第32話 目的と現実の狭間で
翌日の早朝。
副隊長のアーベルはぶらりと片手剣を佩いて、ユーリのいる天幕を訪れた。前触れもなく、突然の訪問に面食らったが、ユーリは直ちに姿勢を正す。
「ユーリ・マゼイン。ちょっと一緒に来てもらおうか。なに、大したことじゃない」
「はっ。皇女殿下の護衛はいかがいたしましょう」
「ドミニクに任せておけ。あいつなら上手く立ち回れるだろう。いや、同性には嫌われるかもしれんな。まあいい、武器を持ってついてこい」
担当をドミニクに引き継いだあと、ユーリはアーベルの指定した場所に立つ。そこは陣地の裏手の広場であり、角にはゴミや排泄物が捨てられている、誰も近寄りたくはないところだ。
「ユーリ、剣を抜け。隊長の命令でお前を少し鍛えることになった」
修飾のない直球な発言に、ユーリは身を強張らせたが、すぐに戦いの姿勢に戻る。
抜かなければ死ぬ。そんな予感がしてならなかったのだ。
「今からお前に人の殺し方を教える。と言っても俺ができるのは一つだけしかない。それを繰り返し学ばせるつもりだ」
アーベルは黒く長い髪を後ろでまとめ、紐で荒く縛り上げる。以前マリアンから聞いていたような、東方の島国にいるサムライという姿に似ていた。
「皇女殿下がおられるから……でしょうか」
「口に出す必要はない。お前が今集中すべきことは、ここで俺に殺されない程度に剣を振るうこと。それだけだ」
「わかりました。お願いします」
刹那の光。
それは火が消えるように一瞬で、雨が雲から落ちるように自然な動きだった。
ユーリは顔の先に剣が突きつけられて、初めて自分が今死んだことを理解した。
実戦だったら、気がつかないまま骸になっていただろう。
「月影の剣が一つ、
「単純だなんて……これは……」
先ほどまでアーベルは剣を鞘に入れたままだった。何の前振りも予備動作もなく、次の瞬間には眼前に剣があったのだ。技量や熟練などという陳腐な単語では表現しきれない、頂を見た者だけが知る剣戟の極地だ。
「お前の武器は長剣と刺突剣だったな。振って見せてみろ、俺が上手な人の刺し方を教えてやる」
「はい、では……」
目を閉じる。誰を想定するかなど、もう決まり切っていた。
ライアン・ウォルフゴール。
フリジアの特殊部隊隊長の名を小さく唱える。必ずこの手で敵を討つと誓った相手だ。あの傲慢な瞳も、深紅の鎧も絶対に忘れない。忘れた日など一日もない。
「シッ!」
突く。
眉間、鳩尾、金的、肺腑、手足。あらゆる箇所を想定して、虚空に線を描いた。エセクの槍も剣も不可視の障壁に阻まれたように、ライアンには通じなかった。
だが僕はやり遂げて見せると、鬼気迫る顔でユーリは見えない敵に向かって、ひたすらに剣を繰り出した。
「やめ。なるほど、お前の剣は怨念が乗っているのだな。それも相当に重い」
「はあ、はあ……どうしてそう思われたのですか?」
指摘するまでもなく、ユーリの剣は士官学校丸出しの型にはまった動きだ。熟練でなくとも、幾度か戦場に出た兵士であればすぐに見切ることができる『わかりやすい』軌跡である。
だがアーベルは個々の動きすべてに殺意が灯っているのを見抜いた。
防御を考えない攻撃特化の剣閃は、初見では確実に命を奪われるだろう。一人で練習したのか、それともドミニクやサンタミカエラの協力があったのかは不明だ。だが、確実に急所を抉ってくる刺突はユーリの持ち味になっていた。
「人は人を刺すときに躊躇が生まれる。それは達人と呼ばれる領域においても同じだ。先天的な異常者でもなければ、たとえ刹那の間であっても脳裏に罪悪感がうまれるものだ」
「僕の剣は違うと……」
「そうだ。お前は人を刺したがっている。それも特定の個人をだ。先ほどから剣の狙いが相手の身長や体格を考慮したものになっている。いたのか、そこまでの恨みを買う人物が」
ユーリは初めて自分の身の上、あるいは何故この大隊に送られてきたのかを語った。フリジアの特殊部隊のことは今でも夢に出るほど焼き付いている。
「それが事実であれば恐るべき相手だ。生半可な――いや、まともな手段では切っ先が届かない可能性が高い。なるほど、ふむ……」
「それでも僕はあいつを殺したい。必ずこの手で地獄に送ってやりたいんです」
アーベルは天を仰ぐ。攻撃を絶対的に防ぐ防御を持つ相手に、必殺の一撃を叩き込むには、いかほどの時間と執念が必要なのかと。
「聞く限りはお前の勝率は限りなく低い。だが技は磨いておいて損はない。今後お前がそいつに出会うまで生きていられるためにも、そして例の女性を守るためにも、ひたすらに剣を練り上げろ。それが未来につながる」
「教えてください。僕は死ぬわけにはいかないんです」
「よかろう。意見が一致したことは喜ばしいことだ。まずは構えから改善しよう」
アーベルの教えは両極端を合わせたものだ。
動と静。アクティブとサイレンス。ワイルドとエレガンス。
納刀時。対峙時。抜刀時。
一つ一つの動作を動と静に分け、適切なフォームを導いていく。
「対峙するときは殺気を押さえろ。相手に気取られることが少ないほど生存率は上がる。殺意は鞘の中に封じておけ」
「脇を締めろ。開いていると重心が散り、威力が少なくなる。斬り終えたときの残心まで、体を一つの球体だと思って動け」
「突きの態勢を維持し続けろ。お前に足りないのは筋力と持久力だ。駆け出し者が一撃の突きで終わると思うな。二手先、三手先を読んでこそ生存できる。最終的に一撃必殺の境地に至るのは、生き延びてからの話だ」
「体が硬い。毎日一時間は柔軟運動をして、関節の可動部を増やせ。無理な体制を平然と維持することこそ、相手の死角に入りこむ機会と思え」
基礎に次ぐ基礎だ。ユーリは如何に自分が感情のままに動いていたかを思い知った。世に語られる強者は些細な努力を怠らないことを、身をもって知った。
「よし、今日はここまでだ。しばらく反復で同じことを繰り返す。毎日寝る前に剣を振れ。全身の筋肉が悲鳴を上げているときに動けてこそ、戦場で通じる武芸になる」
「あ、ありがとう……ござい……ます」
息切れが収まらない。ユーリと同じことをしながらアーベルは指導していたが、彼はまったく呼吸を乱さず、姿勢も変わらない。
翻ってユーリはもう歩くのもやっとなほどに疲労しきっていた。
「では、任務まで待機せよ。俺は行く」
来た時と同様に、アーベルは飄々と去っていった。
「駄目だ、うごけないや……く、負けるか。僕は……」
たった数時間の訓練で音を上げた自分が恥ずかしい。このザマで誰を倒すというのか。小隊が壊滅したときに、自分が生きていたのは奇跡だとユーリは噛みしめる。見逃されたと言ってもいいだろう。
「まだ、やつの場所の影すら見えない。だけど――」
殺す。必ず殺す。
髪を掴んで叩きのめし、地面の味をしみこませ、体中に風穴を開けてやりたい。
「届かせて見せる。僕の剣は、僕の命はそのために使うと決めているんだ」
それはむなしい復讐者の妄執。
「随分と可愛がってもらえたようだな、ユーリ・マゼイン子爵令息よ。私にもその頑張りの理由を教えてくれまいか」
いつからいたのか、廃棄皇女アーデルハイドが天幕の下で雪を避けながら、ユーリに笑みを向けていた。目に邪気はない。ただ彼の在り方に疑問をもったのだ。
「これは……お見苦しいところを失礼しました。僕はただ強くなりたいと願っていて、その機会が与えられただけのことです」
「ほう、それにしては殺気が尋常ではなかったな。よいよい、それは今言わぬとも、おいおい聞いていくとしよう。ほら、毛布を被れ。臭くてシラミが多いが、汗をかいて凍死するよりはよかろう」
投げてよこした茶色の毛布は、ほのかに金木犀の香りがした。
「アーベル・ハッキネンか。名前は聞いたことがある。ヴォルガグラードでの噂では、剣豪以上剣聖未満といったところか。ふむ、よし」
「えと、何がいいのでしょうか」
「どうせならば皆で訓練しよう! 私も強くあらねばならんし、ドミニクやサンタミカエラも今以上に頼りになるだろう!」
「殿下が表に出て汗を流されるのは、その、大丈夫なのですか?」
「問題なかろう。囚人兵が剣を振ってるだけだ。上もそれほど目くじらを立てまい。私たちは消費される数字の一つにすぎん。一や二が努力していようが戦争という無量大数の前では目こぼしされるさ」
将軍は最終的に勝っていればそれで良しとされる。
だが現場の兵士はその日その日を生き延びなければ、歴史は途絶えてしまう。
「では今日のレッスンを貴公から受けようか。はよう私の天幕に参れ、そこで特訓するとしよう」
アーデルハイドは年相応の愛嬌で、ユーリの手を取った。
――
ヴォルガ帝国歴311年4月
ユーリは出撃を生き延びながらも、皇女アーデルハイドの真の目的を聞くことになる。きっとその時はつないだ手を離さず、革命の火を一緒に掲げることになるだろう。
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