第8話 政治将校の悪意 魔法使いの好意
二人を送り出した直後、重量感を感じさせる足音が一つ、ユーリに近づいてきた。
ああ、嫌だな、とユーリは目を瞑る。
「休憩、休憩、休憩。子爵の御令息閣下はご優雅でいらっしゃる。私どものような軍人肌には些か理解しかねる行動ですが、これも格別のご配慮なのでしょうね」
慇懃無礼な言葉に、貼り付けたような笑顔。表面上は穏やかではあるが、ユーリに対する嫌悪感は嫌でも伝わってくる。
貴族階級は甘えている者しかいない。着任以来、この男、セルゲイ・ジルコフ少尉の思想は一貫していた。階級上はユーリ同格だがあくまでも形式上のものであり、実際の立場はジルコフの方が遥かに上にある。
「まあ、しかし、閣下も見かけによらず剛毅ですな。このままでは党の決めた計画に支障をきたすやもしれません。にもかかわらず、こうして仲良く暖を取る。いやはや、そのような勇気、とてもではないですが、私には持てませんよ」
「ジルコフ同志少尉。政治将校としての貴官の任務は理解しているつもりです。ですが我が小隊の山岳歩兵による気象観測では、これから大雪になる雲の動きとの報告があがってきています。休めるうちに休んでおくのも、正しい戦争行動と判断しました」
「舌は凍えていないとお見受けしますな。いやはや、私の興味は、部隊が予定通りの日に、予定通りの場所に到着することです。いあー、いや、もう一つだけ。閣下は部隊内で交友関係を広げることにご執心のようですな。政治将校として忠言いたしますれば、あまり誤解を生むような言動は慎まれたほうがよろしいかと。自らの目に映る世界だけが、全ての価値観を表しているわけではありませんからな」
真綿で首を絞める物言いに、ユーリの細い眉音がどんどん狭まってくる。部隊間の連携を図って何が悪いというのがユーリの解釈だが、それは必ずしも正しいとは言えない。平時なればまだ見逃されるが、有事の今ではジルコフの言う通り、不信感を抱かれる行動にでるのは危険なことであった。
特にヴォルガ内で、党の人間を前にしては。若いユーリには、まだ戦争のなんたるかを理解するのは、時間が無さ過ぎた。
「小隊の親睦は連帯感を持たせるためにも必要不可欠です。それに私の部隊ですから、私が直接管理するのは適正な行為です」
小癪な反論を聞き、ジルコフの微笑みが一層深くなる。顔色の悪い頬にたっぷりと肉のついた顔は、前線で飢えを凌いでいる兵士からすれば、嫌悪の対象となるだろう。
「おっとおっと、それはいけない。お間違えの無いように。部隊は皇帝陛下と党と人民のものです。閣下の自由な発想は軍には刺激が強すぎますな。集団農場でよろしければ、いつでも私が口利きをさせていただきますぞ」
「……誤解なされぬよう。この身は祖国に捧げています。同志少尉も配慮のある発言をされてください」
一分一秒でも早くこの場から去りたい。ジルコフの声が聞こえない場所に行きたい。ユーリのささやかな欲求だが、それこそがジルコフに、挑発ともとれる言葉を許していることに気づいていなかった。
ユーリの心情を見透かしてか、ジルコフはより媚びへつらったように揉み手をする。
「言葉というのは不思議なものですな。伝え方一つで大きく運命を左右するものです。常日頃において気をつけたいと思っています。さて、私は後方にいる憲兵のもとに戻ります。どこであろうと閣下の後ろに控えておりますので、御用があればお申し付けください」
「わかりました、肝に銘じます」
太い腹を揺すり、ジルコフは満足げに去って行った。ユーリは戦力として勘定していないが、ジルコフにも指揮する部隊が十名ほどいる。貴族やその供回りで構成されているユーリの部隊とは大きく異なり、ジルコフが連れているのは、逃亡や脱走、思想犯を取り締まるための軍警察だ。一級品の装備が与えられており、嗜好品の保持も認められている。
ユーリは悪霊が去ったと言わんばかりに顔をぶるぶると振り、起こされたたき火の近くに座る。とっておいた羊の干し肉が入っている携帯袋をとり出し、一切れ口に運ぶ。
「はぁ……」
どうしてもジルコフには慣れない。そもそも政治将校という肩書自体が、ユーリにとっては不可解極まる存在だ。だから大きなため息が何度も出てしまうのは、致し方のないことなのかもしれない。
「やっほ」
落ち込んでいるユーリの姿を見つけて、小隊付きの魔法使い、マリアン・連火・サフィーリナがやってきた。彼女はユーリの隣にそっと腰を下ろし、ケープに積もった雪を手ではたき落としている。最後には傍若無人に
「んあーーーっ」
と盛大な伸びをした。
「ユー……じゃなかった。同志少尉も大変だよねー。あんな嫌な奴の相手をしないといけないなんて。私だったら尻を燃やしてやるところだわ」
「シッ、今は作戦行動中だよ、マリアン。あいつの耳に入ったら、思想矯正施設に送られてしまうかもしれないから、やめよう」
「わーかってるってばさ。よし、切り替えて何か楽しいこと話そ」
にこっと微笑むのを見て、ユーリは顔を赤くする。その隙にマリアンは、ユーリが手に持っていた干し肉を一切れ横取りした。
「はむ、んむんむ。うへぇ……しょっぱー」
ぺろりと舌を出して、史上極小の天罰を味わっていた。ユーリは『やられたよ』と手を挙げ、別の話題を振る。
「マリアン、前から聞いてみたかったことがあるんだけれど」
「お、同志少尉が私に質問なんて、初めてかも。何、何?」
「いや、マリアンのミドルネーム。『連火』って確か、外国の字を使うんだよね?」
「なんだよー。そんなことー?」
ヴォルガ帝国ではミドルネームを持っている人物は少ない。いたとしても、ヴォルガ統治以前よりも長く存在している家系の持ち主か、新しく移民としてやってきた者の慣習だ。
「連火ってのはお母さんの苗字。お父さんはヴォルガから見て、遥か遥か遠い、東方にある島国でお母さんと巡りあったんだって。だから帝国では珍しい、名前・姓・姓の組み合わせになってるわけさ」
家族を思い出したのか、マリアンは持っている樫の杖をぎゅっと握る。彼女の肌はヴォルガ人には珍しい、黄色人種の色合いが微かに現れていた。
「まあ、魔法使いってのは業が深い生き物でさー。自分の探求心が赴くままに生きているわけなのですよ。自分たちにはない新しい技術をとり入れるためならば、世界の果てまで行っちゃうくらいにさ。うちのとーさんみたいに」
「するとマリアンのお母さんには、何か特別な力があったっていうこと?」
「私もよくわかんないんだけどねー。ミコ? とか言う、神様に仕える職業だったみたいだよ。でも家では超おっかない。私がちょっとさぼると、棒に紙切れが何枚もついたやつで、お尻を思いっきり叩いてくるの」
「ははは、よく言ってたもんね。お母さんに叱られるって」
「うっさいなー。もうトラウマなんだってば」
思わずお尻に手を当てるマリアンを見て、ユーリは心が解きほぐされていく気分になった。二人の様子をジルコフに見咎められれば、軍隊にあるまじき甘えととられるだろう。彼が軍の情報部に送る報告の一つで、小隊の指揮官の首がすげかわるなど、赤子の手を捻るほど容易いことだ。
ユーリの小隊は、それぞれが和を持つことでスムーズに運営できていた。尤も、無数の矢と飛礫が飛び交う前線に出たならば、いつも通りの穏やかさを保つことなどできはしない。
加えてユーリには実践経験がない。
つまり指揮官としての能力は未知数である。この雪中行軍自体も、アンドレイが立てた計画書に基づいて進行しているのが現状だ。
「まあ嘆いてもしょうがないんだけどね」
「そーそー。ねえ、ユーリ好きな人っている?」
「な、なにを急に言い出すんだよっ!」
ゆでだこになったユーリとニヤリとするマリアンは、少ない時間ながらお互いに安らかな空気を味わうことができた。
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