い小型テレビで、もう一杯だ。月に九万円の人間が住めるのは、こんなところだ。

 彼女は窓を開けた。となりの、崩れかかったアパートが鼻先に迫っていて、風が入らず、むしあつい。

 仕方がない。冷蔵庫のドアを開けて、そこに扇風機を置いた。思いなしか冷たい風が送り出される。

 冷えたトマトジュースをコップに注いで、味を見た。うす味だが、おいしかった。

 扇風機の涼風を感じながら、彼女は「タヴンページ」の最後のページを見た。仕事情報誌ではあるが西洋星占術が一ページを占拠している。彼女の星座の〈仕事〉のところには、〈ますます快調、いまのノリで集中力を発揮すべき〉とあった。

 ベットに腰をかけた利奈は、トマトジュースを飲みながら「タヴンページ」のアルバイト・パート募集を調べた。キーパンチャーやプログラマーの大半は求人が多かったが、出版社のは見当たらなかった。

 利奈が興味を抱いたのは〈経済新聞の編集補助〉やマイコン関係の〈校正〉であるが、どちらも、自身が持てなかった。経済やマイクロコンピューターの特殊知識を必要とするにちがいない。

(なさけない……)

 彼女は「タヴンページ」を投げ出して呟いた。これでも、学生のころは、家庭教師のカケモチをして、十数万、ときには二十万くらいの収入があったのである。

 なまじ、出版社にこだわったばかりに、ポルノ雑誌のアルバイト編集者になり、収入も激減したのだ。お星様も、ハレー彗星も、みんな、馬鹿だ。

 しかし、文化書房は会社の雰囲気がよかった。本当は、そんなによくないのかも知れないが、上野直美の下で働いている限り、イヤなことはほとんどなかった。一度、社内の別な雑誌のヌード・モデルになってくれという話がきたが、上野直美は依然として断ってくれた。

 ヌードを撮らせたら日本一という写真家は、それでもなお、利奈のデスクまで直接交渉にきた。

「冗談じゃないですよ、身体小さいし……」

 高名な写真家を目の前にして、利奈はアガっていた。

「あんたは小柄だけども、顔がちっちゃいから、均整がとれてるの。どうしても、イヤだっつうんなら、むりにとはいわないけどね。つい最近の女の子の気持ちを想っちゃうとこの優しさが、おれの優しさなんだろうな」

 葉巻をくわえた写真家は、クリント・イーストウッドのように、眼を細めた。

(あれも、たのしい思い出だ。あっーと、想い出にふけってる時じゃないって……)

「タヴンワーク」でみるかぎり、とりあえずは、〈関西割烹のお運び屋さん〉か〈和風喫茶のウエイトレス〉しかない。それで、一、二か月、つないでみるか。

——朝倉さん、電話!

 管理人のおばさんの声がした

 こんなボロアパートでも管理人がいるのである。入口脇の一部屋に閉じこもって、電話の取りつぎだけをする。

 ——いないんですかぁ?

 十秒も返事がないと、階段をおりていって、朝倉さんはいませんよ、がちゃん、と切ってしまう習性がある。

「はいっ」

 利奈はドアをあけ、オバサンよりも早く、階段をかけおり

た。

 下駄箱の脇の受話器に手を伸ばした利奈は、朝倉です、と言った。

 ——私よ。

 不機嫌そうな声は元編集長である。

 ——あっ、どうも、ゆうげは。

 ——どうもじゃないよ、ちゃんと帰れた?

 ——ええ、なんとか。

 とはいうものの、どやって帰ったのか、記憶がない。

 ——大丈夫だったの?

 ——なにが、ですか。

 ——ま、いいや、私はほとんどフツカヨイ。いちおう、会社にはきたけど。

 その声から、相手の惨状が察しられた。「バッドマンのテーマ」がいけなかったのだ。

 ——声がでないのよ。

 ——盛大にやってました。

 ——だからだ。どうも、のどが変だと思った。

 上野直美は咳払いをする。

 ——具合悪そうですね。わたし、手伝いにいきましょうか。

 利奈が同情すると、

 ——なに言ってんのよ!

 という怒声が返ってきた。

 ——いま、何時だと思ってんの?

 利奈は腕時計を見て、呟いた。

 ——もう、一時半なんだ。

 ——忘れたでしょ、ゆうべの約束。紙に書いてやれば、よかった。片っ端から、忘れてるんだから、もう。

 ——は?

 これはマズい。非常にまずい。なにか、約束したのだ。

 ——アルバイトがあるかも知れないのよ。私の知り合いの人が仕切ってるの。カタギの仕事とは言えないけれど、このさい無いよりはマシでしょう。

 ——は、はい。

 ——その人を紹介するために、二時に、新宿西口の喫茶店で落ち合う約束だったの。そういう約束を、ゆうべ、したのよ。

 そういわれても覚えていないものは仕方がない。

 ——店の場所を「タヴンページ」の表紙に書いてあげたのに……なくしちゃった?

 ——いえ、しっかり、持ち帰りました。

 ——じゃ、すぐにきてよ。あまり、タチの良い仕事じゃないかもしれないけど。

 ——このさい、贅沢は言えません。

 電話が切られた。

 上野直美が〈タチの良い仕事じゃない〉というのは、そうとう、悪いと覚悟しなければなるまい。貯金もないことだし、このさい、大麻の密輸とかいうたぐいの仕事でなければとりあえずやってみよう。

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極東を想う なぶくみ @scotch-egg-in

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