第17話 中隊の瓦解

 荷馬車から降りると、ユーリはふらつく体を押さえながら、アンドレイを探す。指揮権移譲を受けなくては話の筋が通らないからだ。そしてすぐ隣の馬車で揺られているアンドレイを発見する。


「同志大尉、ユーリです。お怪我の具合はいかがでしょうか?」

「マゼイン……同志中尉……か。私は……大丈夫だ。それよりも、部隊を……指揮を……」


「はい。大尉、私に指揮権をお渡しください。速やかに部隊を撤退させ、無傷の味方に戦地を譲りたく思います。それに負傷兵がいつまでも最前線にしがみついていれば、後続の兵士の邪魔になると思われます」


「そうか……それが君の判断か……。致仕方ないな。武勲を挙げるのは……次回に持ち越そう。君を中隊の臨時指揮官に任ずる。後は頼むぞ……」


「拝命いたします」


 ユーリはアンドレイと握手を交わし、部隊の守護を誓う。今やるべきことは一つ、ジルコフを黙らせること、その一点のみだ。


 ユーリは剣を抜き放ち、高らかに宣言する。


「第199歩兵中隊の臨時指揮官に任命された、ユーリ・マゼイン中尉である。これより中隊は残存兵力をまとめて撤退、一人でも多くの兵を故郷に連れて帰ることを任務とする!」


 おお、と歓声が上がる。軽症の兵はその瞳に希望を抱き、家族の顔を脳裏に描く。重症の者も、どうせ死ぬのであれば故郷でと考えていることだろう。


「この反逆者があっ!!」


 空気を破裂させるような大声が陣地に轟く。セルゲイ・ジルコフ少尉は至上命令を完遂しなくてはならない。例え自分がここで散華したとしても、党の秘密警察に家族が逮捕されるよりはマシだと考えていた。額に青筋を立て、ジルコフは攻撃続行の鞭を執ろうとしている。


「何を考えているんだ小僧っ! 我々は党の軍であり、党の許可なく退却することはあり得ない! 今からでも遅くはない、早く引き返して敵を討つんだ!」


「指揮権はこの私にあります! 同志少尉、貴方と議論をする余地はありません。私は退却を命じました。変更はありません!」


「言葉に気をつけろと忠告したはずだぞ、クソガキが。党に対する不敬、不服従。これ以上貴様に権限を持たせるわけにはいかん。憲兵、マゼイン中尉を逮捕しろ! 国家反逆罪だ!!」


 ジルコフが引きつれている軍警察もたじろいでしまう。頭ではジルコフの命令を聞くべきと理解しているのだが、本能がこの場に留まることを拒否している。ここにいれば確実に死に至る、にもかかわらず身内で争っていていいのか。その疑念が彼らの行動を縛っていた。


「早くせんかぁっ!!」


 ジルコフに威嚇されて、軍警察の足がようやく動き出す。恐る恐るユーリに近づいていくが、それを阻むように第二小隊の兵士が立ちふさがった。


 エセク、テオドール、マリアン、ルイセ。他にも動ける者はみなユーリを守っていた。なぜならユーリの命令こそが死地から脱する唯一の手段であり、今日の汚名を雪ぐ機会をつなぐ行為だからである。


「ジルコフ、貴官の命令は無効だ。第199歩兵中隊はさらに後方にいる味方と合流し、兵力の再建を目的とする。出発!」


 先頭にいる御者が馬を動かすと、そのまま戦場の煙が薄くなってくる。第七師団を預かっている、ディミトリ・ビシュチェク少将のもとに向かい、戦列復帰の手続きをしなければならない。


 しばらくは穏やかな時間が流れた。だが、安息はそれほど長くは続かなかった。大きな振動。先頭を走る馬車列が突然急停車をした。



――目の前に、誰かがいる。



 ユーリたちの前方。黒いローブを着た人影が、雪の中に一人立っている。男か女かも不明だ。フードを目深に被り、横にゆらゆらと揺れながらゆっくり、しかし確実に間合いを縮めてくる。


 中隊の兵士が詰問しようと馬車を降り、その人影に向かった。


 紙が擦れ合うような音。

 その無造作な死を認識できなかった。人の目では追いきれない、何かが走った。

体を頭から臀部に至るまで、真っ二つに両断された兵士自身も同じだ。


「え……」

 次いで御者が輪切りになり、座席から引きずり降ろされる。


「て、敵襲ーっ!!」


 叫んだ者も寸暇なく切断されていく。前列は故郷への道から、屠殺上の入り口へと変わってしまった。悲鳴と怒号、それらを蹂躙する風切り音が荒れ狂っている。


「中隊、前方警戒! 敵戦力を把握するんだ!」


 ユーリは迷いなかった。これまで短い間ではあったが、死線を潜り抜けてきた。その僅かな勘が告げている。自分たちの魂は死神の鎌の前にあると。


「全軍抜刀! 戦闘用意ッ!!」


 エセクの声が兵士に活を入れる。それを聞いて今まで呆けていた中隊の仲間たちは、表情を引き締めて、戦いの顔つきになる。腰を落とし、盾を構えてゆっくりと前進を始めた。


「敵は一人だ、怖気づくなっ!」

「囲め、囲んで圧殺しろっ」


 黒い影に兵士たちがにじり寄る。一斉に槍を振りかぶり、一気に突き通したと思われた刹那、敵の影は消えていた。兵士たちの槍が重なり合い、空を切る。後に残されたのは無残に惨殺された味方の遺骸のみだった。


「周囲を警戒しろ! どこかに潜んでいるはずだ!」


 エセクは声を張り上げ兵を叱咤する。だが目を皿のようにこらしても、先ほどの敵影は欠片さえも見つけることができなかった。


 一体敵は何処へ消えた? 近くに伏せているのか? それとも逃げたのか? 様々な思惑が瞬時に交錯する。


 新たな動きは、負傷兵を護送している荷馬車の箇所で起きた。

 救命間に合わず、荷台で息を引き取った兵士たちが突然起き上がり、周りの兵士に食いかかったのだ。部隊の中衛で死者の饗宴が始まる。


「死体が、死体が動いている!」


「やめろレイコフ。俺だ、ヴラディーミルだ。や、やめっ、うぐおあああああああっ!!」

「くそ、無力化しろ! 手足を切り取れ!」


 ユーリたちも応戦に向かう。味方の兵士に食いついていた一人、いや一体のグールが新たなる贄に視線を送る。ユーリは直剣で伸びてくる腕を切り落とし、そのまま遠心力を生かして一回転、首を切断した。


 グールは死霊魔術によって生成される死人兵だ。少なくとも、そういう伝説ではある。ユーリは産まれてこのかた、自律式のアンデッドをその眼で見たことはなかった。魔法に精通しているマリアンですら、文献で読んだことがあるほどの古代魔術だ。実戦に、しかもこれだけの大規模な合戦に、グールが投入された例など過去にも記録がない。


「みんな、グールの弱点は頭よ! 頭を潰して!」


 マリアンが迫る一体の頭部を、火炎理術で吹き飛ばしながら注意を促す。事実マリアンに始末されたグールはもう二度と動くことはなかった。


 死中にどうにか活路を得ている中、一人だけ暗闇に閉ざされている人物がいた。


「一体何が起こっている。誰か、私に報告をしたまえっ!」

 両目を失っているアンドレイだけが、今の地獄を理解していない。


「おい……誰か……」


 アンドレイは血がにじむ包帯に巻かれた顔を上げ、辺りを窺うように首を左右に振る。周りでは鉄が鳴り、肉が断ち切られる音が響いていた。血の匂い益々濃く、部下の絶命の声が絶え間なく上がっていたのだ。


「命令だ、誰か私に……状況を……」


 空中に手を彷徨わせながら、近くにいる兵士にしがみつくのがやっとだった。


――それが生きている兵士であれば、彼にとっては幸運だったのだろう。


「そこのお前。報告を――うがあっ!?」


 アンドレイの首筋が荒く噛み切られる。鮮血が滝のように流れ、呼吸する力を奪っていった。かひゅー、かひゅーと細かく震える喉で必死に生を求めるが、その動きは却って死肉喰らいを喜ばせる結果となってしまった。


「ぐおああああああああああっ!! やめろ、やめ、ぐぶぉっ」


 アンドレイの顔面中央、鼻の部分が大きく削り取られる。荷台には一匹、また一匹とグールが群がっていき、やがて声は死人の嬌声の中に消えた。


「同志大尉ーーっ!!」

「よせ、ユーリ、もう手遅れだ! それよりも自分の身を守れ!」


 エセクが引っ張って止めなければ、ユーリは無謀にもアンドレイを助けに行き、彼の後を追ったであろう。


 折悪しく吹雪が強くなってきた。辺りにどれくらい生者がいて、どれくらい死者がいるのか。戦場の把握が難しくなっていく。中隊の兵士たちに出来得ることといえば、目の前に迫る敵を斬り倒し、一秒、また一秒と命を繋いでいくことだった。


「ユーリ、兄貴、どうすんだよ? 前衛は状況不明、中衛は半壊。どうしようもねえぜ?」


「後衛に糧秣用の大きな荷馬車がある。あれを破壊されたら僕たちはこの雪から出られなくなってしまうだろう。馬車を中心に防御陣形を築いて抵抗する。エセク、伝達を!」


「この分だと後衛が殺られるのも時間の問題……か。よし、生き残った者は聞けっっ!! これより後衛まで下がり防衛線を構築する! ヴォルガ人の意地を見せてやれ!」


 ユーリは先へと進み、エセクは殿へと進む。


「テオドール、ユーリとマリアンを頼むぞ。行けッ!!」

「やってやらぁっ。こっちだ野郎ども、俺に続けえっ!」


 視界を奪う白、白、白。ひたすらに隊列に沿って後退し、後衛を守っているルイセと合流を図る。途中でグールを何匹斬り倒したか、もう誰も覚えてはいない。もしかしたらまだ生きている味方をも斬ったかもしれない。だがこれ以上は時間が許さない。撤退しようとした前方は死者の楽園になったのだ。そしてそれらは確実に自分たちに追いすがってきている。


「ユーリ……伏せて……しゅーと」


 息弾む行軍の中、鈴の音のようにルイセの声が聞こえた。ユーリは咄嗟に地面に倒れこむ。するとその上を矢が数本通り過ぎていくのだった。矢は後方から襲い来る亡者の額に寸分違わず突き刺さり、雪原に黒点を残していく。


「ルイセ!」

「早く……来て……。もう、もた……ない……」


 ルイセは荷台の上に立ち、次から次へと矢を射っている。足元に矢筒を積み、撃ち尽くしては足で蹴り上げて拾っていた。


「方形陣を敷く! 残念だけれど死者に情けはかけるな! 敵を全て打ち倒そう!」

「おおおっ!」


 第199歩兵中隊の最後の抵抗が始まった。

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