32.豊満な胸

今日は一日調子が良くなかった。

昨日の予備校で盗み聞き―――言い方が悪いが―――した内容が頭を離れず、胸がずっと痛い。頭もモヤモヤし、上手く動かない。


歩実や友達と話している間は、多少気が紛れる上に、自らも意識して胸の痛みも追い払っていた。

だが、授業中になると意識が飛ぶ。

ボケッと呆けてしまい、先生の話が頭に入らず、ただただ黒板に書かれた文字をノートに写していた。


そんな風だったから、今日は警戒心が全く欠けていた。

ボーっとした状態で、下駄箱で靴を履き替えている時、とうとう敵に捕まってしまったのだ。


「唯花ちゃん! 久しぶり!」


顔を上げると、可愛らしく手を振って立っている恵梨香がいた。


「あれ? 元気なさそう、唯花ちゃん。どうしたの?」


私は相当ゲッソリした顔で恵梨香を見ていたのだと思う。

彼女に何て声を掛ければいいのか、気の利いた適当な言葉が浮かんでこない。

ただ、黙ったまま彼女を見つめた。


その私の態度に恵梨香は少し怯んだようだ。

作り物の笑顔が崩れ、真顔になった。

だが、すぐに微笑み直すと、私の腕に手を絡めてきた。


「ね? 具合悪いの? 大丈夫?」


そう言って可愛らしく私の顔を覗き込む。

私はスッと顔を逸らすと、


「大丈夫、元気よ。じゃあまたね、恵梨香」


抑揚も無く挨拶すると、恵梨香から手を抜こうと身をよじった。

だが、恵梨香は離さない。


「ねえ、唯花ちゃん。久しぶりに一緒に帰りましょ! 最近ぜんぜんお喋り出来てなかったし」


恵梨香に捕まったらこうなることは想定内だ。

このまま一緒にいて、コウちゃんに辿り着くことを狙っているわけだから。


「でも、恵梨香の彼氏君に悪いし。一緒に帰るんでしょ?」


「いいの! だって、林田君とはいつも一緒だもん。たまには唯花ちゃんと帰りたいし」


嘘嘘。あんた、最近コウちゃんを追いかけ回しているから、林田君のこと構ってないんじゃない?


にっこりと微笑む恵梨香の顔に呆れかえってしまう。

はあ~とつい大きく溜息が出てしまった。


今日はコウちゃんがこっちに迎えに来る番だ。

いつもなら私も逃れるために必死にバタバタ足掻くのだろうけど、今日はその元気がない。

もうどうでもいいような、成るように成れとでもいうような、そんな投げやりな気持ちになっていた。


「悪いけど、私一緒に帰れないわ。彼氏と約束しているから」


私は何を言っているのか・・・。

こんなこと言えばコウちゃんに会うってバレバレだ。ますます、恵梨香の腕が離れなくなる。ただでさえ、そのために私の腕を掴んでいるのに。


恵梨香の目がキラリと光った気がした。

作り物の可愛い笑顔の口角が更に上がってる。


「幸司君と会うの? ねえ、私も会っていい? ほら、前回の遊園地で仲良くしてもらったお礼を言いたいし」


「・・・そう」


「うん。どこで会うの?」


「迎えに来てくれるの。校門で待っていれば会えるわよ・・・」


「そうなのね! じゃあ早く行きましょ!」


恵梨香は嬉しそうに私の腕を引っ張った。

私は自分の腕に回している恵梨香の腕を見た。その視線は、無意識に彼女の胸に行く。

豊満なそれは私の腕に柔らかく押し付けられている。


『そりゃ、俺もデカい方がいいよ』


でしょうね・・・。

これだけあれば、コウちゃんも文句は無いんだろうな。

自分の胸と恵梨香の胸を見比べる。


切なく溜息が漏れた。

そんな私を構うことなく、恵梨香は私を引きずるようにして校門に向かった。





校門でコウちゃんを待っている間、恵梨香がペチャクチャと私に話しかけていた。

しかし、私はボーっとしていて、ほとんど耳に入ってこなかった。


塀に寄り掛り、ポケーっと空を見上げていると、あ!っと恵梨香が声を上げた。

その視線の先へゆっくり振り向くと、驚いた顔をしたコウちゃんが立っていた。


「幸司君! お久しぶり!」


恵梨香がタタタっとコウちゃんの傍に駆け寄ると、


「遊園地以来ね! 元気だった?」


可愛らしくコウちゃんの顔を覗き込んだ。


「ああ、久しぶり。西川さん」


コウちゃんはにっこりと笑って恵梨香に挨拶した。

しかし、次に私を見た彼の顔はかなり怒りに満ちた顔だった。


―――どういうつもりだよっ!


という言葉が、発していないのに私の耳に聞こえる。


どういうつもりも、こういうつもりも無いわ。

仕方がないじゃん。捕まっちゃったんだもん。


私はプイっとそっぽを向いた。


コウちゃんは恵梨香から離れるように足早に私の傍に来た。

恵梨香は慌ててコウちゃんを追いかける。

そして私の手を取ろうとするコウちゃんの腕を恵梨香が掴んだ。


「ねえ、幸司君。久しぶりだし、唯花ちゃんと一緒にお茶でもしない?」


にっこり笑って、コウちゃんを上目遣いでじっと見つめた。

しかし、すぐにパッとわざとらしくコウちゃんから手を離した。


「あ、ごめんね! 馴れ馴れしかったわね」


可愛くキュッと両手を丸めて胸元に当てると、テヘっと微笑む。

豊満な胸を両腕で引き寄せ、さらにアピールしている様に見えるのは、単に私の僻みからであって、気のせいなのでしょうね、きっと。


「遊園地で仲良くしてもらって嬉しかったから、お礼したいし」


コテッと首を傾げて、パチパチと瞬きしながら、じっとコウちゃんを見る。


ああ、分かった分かった。はいはい、可愛い可愛い。もう、あざとくて見てられない。勝手にやっててくれない?


「悪いけど、私、朝から胸焼けして気分が悪いの。だから一緒に行けない。よかったら、お二人でどうぞっ!」


気が付くとそんな言葉を口走っていた。


「はあ?」


「じゃあね! ばいばい!」


私はコウちゃんの奇声を無視して踵を返すと、一目散に走り出した。


「え~、どうする~? 幸司君」


背後で甘えたような恵梨香の声が聞こえる。

私は聞こえないふりをして、振り返りもしなかった。

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