極東を想う

なぶくみ

序章 とある業界

 上野直美は校正用の赤いボールペンを投げ出して、窓の外に眼をむけた。

 季節には少し早い台風が東京をかすめ、夏空が戻っていた。駐車場の広い空き地の向こうに、高層ビル群が見え、ガラス張りのビルが強い陽光を反射させている。

 旧式のクーラーが送り出す風に、ストレートのロングヘアをなびかせながら、煙草が吸えればな、と彼女は思った。一時期、女性週刊誌が喧伝していた〈いい女〉をせせら笑っていたくせに、髪が長くなるにつれて、なぜか、立ち振る舞いが〈いい女〉風になるようであった。黒いドレスにストレートロングの〈いい女〉は時代遅れになったが、そういう時に、あえて、意識的にズレてみせるのも、わかる人にはわかるシブさなのではないかと考えたのだ。———— とすれば、型通りの一山いくらの〈いい女〉とは、どこか微妙に違わなければならない。

 煙草を吸わなくなったのは、そういった美学的事情からではない。医者にも止められたのだ。数か月かけて禁煙を成功させたからには、指に煙草を挟むわけにはいかなかった。

 新型の〈いい女〉になるための小道具はなかなか難しい。禁煙パイポはどうだろうと、まじめに考えたこともあったが、あまりにも過激、かつ滑稽であった。

 これといったアイディアもないままに、いたずらにロングヘアを風になびかせている。なびかせ疲れた彼女は、デスクの引き出しからヌード写真を取り出して気怠そうに眺めた。

 そうしたポーズとあられもしないカラー写真という取り合わせは、もっと無機質な環境であれば、ポスト・モダンの境地を感じさせないでもなかったであろう。

 上野直美には気の毒だが、彼女が所属する文化書房の編集長が、幼稚園の建物を借りているのが、不幸であった。

 げんみつにいえば、元幼稚園。平屋建ての粗末な建物をとりこわしたくないと地主がいい、五十坪で月額二十万円という西新宿では考えられぬ安さで、文化書房が借りたのである。

 信じられぬことではあるが、この編集部では「ロリコン時代」「Cパワー」といった知る人ぞ知るポルノ雑誌が月に八冊も作られており、ビデオも生産されている。「ロリコン時代」だけで実売が二十万部以上という景気の良さである。

 クーラーの風が完全にはいきわたらない屋内は、無数のデスク、無数のZライト、ライトボックス、ファックス、コピー機械などが所狭しとならべられ、もと幼稚園らしさをわずかに感じさせるのは、壁に掛けられた「努力」「飛躍」「元気」「いつも明るく」「大きな声を出して」といった額縁入りの標語だけだった。

「Cパワー」の編集長である上野直美は、依然として気怠そうなポーズで、椅子にもたれていた。

 二十七歳で編集長というと、かっこよく聞こえるが———そして自分でも思わぬでもないのだが———要するに、便利屋である。部下を二人欲しいと言ったのだが、社長がやっととったのは短大出もアルバイト女性一人だった。

(忙しいだけで面白くてたまらない仕事じゃないからな)

考え方まで気怠くなってきた

(同性のヌードをいくら眺めたって、どうってことないし…)

「Cパワー」の活字ページには、穏健な生活人が眼をまわすような名詞、動詞、隠語があふれかえっていたが、そうした文字も無感覚になってきた。

 セックス用語に無感覚になっているのは彼女だけではない。

 デスクに向かったり、立ち上がって電話をしている約四十人の男女の大半が無感覚になっている。いちいちコウフンしたり、変な気持ちになっていたりしたら、しごとになりゃしない。かちいって、まったく無感動なのでは、読者の性的イマジネーションを掻き立てるお手伝いができない。——だから、その中間、すれすれのところで仕事をする…。

(男たちがみんなくらいのは、そのせいだろうか)

彼女はロングヘアをかきあげた。

(それにしても、女達は明るい)

超過激な刈り上げショートカットに黒ずくめ、ブランドショップのハウスマカロンと見紛うばかりのや、今様の眼鏡をかけてゲラ刷りと取り組んでいる仏文出——一見、不愛想だが、いずれも根は明るく、ヒョウキンである。セックス標語、それがどないしたン?という感じだ。

「社長がお呼びです」

とうとう、きたか、と彼女は思った。要件はわかってるので、すぐには立ち上がらず、デスクの上のクリップをいじっている。

 創刊後八か月で、「Cパワー」は九万部に近づいていた。業界的にみれば九万部というのは驚く数字ではないのだが、なにしろ、金がかかっていない。カラーグラビアの大半は金髪女性で、通信社から借りた写真である。

 ——十万部を超えたら、きみ、シンガポールへ行かせてあげるよ。それも、ファーストクラスで。

 社長はそう約束していた。

(今度の号が十万部の線に達したんだ)

彼女は呟き、ゆっくりと椅子を離れて、社長室に向かった。

編集部の片隅に暗室があり、左に回ってドアをノックする。

——おう…。

という声が聞き取れた。

彼女は静かにドアを開けた。

暗室の裏側にあるこの部屋は、幼稚園のころ、なににつかわれていたのだろうか。おそらく、物置だろう。窓が小さく、ガラスには、なにかのキャラクターのシールが色あせている。

 六畳ほどのこの部屋には応接間の三点セットとデスクしかない。昼なのに蛍光灯が灯され、クーラーが低い音を立てている。音が低いので外の蝉の音が聞き取れる。

「すわりたまえ」

 中肉背骨、色白で二重の社長は、四十を過ぎているはずなのに、年齢がよくわからない。わかっているのは、金がありすぎて、使い道に困っていることである。出版界の不況なんてものは、この社長には関係がない。

「どうも…。」

 彼女のポーズが崩れ、唇のあたりがほころびかけた。海外旅行は、グアムとハワイしか行ったことがない。シンガポール——しかも、往復のジェット機がファーストクラスという条件がしびれるではないか。

「熱いな」

 社長は当たり前のことを言った。椅子に腰かけて、ネクタイを緩めにかかる。

「どうしてこう暑いのだろう」

 知ったことか、と上野直美は思ったが、いや、これはシンガポール行きの話をする前提かもしれない、と考え直した。

「何か飲みますか」

社長は唐突に聞いた。

どうしてだろう、と彼女は不審に思った。入社して以来、こんなていねいな口の利き方をされたのは初めてである。いつもは、よう、とか、おまえ、とか、柄のよくない男であった。

 あ、そっか、と彼女はひとりでうなずいた。ファーストクラスの料金を出すのが惜しくなったのだ。エコノミークラスで我慢してくれと言いたいのであろう。

「こーらでいいですか」

 小型冷蔵庫をあけながら社長は念を押した。

「それともビールにしますか」

 んだか気味が悪い。昼間から女性社員にビールを勧める社長があるだろうか。

「顔に出ますから」

「じゃ、コーラね。冷えてないのよ」

 社長はコーラを二本出してきて、栓を抜きジョッキに注いだ。

「どうかしたんですか」

 彼女は心配になった。ひょっとしたら、なにか、病気が出たのではないか。

「どうもしない。上野君とじっくり話し合いたかった」

「話し合いたい?」

 彼女は落ち着かない。シンガポール行きはどうなったのだろう。

「うむ…」

 社長はようやく、いつもの調子に戻った。

「上野君からだの方は大丈夫か。いや、つまり、心臓に支障はないか。」

「私、ですか?」

「大丈夫そうだな」

 と、社長は勝手に決めつけて、

「じゃ、話そう。——きみは、本当によくやってくれたと思う。『Cパワー』は十万部に近づいた。この調子なら、まだ二、三十万部は伸びるだろう。俺の勘に狂いはない」

「はい」

 うなずきながら彼女は嬉しくなった。なんといおうと社長は修羅場をくぐってきた人間である。業界でトップの成功者に褒められて悪い気はしない。

「きみの才能を大切にしてゆきたいと思っている」

「ありがとうございます」

「ところで——言いにくいことを言わせてもらう。雑誌『Cパワー』は、いま書店に出ている号で終わりにする。廃刊だ。」

「え?」

なんだかわからなかった。

「残念だが廃刊にする」

 社長は眼を伏せた。

「まさか……」と、私はひとりごちた。

「冗談どと思ったろ。俺だって、こんなことは言いたくなかった」

 彼女は呆然とした。

「きみの気持ちはよくわかる」社長は重々しく付け加えた。

「Cパワ」は世にいうポルノ雑誌である。そして、上野直美はポルノ雑誌が好きではなかった。

 だが、雑誌づくりそのものは別である。人手不足のせいみあって、彼女は、準備期間を含めて約一年半「Cパワー」にかかりきりで、雑誌を育ててきた。雑誌はこの上なく順調に育ち、売れ行きも上々である。何故、突然、打ち切らなければならないのか。こんなむちゃくちゃな話ってあるものか。

「どうしてですか?」

 彼女は社長の細い眼をまっすぐに見た。

「警視庁がなにか言ってきたのですか」

「先月『ぺぺ』が発禁になっただろ」

と、社長は他社の雑誌名をあげた。「発禁だけならいい。社の幹部が逮捕された。一般書店で売っている雑誌の発禁で、人が逮捕されるなんて、おれの知る限り、初めてだ。これからは事前警告なしで、抜き打ち的発禁政策でくるらしい。発禁になった雑誌は即廃刊にするしかない」

 それだけの説明では彼女は納得できなかった。他社の雑誌が発禁になったからといって、「Cパワー」を廃刊にする理由があるとは思えない。

「でも『Cパワー』の内容はおとなしいのに」

「これ以上、おれに言わせるのか」と社長は被害者のような眼つきをした。「自主規制だよ。うちのような弱小出版社が警視庁に狙い撃ちされたら、どうなる」

 オボロゲながら、事情が読めてきた。「Cパワー」を廃刊にすることで、社長は警視庁の心証を良くしようと考えたのだ。

「とうぶん、自粛モードだ。きみも、外部からの取材には応じないように。『Cパワー』発禁がおおやけになると、取材記者がとんでくるかも知れない」


 ファーストクラスどころか、シンガポール行きの夢も霧散霧消してしまった上野直美は、自分のデスクに戻ると、やめていた煙草を吸い始めた。

 他の編集部員たちは、どうやら事情を知っているらしく、遠巻きにした感じで、話しかてこない。

(ったくもう…どいつも、こいつも…)

 はらわたがにえくりかえるとは、このことである。

 ———しばらく遊んでいたまえ。すぐに新しい雑誌を君に編集してもらうようになる…。

 にこやかに笑いながら社長はそう言った。長年、警視庁とわたりあってきた社長にとって、一つの雑誌を廃刊にするなどさして問題ではないのだろう。

(けったくそ悪い!)

 七本目の煙草を灰皿でもみ消したとき、彼女の怒りはピークに達していた。不運な助手が戻ってきたのは、その瞬間である。

「やっと貰えました」

 社名入りの封筒から漫画の原稿をだして、彼女の前に突き出した。

「そう…」としか答えようがなかった。Tシャツにショートヘアの小柄な少女の無邪気さが、落ち込んでいる直美には、いつもより応えるのである。眼が美しい以外には平凡きまわりない娘で、この春に、B級の短大をだたばかりのはずだ。

「利奈に話があるの」

 彼女の声は低くなっていた。

 様子がおかしいのに気づいた朝倉利奈は、灰皿の煙草に眼をやった。

「あれ……吸っちゃったんですか?」

「マリファナでも吸いたい気分よ」

 軽く言い放った直美は、コーヒー屋で話そうか、と、なかば怯えている利奈を誘った。


「まさか……」

 利奈はあとの言葉が発せなかった。

「ほんと、要するに、びびったのよ、社長は」

 直美は八本目の煙草に火をつけた。古めかしい喫茶店の内部は換気が悪く、煙がなかなか昇っていかない。

「だけど、今は取り締まりっがゆるんだんじゃないのですか。ポルノ解禁ムードとかで」

「ちんでもない。大手出版社系の雑誌が無修正の写真を載せたのがきっかけよ。芸術だぞと開き直れるような写真をならべて、警視庁はアタマにきたのね。でも大手出版社には〈警告〉をしただけ。弱小出版社を、徹底的に痛めつけるわけよ。ポルノ解禁はなんという意思表示ね」

「でも『Cパワー』を発禁にすることはないと思うけど」

 利奈はアメリカンコーヒーを啜って、

「活字の部分だけでも、もっと、文化的にしたかったですね」

 甘い、と直美は思った。下品で猥雑だからこそ売れたのではないか。

「私もつっぱりようがなかった。あの社長が決心を変えるはずがないし」

「もう、決まったことなんですねぇ」

 朝倉利奈はため息をついた。

「そう割り切らないとやっていけないよ」

 この話の先を、どうしよう? アルバイトの利奈は、とりあえず、解雇されるのだが……。

「上野さんの仕事がなくなるんじゃ、私はクビですね」

 相手が先回りしたので直美は話しやすくなった。

「……社長に話してみたんだけど、アルバイトの人をもっと減らしたいらしいの。だから……」と言葉につまって、「……大学出て四か月で失業ってのはつらいだろうけど、女の子が長くいる職場じゃないと思うのよ」

 老婆心かもしれないけど、とつけ加えようとして、わたしゃ〈老婆〉かと思えかえし、

「お節介かもしれないけど、カタギの会社のほうが向いていると思うわ」

「カタギの会社は身寄りのない子を取りたがらないんです。」

 眼を輝かせた相手は妙にきっぱりと答えた。

 この娘の仕事を探してやらねばならないな、と直美は思った。いままで𠮟りつけてきたり、当たり散らかして、ハイ、サヨナラではあんまりではないか。

「どういう仕事を希望しているの?」

「べつに、これといって、ないんです」と利奈は答えた。

「でも、さ……」

「わたし、あんまり、前途に希望とか持たないようにしてるんです」


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