第26話 慈悲の剣が示す先

 懲罰部隊の新兵が受けた洗礼は、受け止めるには重すぎた。

 新規に入隊したもので、健常なものは十名程度だろうか。その多くは地雷原の盾となって命を散らしていった。


「ユーリ、すまんが……頼む……」

「わかりました。目を閉じていてください」


 己のできることを全うするのが軍人の務め。ユーリが差し込む慈悲の一撃は、地雷原を抜けた先で、不幸ながら多く振るわれることになった。


 今も両足を失った兵士を一人、安らかに眠らせたところだ。

「おやすみなさい。次の人生はきっと穏やかなものになるように」


 ユーリの右手に現れた『聖角コルヌス』の聖痕が、ミセリコルデの慈悲の力を高めた。まるで水に手を入れるがごとく、兵士の鼓動を優しく止めた。


 涙に濡れた紫の瞳をぬぐい、ユーリは次の希望者のもとへ行く。収容された者はまだ幸せだった。未だ戦場には吹き飛ばされてなお命が残っている者が多くいる。だが危険すぎて引き返すわけにはいかない。それに後退したと思われれば処罰の対象となってしまうだろう。


 ユーリは不意に肩をつかまれた。そこには花崗岩のようにごつごつとした風貌の、巨体の男が立っていた。服装は鎧ではなく黒い神父服で、首には大地母神に帰依している証の円形のシンボルが揺れていた。


「お嬢さん一人に役目を任せるのは忍びない。母なるヴォルガの大地に帰る者を送るのも神職の務めなり。どうか拙僧にも手伝わせてほしい」


「あなたは……?」

「おお、申し遅れた。拙僧はグレゴール・ドレヴィチ。大地母神マーテルを信仰する一介の僧侶です」


「お坊様がどうしてこんな場所に。従軍司祭様でしょうか」


「いえいえそのように大層なお役目ではございません。軍部に少しばかり大地母神の愛を説いたところ、動けなくなるまで殴られましてな。目が覚めましたらこの通り懲罰部隊に送られていたというわけです」


 ユーリはグレゴールの語る内容に驚愕した。厳格な宗教国家であるフリジア=シノン連合教国とは異なり、ヴォルガ帝国は布教や信仰の自由が認められているはずだ。今では百を超える教えが存在し、臣民はそれぞれの矜持をかけて信ずる神を選んでいる。


 グレゴールが示唆したことは、軍部に神の慈愛は都合が悪いということだろう。戦争を遂行する手段として、または兵士の恐怖を緩和する目的での宗教は有用で、停戦や平和を求める声は害悪としかとられない。


 おそらくは隣人党の方針だろう。彼らは皇帝と党への忠誠以外は求めてはいない。ヴォルガが戦争で敗北するということは、議会第一党である隣人党の権威が失墜し、自分たちが散々行ってきた粛清を受ける側に回ると言う恐怖があるに違いない。


「そのような顔をされなくても大丈夫ですぞ。ええと……」

「あ、すみません。僕はユーリ・マゼインと申します」


「これは吃驚! なんと貴公はマゼイン子爵様の……いやいや、そんなまさか。その念のためにお伺いするが……」


「あ、あはは。こう見えても男です。頼りない外見で恐縮ですが。それに神父様のおっしゃっているマゼイン家は恐らく僕の家のことでしょう」


 グレゴールは教会の聖印を手に何事かをつぶやいているようだ。大地母神が間違えるはずがない、だとか、神を試してはならない、などと。


「ふぅむ。拙僧はまだ修行が足りぬようでした。まあそれはさておき、話し込んでしまっては兵士たちに申し訳ない。お手伝いしましょう」


「そう……ですね。あと少しという言い方は嫌ですが、お手を借りたいと思います」

「承りましたぞ、マゼイン卿」


 零下の風が吹きすさぶ中、寒さと痛みに震える兵士たちの鎮魂は終わった。彼らが二度と誰も傷つけあわない世界にたどり着いてほしいとユーリは願った。


「残存兵力集合! 傾注せよ!」

 副隊長のアーベル・ハッキネンが頭に包帯を巻かれた状態で兵士を集めている。

 命令を出す側と受ける側。この懲罰大隊ではどちらがより過酷なのかと考えざるを得なかった。


 ドミトレンコ隊長が特に楽しくなさそうに、感情なく話す。

「よしよし、生き残ったおりこうさんたちに任務を与える。ここから半日ほど歩いた場所にくだんの裏切り者どもの町がある。焼け。すべて焼け。人は殺せ、家畜も殺せ、赤子も殺すんだ。動くものが何もなくなった状態で任務完了とする。質問は無しだ」

 剣を抜いて空を切る。きっとそれは兵士たちの良心を断ったのだろう。

 

「各員装備点検し、食事をしておけ。どうせ現地ではモノは食える気分ではなくなる。新兵諸君、こちら側にようこそ」


 生唾を誰かが飲みこむ。みな質問を、否、任務の正当性を問いたいのだ。だが惰弱なことを口にすれば、また闇に引きずり込まれて殴打されるだろう。懲罰部隊とはそういうものだ。


 ユーリは知り合った三人と一緒にモソモソと携帯食を齧り始める。


 ドミニク・ヴァクニーナは鏡を見ながら髪を梳いている。彼女はどれだけこのような任務をこなしてきたのだろうか。今から散歩にでも行くような気軽さすら感じさせる。


 サンタミカエラ・クレシェンティヴァは食べ物に夢中だ。どうも彼女だけ荷物が大きいと思ったら、バックパックには大量の黒パンが入っていた。後で聞き及んだことだが、サンは戦場での功績をすべて食事に変換しているらしい。


 グレゴール・ドレヴィチは熱心に祈りを捧げていた。食事には一切手をつけず、水も飲まない。古来より神と交信するときには人は断食をして体を清めたという。おそらくはこれから起こるだろう虐殺に対して神への懺悔を行っているのだろう。


「みんな、聞いてほしいことが……あるんだ」

「なんだいユーリお嬢様。騎士ドミニクに何かご用命かな」


 ユーリは苦笑して軽口を流すと、神妙な面持ちで語り始めた。


「僕はこの作戦に反対だ。いくら的に味方したとはいえ、一般市民を殺害するのは間違ってると思う」


「そんなこと誰もわかってるさ。見てみなよ、誰も彼も今から自分が死刑執行されるような顔つきさ。私だってキツいと思ってるよ。まあそうは見えないだろうけどね」


 強がるドミニクの手は微かに震えていた。大罪を犯すとわかっていて気が安らぐはずもない。サンの食欲も一種の自傷行為だろう。ひたすら食べることによって無我の境地に至ろうとしているだけだ。


「マゼイン卿は、そのようなことを改めて口にされてどうされるおつもりか。何をどう理屈をつけても、これから拙僧たちが行うのは無辜の市民への暴力です。なんの言い訳も通用しますまい」


「そうですね。僕は……人を助けようと思っています。それがどんなに難しいかも予想はしているつもりです。覚悟も決まっているつもりです。ですが、力が足りていません」


 冬の烈風が焚火の火を揺らす。可燃物には限りがあるので、このひと時の暖を逃せば、あとはどこまで行っても雪の中だ。


「具体的にどうするつもりかな? 意気込みだけで動けば、縛り首になる未来は動かないよ」


「んー私はユーリがそうしたいっていうなら付き合ってあげてもいいかも! ねえねえ、それで何をどうすればいいの?」


「今から行く町の名前はノイエングラード。実は僕はそこに長くいたことがあるんだ。ノイエングラードは城壁で囲まれている都市だけれども、その四隅に避難用の地下室があるんだ。僕はそこに女性と子供だけは隠そうと思う。申し訳ないけれど、それが精一杯だ」


 ユーリは紫電のように走る鋭い頭痛に顔をしかめる。夏の日の微かな残滓が蝶のように舞って、痛覚を刺激した。


「場所は四か所。僕たちは四人だ。やってみる価値はあると思う」


「はいはい私はやる! だって人は叩き潰すとすごく臭いんだよ! 私はそんな思いをしてまで全滅はさせたくないなぁ。人の役に立つことをしろってお爺ちゃんも言ってた」


「正気かサン。おいおい、そんな漠然とした話で動けるはずがないだろう。万が一味方に見つかったら共倒れだぞ」


「それでもやらなければ可能性はゼロなんだ。ドミニクさん、お願いします力を貸してください」


「ちょっと考えさせてくれ。わかってる。誰にも言わない。だから少し一人にしてくれ」


 ドミニクは膝についた雪を払うと、近くの針葉樹の元まで歩いていき、木に縁りかかって腕組みをした。眠っているようにも見えるが、実は汗が噴き出るほどに熟慮している。


「拙僧はやりましょう。もとよりこの作戦には拙僧も反対でした。マゼイン卿が何も言わなければ、拙僧は個人でボイコット活動をしていたでしょう。それで処刑されるのであれば、拙僧の運命はそこまでだったということです」


 あとはドミニクが賛同してくれれば、より多くの命を救える。彼女は今自分の命と他者の命を必死に天秤にかけていた。冷酷な審判ではない。自らの命を懸けるのだ、それ以上のリターンがないと動くことはできない。ドミニクは騎士としての矜持と、死にたくないという生存本能を戦わせているのだった。

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