第31話 『紫電』アーベル・ハッキネン
廃棄皇女アーデルハイドは懲罰部隊に新しい風を吹き込んだ。
先ず兵の規律が改善した。
小汚い身なりを整え、衣服をただして軍務に臨む。それが雑役任務であろうとも、土木作業や設営任務であろうとも、列を崩すことなく行進しては黙々と働くようになった。
元とはいえ、帝室の血を受け継いだ直系の子孫である。物心つく前から忠誠を誓わされてきたヴォルガ人にとっては、まさに女神が降臨したのと同様の畏れがそこにはあった。
当のアーデルハイドも高貴な身分であったとは思えぬほど精勤していた。
初春の寒波が吹き荒れる中、湯を沸かすのもそこそこに汚れた衣服を洗濯板で一生懸命に洗う。血のの染み抜きやほつれの修繕など、手芸も達者のようだ。
誰もが嫌がる厠の掃除も進んで行い、兵士たちの衛生環境の向上に一役を買うようになっていた。
「殿下、こちらの厠は終わりました。そろそろ昼食の時間です」
「アデルで構わんと言っただろう。しかし貴公も生真面目な娘だな。私の供回りは頼んだが、別に一緒になって清掃する必要もなかろう」
放置なんてできるはずがないと、ユーリは声を大にして言いたかった。しかし一笑に付されて終わってしまうことを予測し、何も口にはしない。
ヴォルガでは舌禍は自らの生命に直結する。死人も正者も口無しだ。
「ねーアデルー。おなかすいたから早くいこうよー」
「ふ、不敬だよサン。きちんと言葉を……」
「え、だってアデルがいいって言うからさ! 私もサンって呼んでほしいからね!」
元気いっぱいの声が嬉しかったのか、アーデルハイドは清掃用具を片付け、手を清めながら笑顔を浮かべる。
「その通りだ。ユーリはお堅くて困る。ふむ、そうだ。せっかくだから女性だけで茶会などしようではないか。とはいっても昼食のライ麦パンと干し肉、雑草茶しか出せぬが」
「ふふ、アデル様。ユーリ・マゼインという元子爵が紅茶を隠し持っているという情報を握っていましてね。よろしければこのドミニクめが強奪して献上致しましょう」
「ほう、紅茶とな。許す、大いに略奪するのだ」
なけなしの紅茶はどうやら雪原の中の女子会に消費されてしまうらしい。ユーリは観念したように手を挙げ、ドミニクに賛意を示した。
「いい心がけだよユーリ。勝てない相手には喧嘩を売るべきではない。今のところアデル様はユーリよりもよほど海千山千の女傑だね」
「参りましたよ。それで僕は物資提供以外に何をすればいいのかな」
「む? 茶会なのだから貴公も楽しめばよろしい。どうせ女子しかおらんのだ、好きなことを喋っていれば日も傾こう」
「サン、ドミニクさん、まだ言ってなかったんですか?」
「私は言ってないよ!」
「やぁ、つい言いそびれてね。というか、もう男じゃなくていいんじゃないかな」
その発想はなかったと、ユーリは目を白くして睨む。
「殿下、お供をさせていただいて五日目になります。今更ですが、私の性別は男です。どうかお忘れないようにお願いいたします」
「ほほう、茶会前の冗談とは気が利くな。うむ、私も今から楽しくなってきたぞ」
「殿下—―」
「む? …………真なのか」
「恐れながら。左様でございます」
ひゅう、と一陣の風が抜けていく。誰しもが誤認するユーリの性別は、皇族ですら出し抜けるようであった。皇女アーデルハイドはユーリの体をしげしげと観察し、ぺたぺたと触ってようやく理解した。
目の前の少年は胸がなく、一物がついているだけで、あとはすべて女性とほぼ変わらないということに。
「よし――今日から卿を女性とする。ユーリよ、そのようにいたせ」
「いたしません! そんな前代未聞の命令は受諾できませんからね!」
「この反応よ。私が男であったら何があっても貴公を攫って妻に迎えるが」
何を述べても無駄と感じ、ユーリは肩を落とす。未だに一本の髭すら生えない自分の体は、本当に男なのだろうかと疑問すら浮かんでくるほどだ。
「まあよかろう。茶会に向かうぞ。供をせよ」
「承知いたしました……」
「今日のお昼はオオカミの肉だって! あはは、あれ臭いんだよね!」
若き少女たちの可憐な姿は、約一名を除いて、部隊の士気向上に大いに役に立っていた。
◆
「やかましいな……ここが懲罰部隊ってわかってんのか、お嬢さんたちは」
「今のところいい影響しかないですからね。流石に廃嫡されたとはいえ、皇女殿下に手を出すほどの自殺志願者はいないでしょうし、問題はないかと」
「大ありだよ馬鹿野郎。これを見ろ」
レオニードが副官のアーベルに見せたのは一枚の命令書だ。
「敵陣奪取……ですか。ええ、隊長これは無理ですよ。敵地のど真ん中じゃないですか。到着前に全滅しますよ」
「そうあってほしいんだろ。ウラーと叫んで突撃させるだけの簡単な役職だと思ってたが、くそ、ツキが消えたか。いいかアーベル。これは隣人党総本部と帝都参謀本部直々の印章が入ってる。どうやっても、なにがあっても断れない任務だ。受けても死ぬし受けなくても死ぬ」
深い吐息と共にレオニードはとっておきの紙巻煙草に火をつける。
安物の葉だが、気を紛らわせるにはそれくらいが丁度いいのかもしれない。
「お前とは、どれくらいだっけな、アーベル」
「部隊に来て2年になりますね。毎度毎度死地ばかりで芸のない部隊ですが、それ相応には気に入っています。隊長もそうでは?」
紫煙をふっと吐きだし、レオニードは首を横に振る。そんなふざけた考えなどもつわけが無いとばかりに、ゆっくりと強く。
「俺だって一応は人だ。それなりに愛着もあるかもしれん。だが部隊を守ろうだなんて思ったこと一回もねえよ。俺は自分が生きていればそれでいい」
「まあ、否定はしません。肯定もしかねますが」
「俺はな、ガキの頃から負けることだけは我慢がならねえ気性でよ。勝って勝って、勝ち続けて生きてきたかったんだ。喧嘩でも賭けでも戦争でも同じだ。負けるのだけは勘弁できねえ」
「その結果部隊は懲罰部隊としては異例の生存期間を誇ってますね」
アーベルは長い黒髪をかき上げ、秘めたる闘志を持つ上官の言を待つ。
レオニード・ドミトレンコ。赤い燃えるような炎の髪を持つ男は、今までに何度も生き延びてきた。今回もきっと乗り越えられるだろうとアーベルは信じている。
「皇女殿下の廃嫡は帝室にとって大きな汚名だ。だから世間体的には戦死したと思わせたいんだろ。皇女殿下は勇ましく先陣を切って戦い、奮戦むなしくもフリジアの魔の手により討たれた、ヴォルガ人の誇りたる帝室までもが前線にいるのだ、立って戦えとな」
「もう限界まで徴兵しているかと。あとは……女性や老人—―政府の……まさか」
アーベルは一つの可能性に気づいた。
いつからだろうか。生まれたときから、それとも大人になってから?
皇帝と隣人党が蜜月関係にあると頑なに信じ切っていたのは、どうしてだろうか。
「口に出すなよアーベル。お前も匂うだろう? 俗にいう『きな臭さ』ってやつが」
「我々は何をすべきでしょうか」
「差し当たっては訓練だな。悪いがあのユーリとかいうお嬢ちゃんの腕を無理やりにでも上げさせろ。どうもあいつと仲間以外は皇女殿下にそこまでお近づきになれんらしいからな」
ユーリの剣技は悪いほうではない。型に通り、教本通りに動き、士官学校で習った技術をしっかりと物にはしている。いかんせん実戦経験の少なさや、対人戦の奥深さをまだ理解しきれていない。
「若い娘さんを暴行するようで気が引けますな」
「まあ、よろしく頼むぞ。アーベル師範」
アーベル・ハッキネンの実家は剣術を教えていた。アーベル自身はそれほど体躯もたくましくなく、中肉中背のやや頼りない印象を与える男だ。
道場に通う練習生は最初だれでも彼を軽んじるのだが、最終的には必ず叩きのめされる。アーベルには磨き上げた必殺の一撃があった。
「精進してれば三騎士が四騎士に増えたかもしれねえしな」
「買いかぶりすぎです。私はユーリと同じに、教えられたことを愚直に繰り返していただけですよ」
紫電—―それが自由の身であったときのアーベルの二つ名である。
繰り出す目視不可能の突きは、初見で交わすのはほぼ不可能だ。
「まあ、ユーリと私、戦闘スタイルが似ているので少しは助けになれましょう」
刺殺武器を得意とするユーリに、転機が訪れようとしていた。
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